最近女性が病んでいるコンテンツがチラホラでてくるがなかなか考えさせられるものがあった。
主人公にイライラするしこんな友達がいたらいたで文句言ってしまうかもと思わされるぐらい惹かれる漫画だ。
主人公の田中未日子(みかこ)はいわゆる普通の平凡な人でやりたいことも追わず妥協して異性と付き合っている女性である。仕事はあり彼氏もいて好きな場所に行けるお金もあり人によっては悪くない生き方をしている。言われるように行動し下手に頭を使わず生活すれば不自由はないのである。
好きでもない仕事をして好きでもない彼氏と付き合って周りからどう思われるかを気にして自分の気持ちを押し殺し妥協しそこそこを手に入れて満足したフリをして生きている。
こんな人生に共感した人が多くいた?かもしれないと思うと気持ちが悪くてしょうがなかった。こんな人にはなりたくないという思いで気持ちが悪いと思いたい。
共感しなかった人でも心の奥底では主人公と同じように気持ちを押し殺して世間体だけを気にして幸せなフリをして生きることを悪く思わない気持はあると思う。
これが分かるのは社会の中の様々なことから分かってくる。
同じようなファッションをしている人が多い日本、同じような色、同じような服装、同じような発言、受験勉強も同じような人を作り上げチャレンジやリスクを取るよりもマニュアルに沿って生きたほうがいいと考える人が多いのが現代だと思う。
こんな漫画が話題になるのと社会問題に関係がないとは思えない。主人公は若干病んでいるから共感した多くの人ももしかしたら心の奥底で病んでいるのだろうか。
不景気で公務員になりたい好きなことなんて追いかけられないと思う人はたくさんいて答えが分からない世の中だからマニュアルにでも頼りたいと不安を抱いてしまうのも分かるので病みがないわけではないだろう。特に日本では。
給料も上がらない、男女ともに新しいことに挑戦できない好きなことを追えないなら妥協するにも生存戦略としても間違っていないだろう、しかし幸せになりたいという理想を妥協する社会が当たり前になると社会はどんどん貧困になり不幸になるのではないかと思う。
日本が海外のようになる必要はないが海外の例えばアメリカは我慢するより主張する人が多くて幸せを追いかける人は多い気はする。
気に入らないのが主人公は普通な人という位置づけなのに人を見下して生きているということである。彼氏を好きでもないのに付き合い、好きでもなくても付き合う人なんてたくさんいるのは普通だからと相思相愛を否定する人たちもいるということも世間はつまらない人が多いんだなぁと改めて考えさせられた。
こんな人にはなりたくないし好きでもない人と付き合いたくもないしパートナーが好きでもないと思ったらこっちからぶち切れて別れてしまいそうだ 笑
誰もの心の奥底にいる残念な人、田中未日子は現代日本社会の不幸そのものじゃないかと思う。彼女が求めた異世界は彼女のアップデートしていくために必要なものだった。それは言ってしまえばデザインと同じでデザインやクリエイティブは心の栄養であり社会と人の中になければいけないものである。日本社会が不景気の影響もありお金や世間体ばかり追いかけデザインを軽視してきたのなら、主人公のような人をたくさん生産してしまっている部分もあるんじゃないかと思ったりもする。
論理は感情に勝てないことはたくさんある。論理だけでは人は納得できないからデザインという論理を超えてしまうものは大切なのだ。クリエイティブと好きなことは密接だと思うから好きなことを出来ればしていけばいいんだけど、主人公は仕事を好きじゃないと得意な部類だからやっているのかもしれない。でもその生き方が向いているかどうかは論理ばかりで動ける人と感情がとにかく大切と思う人がいるように人によるんだと思う。主人公は世間体と論理だけで考える人生は実は向いていないのである。でも多くの人は感情が論理を超えるから拝金主義者か合理主義者でないと主人公と同じように辛いはずなのだ。合理主義者は主人公は周りと比べて幸せだというだろうけど感情を考えないなんて人間らしくない。多くの人が感情を抜きにした堅実な選択しかせず型にハマルことしか望んでいないのならいつかみんなの心は狂っていくんじゃないかと思う。ロボットのように感情に疎くなり夢を追えない夢を与えられないつまらない日本社会に少しずつなっていくのだろうか。ディストピア社会だ。
世間体やお金は大切だけど人生を輝かせるにはクリエイティブでいることのほうが大切だと思う。お金があっても有名でも心の中に栄養が無く満たされないクリエイティブでない生き方は人をいつか悲しませてしまうんだと思う。
やはり日本社会は心を無視していないように見えて男女ともに無視してきた部分はあるのかもしれない。世間体やお金を稼ぐだけがすべてじゃないのに勝ち負けを決めお金を稼げないと負けというのは資本主義であり競争社会であるから仕方がないけれど、それが当たり前というのはちょっと違う。この考えが胡散臭いのがどこか軍国主義的というか体制が人間らしくないと感じるからだろうか。
人間はクリエイティブでないと心は死んでいくのに心を無視する社会が資本主義だろうが競争社会だろうが健全なものとはあまり思えない。僕にもわからないけど心身ともに健全な資本主義、健全な競争社会というのはあるんじゃないかと思ったりもする。
そして主人公の残念なところは本人に自信がないことである。自信があればそれだけでスタイリッシュに見えてくるのに自信がないから見た目にも発言にもかっこいいと思える部分がないのである。見た目はトレンドとか言う話じゃなく自信があれば見た目がダサくてもかっこよく見えることはどこでもあることだと思う。辛かったり苦しいときほど何か大胆にできれば心は落ち着くしそれがいい心の栄養になると思うのに自信がないから大胆なこともできず最後はブチ切れて感情を爆発することしかできない。
血迷いや狂いを良く言えば解き放れた抑圧の感情なのだ。無くならない消すことが出来ない信じるデザインや気持ちがあるなら迷わないのにそれがないのが普通の人なのだ。かわいいは正義、それでもいいと思うのにいつも誰かが決めたカワイイばかり追いかけて自身だけなくしてまったくかっこよくない。
かわいいは正義はルッキズムじゃないし人類はデザインを信じてきたんだから不景気でデザイン軽視の世の中だからこそもっとデザインを信じるべきなだなぁと思う。
僕もスタイリッシュに生きたいものだ。
彼氏のほうも事なかれ主義で真面目で温厚すぎて自分を持っていない。真面目で温厚は悪くないものの生きている世界に情熱もなく何が人生で面白いんだろう?と感じてしまう。頭の中は自分のことしか考えていない自分のは傷つきたくない静に真面目にしていればなんでもうまくいくと考えているお花畑なのかもしれない。お花畑は政治家だけかと思いきや一般市民までもお花畑だと思うと日本は今後大丈夫なのか?と思ってしまう。
「みんなが同じ」が大好きなのは日本の問題点だけど、「普通の人でいいのに」が話題になるほど普通に疑問を感じる人も多かったのだと思う。普通なんてつまらないのは当然なのに残念なことに普通の基準が不景気により高くなりつつある世の中で普通を求めても出会えない人達、普通になりたくてもなれない人達がたくさん生まれてきていると思う。普通は普通であって満足できるものじゃないんだから求めるものじゃないはずなのに普通を求めて普通を手に入れたら手に入れたで満足できない矛盾。
最初っから心に素直に普通なんて求めないことが幸せなんじゃないかと思ったりもする。
これはもしかしたら心が貧困化しているのかもしれない。貧困の人は普通を求めると思うし日本は不景気が長すぎて心も考えも貧困化しちゃったのかな?と思ったり。
これは日本が貧乏になったとかなっているとかいう話じゃなくて心が貧乏ということ。発展途上国には日本をものすごくお金持ちと思っている人もいるし実際に貧困国と言われる場所と日本を比べると日本は貧乏ではない。でも発展途上国の人の心が活き活きしているように感じるのは少なくとも国が成長して将来が明るく感じているように心は貧困化していないんじゃないかと思う。それがバカで何も考えていないお気楽な考えなのかもしれないけど下手に考えて素直になれない日本人より心の健康的なんじゃないだろうか。
ミッドサマーでは明らかな社会への怒りも含まれていたし大胆にも主人公の気持ちを爆発させていく。彼氏は死に西洋社会を否定し新しい社会に主人公は居場所を見つけてしまう。
西洋社会でもよくデモやストライキや何かの運動があるので何かの破壊の連続である。
日本も下手したらそんな鬱屈した感情が爆発し重大なことが起きるんじゃないかと思ったり思わなかったりする。日本は西洋社会ほど破壊をし想像することに慣れているようには感じないからもし心の中で普通をおかしいと思うなら心に素直になれる社会にするべきなんじゃないかと思う。そうしないとミッドサマーの祝祭が形を変えて表れるかもしれない。いやむしろ日本は人を祝祭するより自殺により祝祭が粛々と行われているようにも見えなくもない。主人公は現実逃避で海外に突然行くけど、気持ちが限界になっている人は自殺する人だっているだろう。クリエイティブなデザインのない生き方なんてゾンビみたいなもんだ。
日本は海外より普通にこだわりすぎているから普通なんて嫌いぐらいがちょうどいいんじゃないかと思う。普通も大切だけど普通に縛られすぎると主人公みたいないな人になっちゃうかも。
この漫画から感じたことをまとめると
・クリエイティブに生きないと心は死ぬし主人公みたいに幸せのフリして狂っちゃう。
・デザインは人を活き活きさせる。
・普通に拘らないことは心は貧困じゃないし現代の日本の画一的な見た目が正しいと思うことを変えることになる。