吉野家で見えた、自分の安心の偏り

久しぶりに吉野家に入った。
牛丼そのものは知っているはずなのに、店に入った瞬間、思ったよりはっきり「ここは自分が普段いる外食の世界とは違う」と感じた。

別に危険な店というわけではない。
ただ、店の中に流れている時間の使われ方も、そこにいる人たちの空気も、自分がよく行く少し小綺麗な定食屋とは明らかに違って見えた。
その違いに驚いたというより、自分がどんな空間を無意識に選んで生きていたのかを、逆に見せつけられた気がした。

目についたのは、ひとりで黙々と食べる男性、職人風の男性グループ、ヤンキー風の若い男性、声を上げる男性と、その付き添いらしき女性だった。女性だけの客は見なかった。
店内の空気もかなりシステマチックで、食事の場というより、用事を早く処理する場に近かった。

もちろん、それ自体は悪いことではない。
安く、早く、ひとりでも入りやすい。1000円以下で食べられて、長居を前提にしない。そういう店が必要な人は多いし、むしろこういう店があるから助かる人もいる。
外仕事の途中で立ち寄る人、急いで腹を満たしたい人、会話や雰囲気より機能を優先したい人にとっては、とても合理的な場所なのだと思う。

ただ、自分が驚いたのは、価格やスピードそのものではない。
店の中に流れている時間の質が、普段自分が知っている外食の時間とかなり違って見えたことだった。
誰かと話すためでも、少し休むためでもなく、必要な食事を短時間で済ませるために人が集まっている感じがした。食べることが娯楽や気分転換というより、仕事や移動の合間に差し込まれる燃料補給に近い。そこにまず、普段自分がいる外食の世界との違いを感じた。

それでも、自分は少し身構えた。
別に誰かに何かをされたわけではない。ただ、その場に流れている前提が、普段自分が落ち着ける店の前提と違っていた。

その身構えは、うるさい客がいたからとか、怖そうな人がいたから、という単純な話ではないのだと思う。
むしろ、自分のほうがその空間のルールに慣れていなかったのだろう。長居しない、雑談しない、食べたら出る、必要以上に関わらない。そういう暗黙の前提の中では、自分が普段安心している「少し余白のある食事の時間」が存在しにくい。自分はその余白があることを、思っていた以上に食事の場に求めていたのだと気づいた。

自分がふだん行くのは、もう少し小綺麗で、定食が食べられて、高齢の夫婦や女性客やファミリー層もいるような店だ。
食べたらすぐ出るというより、少し滞在して、食後に飲み物を頼んで、会話が続いても不自然ではない店。
料理だけでなく、席に座ってから店を出るまでの流れ全体に、どこか緩さがある店とも言える。急いで食べる人がいてもいいが、急いで食べなければいけない空気ではない。黙っていてもいいが、会話があっても浮かない。そういう曖昧さや余白が、自分には落ち着けるものだったのだと思う。

自分はそういう店を、なんとなく選んでいるつもりだった。
でも、吉野家に入ってわかった。
自分が選んでいたのは、味や値段だけではなかった。
そこに集まる人たちの傾向、店に流れる緊張感の低さ、会話が成立する前提、振る舞いの荒さが表に出にくいこと。そういうものまで含めて、自分は「落ち着ける店」を選んでいたのだと思う。

つまり、自分の安心は中立ではなかった。
ただおいしい店、ただ清潔な店を選んでいたのではない。
ある種のざらつきが表面化しにくいこと、空間に最低限の均一さがあること、自分が身構えずにすむ客層であること。そういう条件の上に、自分の安心は成り立っていた。

今まで自分は、落ち着ける店を選んでいるだけだと思っていた。けれど実際には、落ち着ける人が集まりやすい店を選んでいたのかもしれない。
料理の味や値段や清潔感だけではなく、その場にいる人たちの振る舞いがある程度そろっていて、急に空気が荒れたり、強い生活感がむき出しになったりしにくい場所を選んでいた。
そう考えると、自分が「雰囲気のいい店」と呼んでいたものの中には、かなりはっきりした客層への好みが含まれていたことになる。

このことは少し嫌な発見でもあった。
自分は店を「雰囲気」で選んでいるつもりで、実際にはその場にいる人たちのふるまいや生活感によって守られていたのかもしれない。
落ち着く空間を好んでいるだけだと思っていたが、その落ち着きはかなり具体的な偏りの上に成立していた。自分は多様なものに開かれているつもりでいて、実際にはかなり慎重に、かなり無意識に、自分が安心できる世界を選び取っていたのだと思う。

注文方法にもそれを感じた。
対面のやり取りを減らす仕組みは合理的だ。注文のすれ違いも減るし、会話が得意ではない人にとっては助かる。店側にとっても、客側にとっても、余計な摩擦を減らす意味があるのだろう。
その合理性を否定したいわけではない。むしろ、こういう仕組みがあるからこそ成立している快適さや公平さもあるはずだ。

ただ、その合理性が店の空気をさらに無機質にしていた。
誰かと何かをやり取りする場というより、必要な食事を静かに済ませる装置のように見えた。そこに少し寂しさを感じた。

ここで気づいたのは、自分が思っていた以上に、人とのちょっとした会話が好きだということだった。
別に深い会話がしたいわけではない。注文のひとこと、会計のひとこと、ちょっとしたやり取りがあるだけで、自分はその場を「店」だと感じやすいのだと思う。
逆に、そうしたやり取りがほとんど消えた空間では、食事はできても、その場にいる感じが少し薄くなる。自分は効率だけでできた場所より、少しだけ人の気配が残っている場所を好んでいたのだと、吉野家で逆に気づかされた。

吉野家は、安くて早い庶民の店だと思っていた。
でも実際に久しぶりに入ってみると、「庶民的」という言葉の中にある偏りがよく見えた。誰でも入れる店であることと、客層が均等であることは全然違う。
安くて開かれている店ほど、むしろ生活の違い、働き方の違い、会話の要不要、食事に求めるものの違いが、そのまま出やすいのかもしれない。

遠くの知らない国に行かなくても、身近な外食チェーンの中にすでに別の世界はある。
そして、その世界に驚いたということは、自分もまた、別の偏った世界の中で安心していたということだ。

牛丼はおいしかった。
でも、久しぶりの吉野家でいちばん強く見えたのは、牛丼ではなく、自分の生活圏の輪郭だった。

関連コンテンツ



スポンサーリンク
レスポンシブ 広告
レスポンシブ 広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする