最初のこの映画を知ったとき第一印象で面白くなさそうだと思っていた。
温泉旅館の話?何が面白いんだろうか、絵も好みじゃないしどうせつまらないんだろうなぁ、でも良かったという話を聞くので騙されたと思って見てみようかな、と見たのである。
そしたら
「・・・・おっこちゃん・・・(´;ω;`)ブワッ」
良い意味で期待を裏切られ涙が止まらないとはこのことである。
おっこの気持ちを想像するだけで僕の心も張り裂けそうだった。
甘えたいし、愛していた両親がもういないことを受け入れることはものすごく辛い。大切な人の死に直面したことがある人なら泣かずには入られないだろう。
両親が死んでも周りがおっこを心配してくれるから頑張ろうとするおっこだけど自分の心を誤魔化して生きることなんてずっとできないし、いつか向き合わないといけない。死んだ人がまだ生きているんじゃないかとずっと思っているおっこには両親の幻想が何度も見えるのも見てしまう。おっこが夢の中で両親の布団の中に入って「なんだ、生きてたんだ」と思うけどそれはまだ両親の死を受け入れられない。
実際に大切な人の死に向き合ったときに壮絶な悲しみに鬱になり自殺まで考える人だっている。普通だったら美少年のアカネのようにひねくれた人になりそうなのにおっこは幽霊たちがいるからなんとか気持ちを保っていられる。
受け入れられないことに向き合わないといけないとき、受け入れる強さを得るには「好きだから」だ。
泣くおっこが見てしまう幻として出てくる亡くなった両親はおっこに
「おまえが生きていてくれることが嬉しいんだよ、おっこは一人じゃない」
という。
お占い師のグローリー水領もおっこは一人じゃない、亡くなった両親は見守っているんだとなぐさめる。それによって心を落ち着かせていくおっこから出てきた言葉はおっこの心の奥にある大切な想いのある言葉だった。
「花の湯の温泉は神様から頂いているお湯、誰も拒まないすべてを受け入れて癒してくれるんだって」
おっこにとっての亡くなった両親とつながれる言葉であり大切な大好きな祖母の言葉。好きだから好きな人からの言葉がおっこの背中を押してくれる。好きだから苦しいことも受け入れ成長できる。好きだから涙を浮かべながらおっこは「春の屋の若おかみです」と子供のおっこの心を殺して若おかみの役割になりきろうとする。かわいそう、切ないということだけでなく好きなことを大切にすることは強く成長するんだというメッセージに僕は感じるのだ。
一途さとは辛くても頑張れる力を秘めている。辛い勉強や仕事があっても好きだから頑張れる。おっこはただ好きということでなく亡くなった両親に寄り添うことであり、好きにならないといけない環境があり大切な好きとともに生きられる仕事を生きがいにしている部分がある。
好きが生きがいになり好きがとても大切なものなら辛くても成長できるんだということである。好きだから嫌いだった虫も最初は怖がっていた幽霊もおっこは受け入れだすのである。
僕は幽霊はイマジナリーフレンドでなく本当に幽霊がおっこを助けたんだと考えている。イマジナリーフレンドにしてはあまりにも的確な指示で想像上の友達では終わらないことをしているからだ。幽霊が助けるという映画は多々あり、幽霊が助けるような「近代に沿わない」考えこそこの映画の重要なポイントだと思う。
一方、好きなことを仕事にするより得意なことを仕事にしたほうがいい、と言う人はいるだろう。好きを仕事にしても嫌いになり情熱はなくなるという。それも正しいとは思う。でもそれは好きの度合いが違うのだ。「本当に好き」ならどんなに辛くても成し遂げられるはずだからだ。
歴史を見ても古代カルタゴと共和制ローマが戦い、圧倒的に有利だったカルタゴが負けた理由は雇われ兵士で固めたカルタゴは忠誠心がなく愛を持っていないからである。大切なものを心に持っている人は戦いにおいても強いのだ。
好きなことを仕事にしないほうがいいというメッセージは「一途にはなるな」と言っているようである。一途なほうが人類は力を発揮してきたと思うのに一途になるななんてバカげている。
好きなことのほうが勉強しても頭に入りやすいのになんで好きでもないことばかりやるのか。そこには経済倫理しか考えていない腐ったシステムがあるんじゃないかと思う。
だから僕は経済倫理から離れているおっこの世界に憧れもあったんだ。狂った競争よりも伝統に従えばそれでいい。デフレで不安しかない世の中だからこそ伝統の安定感に惹かれたのだろう。
世の中には転職してくれたほうが経済的に喜ぶ人たちがいるので「好き」や「大切」に拘る伝統を嫌う人はいるだろう。
しかし現在世界は伝統への回帰に動きつつある。今までのグローバリズムのおかしさに距離を取り出したドナルドトランプ、移民問題で距離をとりEUから離脱したイギリスといったように今までのグローバリズムは進むべき道ではなかったのではないかと考え出している。
そんな中で見たのが「若おかみは小学生」である。伝統と距離をとり続けてきた近代と正反対な価値観を見せ付け伝統への回帰を誘うようである。
おっこは家業として育ててきた温泉旅館があるから救われるわけだけど、家業を無くそうと伝統を無くそうとしてきた今までの日本のやり方では僕の心の奥底にある不安や悲しみを癒すことはできなかったからこそ不条理を感じそこにおっこちゃんの涙と立ち直り方に救われるのだ。社会が伝統を壊してきたことで救われないなら伝統を見直さないといけないのではないかと思わされた。
昔の日本では就職の自由は無く家業を継ぐのが当たり前だったと言われているが、就職の自由といいながら実際には自由はなく競争で勝ち取らないといけない社会は貧困を拡大させ社会不安を増大させているように見える。就職の自由とは本当に自由だったのだろうか?おっこのように伝統と大切にすることも今の日本に必要な幸せの形なのではないかと思えるし、好きでありたい好きなだけで何がいけないのか理屈なんて関係ないんだと、それだけで苦しさに負けずに生きられるおっこが羨ましい。
そして幽霊なんて信じない、非論理なことなんて受け入れないという倫理が当たり前にある世の中に幽霊達によって心を救われるおっこや死んだ姉を想起させるセリフに涙を流す真月を見て非論理を否定することは本当に正しいことなのだろうか?と思わされる。
亡くなった人が現れることはない、キスすることはない、でもそう想う願う気持ちがあってもいいし、幻想でもそう見えることで救われるなら西洋医学では救えない正しさがあるのではないかと感じる。小説では現実と幻想が融合する魔術的リアリズムというテクニックが使われたりするように幻想と人類は切っても切れない関係があるんだと思う。人は長い歴史の中で非科学の世界を信じて生きてきたはずなのに現在ほど目に見えるロジカルなものだけに拘る時代はまだまだ浅い歴史でしかない。
人類にとって大切なものは経済倫理だけでなく非論理も非常に大切なんだと思えてくるのだ。
幽霊を僕は信じていない。しかし過去の大切な人は心の中だけでも生きていて欲しい、いつか会えるのならまた会いたいと思う気持はある。忙しく泣く暇もない世界に寂しさを忘れても大切なことまでは忘れたくないんだ。おっこが寂しさを忘れるほど目の前のことに夢中になっても大切なことを忘れないように。
ただちょっと笑うべきかどういう気持ちで見ればいいかわからなかったのが真月が泣いているときのおっこの表情。もう幽霊のウリ坊とミネちゃんと会えなくなることを知っているおっこが真月の死んだ姉のミネちゃんが真月にキスして泣いているのに、もう寂しいことを考えたくないと気持ちを押し殺しているのか自分の気持ちを見ないようにしているかのようにも見える。
そしてウリ坊が最後に「おっこ!今日は神社のパワーマックスやー!」ということや「生まれ変わってまた会える」という言葉には現代の論理ではできない心の救いが伝統の中にあるようだ。輪廻転生なんて信じないと考えるのは自由である。でも信じないけどあるかもしれないと思うことぐらいならできるはずである。経済倫理ではなくもう会えない人同士の優しさなのだ。人の死が続いていく人類に死んだ人にまた会えるかもと思いたい気持ちは人間らしく自然な考えだと思える。
そんな気持ちをを置き去りにしてきた現代社会に「若おかみは小学生」は心に突き刺さるのだ。
自由主義が自由にしたことは伝統の力を弱め個性を薄めアイデンティティの消失に繋がっていたのではないか?と思うのだ。
海外に行くと個性的ということがとても大切になる。個性的とは伝統にあると僕は思っている。伝統を距離をとればとるほど「日本人って何もないんだな」と思われるたり、伝統は実は多様な社会になればなるほど輝きだすものだと思う。
これから多様な社会になった場合、日本人は伝統の無さに喪失感を感じる時代が来るのではないかと思ってしまう。僕はおっこちゃんの両親を無くした喪失感からそう感じるのだ。日本文化の見直しを考えさせられたのは大きな価値ある映画だろう。
第一印象だけで食わず嫌いをして見ないようにしていたことをバカだったなぁと思ってしまうほど良かった。中身が大切なのである。おっこも気分が悪くなっている美少年アカネを最初は身なりで判断して宿に誘うべきか迷っていた。でも春の屋はそういうところじゃないことをウリ坊に諭されおっこが誘うのを見て、僕も知らない間に人を見た目で判断していると思わされた。ハリウッド映画は中身に焦点を当てていないものが多いようにYoutubeでも中身よりも見られることだけに焦点を当てているものは多いように、そんな消費するだけの世界に寂しさと空虚を感じる。そんなんじゃ心が枯れちゃう。おっこの心が枯れないのは中身を見るからだし、心に大切なものを持っているから。もし見た目で判断してしまいそうになったらこの映画を思い出したい。おっこちゃんは見た目で判断しないんだと。
個人的にあまり良く思わなかったところが映画にはある。色々楽しい「若おかみは小学生」だけどグローリー水領とおっこは買い物に行ってストレス発散するのだけど、小学生から買い物でストレス発散してたら将来金遣いの荒い子になっちゃうのかなーって見ちゃった。買い物中毒のようなことは道徳して良くないので、子供への良い映画として見せる場合気をつけて見せたほうがいいだろう。グローリー水領は嫌いじゃないけど、彼女を参考にしたら女の子がバカになるんじゃないかと思う。まず女性だから買い物が大好きだということが勘違い。この理由は少なくとも僕の周りの女性の中には女性が買い物が好きという考えに反対する人もいることと、男女脳の違いなどもステレオタイプに違うものだと考えるより違いかもしれない傾向はあるぐらいに考えないと僕はいけないと思うぐらい、男女だけで区別できないことは世の中たくさんあると思うからだ。
浪費癖があるのだろうと思うのも乗っている車はポルシェであり、さらにスポーツカーと紫色のネイルからナルシストを感じさせる。個人的に紫色はスピリチュアルなイメージもあり、占い師であるグローリー水領にはピッタリ。でも彼女の態度やファッションや行動から見えるナルシストっぷりは自分のことがかわいいと思っている、SNSに自慢をアップするタイプか?モテると勘違いしているタイプか?など思ってしまい若干イタイ人の印象を受ける。特に温泉のシーンですっぴんをあえて見せるのも自分のすっぴんに自信があることを観客に見せているようである。すっぴんに自信がある人は自分をかわいいと高確率で思っているんじゃないかと思う。
しかも憧れの女性であるはずのグローリー水領はヘビースモーカーである。この姿を憧れにするのは児童に勧める映画としてはありえないだろう。
タバコ
スッピン
ポルシェ 品川 む 9601
さらに不思議だったのがグローリー水領は海外が長くて浴衣を着なくていい、でも着せてほしい、と言っている。奇妙なのが海外滞在が長ければ日本の文化に興味を持ち浴衣を着たいと思うようになるんじゃないかと僕は思うんだけど、彼女は自分からすすんで着たいわけではない。いったいどういう気持ちなんだ?と考えていると、彼女は日本の伝統の宿の春の屋を選んで泊まっているため日本の伝統には興味があるしむしろ好きかもしれない。でも着方が分からなくて恥ずかしいのか、何か気持ちが引っかかって躊躇していたところにおっこに着せてもらう流れになったんじゃないかと思ったりもする。着せてもらえるなら着たい、着せてといいやすいおっこきたらか着ることに挑戦できたと。
プライドが邪魔しているのかのように見えてひねくれてる人の一面もある。
ちなみに僕はグローリー水領みたいな女性は嫌いじゃない。自立していて自分の意見も持っており日本の中にいたら自由な生き方をしている女性だろう。古い女性の行き方に縛られない彼女に憧れる人がいてもおかしくない。ナルシスト女のイタイ人でもすっぴんをかわいいと自画自賛する人だとしても事実かわいいのだから文句はないし、自信をもっていいるその生き方はかっこいいと言えるだろう。ただ児童が憧れる対象にするのは違うかなと思う部分が多々あるだけである。
ちなみにグローリー水領は東京都港区三本木3-11-1 三本木ヒルズ24階に住んでいる。
架空の住所だが三本木を六本木に入れ替えると実際の六本木ヒルズの住所となる。q
稼ぎまくっているやりて占い師、つまり占いに依存している弱者を捕まえて稼いでいるという感じだろうか。そういう人は金の亡者みたいなイメージもあるのでおっこは憧れないで欲しいと思ったり思わなかったり。
だけどグローリー水領は優しいんだよなぁ。
名刺渡して営業するんじゃなくておっこを占って上げればいいのにって思ったりもした。
おっこちゃんはいい子だけど、見方によっては狂っている女の子だ。
まずPTSDで幻覚を見たり、過呼吸になったり、幽霊に最初遭遇して怖がったり、涙を流して必死で幻覚に向かって泣き叫ぶわけだ。
第三者からすると、え?どうしたの?普通の子じゃない、となると想像できるのは容易である。
子供なのに子供らしく生きることができない中の幸せは自分を押し殺して役割になりきらなければならない。そこには愛があるけど苦しさの先にある愛は人によっては完全にハッピーエンドと思わない人もいるだろう。バッドエンドの中のハッピーエンドつまりメリーバッドエンドと思うこともできなくもない。死を取り扱う映画であり、輪廻転生に絡んだ話でもあるのでそれを受け入れられない人は狂った世界であるだろう。例えば映画ミッドサマーでも過呼吸があり幻覚を見てメリーバッドエンドになるわけである。おっこちゃんと幽霊達がもう会えないというラストに幸せを感じる多幸感だけでなく悲しさ寂しさ切なさも感じる。
会えるわけないのに輪廻転生を信じて前を向いて生きているおっこに涙が出そうだった。死んだ人が蘇るわけがないから輪廻転生をあるかもと受け入れてもないかもしれないという狭間の中で不条理さと苦しさと悲しさから逃れられないのである。だから素直に喜べない人もいるだろうと思うのだ。
いつか会えると想いは片想いにしかならないし、永遠に届かない想いを子供に抱き続けさせることに罪悪感を感じたりするのだ。
子供がこんな体験をしたら間違いなくつらいと思うし、これを感動と単純に捕らえるのは大人の都合なんじゃないかとも思う視点もある。子供を使った大人のための感動ポルノ。そこまでいうのは言い過ぎかもしれない。おっこが若おかみになりきることでみんな立派だと思いが涙を流す。でもおっこの気持ちを考えたらただ美しい、立派と感動する気持ちでなく切なく、胸が張り裂けそうなほどやりきれない気持ちに苦しくなる自分も別にいたりするのである。
特におっこが事故の原因になった人とお客として対面して幻覚を見て涙を流して叫ぶシーンは狂気さえも感じさせてくる。涙腺崩壊映画ではあるけど心が狂って崩壊しそうな映画でもある。終わりのない孤独があるのにPTSDからの孤独が一生無くならないのがわかるのに子供の無邪気さを感じさせながらも頑張って笑顔で「花の湯の温泉は神様から頂いているお湯、誰も拒まないすべてを受け入れて癒してくれるんだって」と言うのはあまりにも辛い。
苦しくても好きなら生きられる好きだから気持ちを保っていられるはずである。
おっこは強いと強者の理論で考えることはできるが僕はおっこはそんなに強くないと思っている。弱いから無理やり好きで気持ちを押し殺して現実逃避だって出来る。世の中、ネットで見つける声は「毎日が苦しい、生きることが辛い、生きる意味を感じられない」という悲痛な声がたくさんある。彼女ら彼らには一番大切な人に自分を大切にしてもらいたい時期に大切にされなかった人も多いらしくそんな人たちがどうやって自己肯定感を育めるのか。おっこも同じである。理屈なんていらない愛が欲しい時期に厳しいけど愛がある祖母はいるけど親とは違う愛であり、普通の親の愛を受けられない子が自分の気持ちを押し殺してがんばっても本当の意味で自己肯定感は育たないと思うし、いつか爆発しちゃうんじゃないかと思ったりする。
この状態から解放されるにはそんなやるせなさや哀しさを喜びに変えられるほど狂うしかないと思うから心の奥底は狂った女の子に見えなくもないのだ。だからメリーバッドエンドなのかと思えたり思わなかったり。
でも日本の文化には死と密接した切ないやるせないものを受け入れて喜びに変えるものがあると思うからこの状況を救いだと感じるべきだと思うけど。
こんなことを考えていると映画ミッドサマーみたいに感じてくる。
おっこが苦しさの中から居場所を見つけた場所は伝統の中にある世界だった。
世間一般的な競争とは違う世界で古臭い世界だけど自由な選択がなくても役割になりきることで救われる。それはある意味自己を押し殺し自己をなくすことで不安から解放され自由になる主張するよりも自己がないかのように合わせることで不安もなくなり苦しさから解放され安心し自由を得たような状態なんじゃないかと思えるのだ。
これはミッドサマーでも過酷な個人主義、競争の世界とば別の世界に居場所を見つけた主人公ダニーは自己を失い完全に自由を得るわけだ。
おっこが過呼吸になったり愛を求め泣き叫んだようにミッドサマーのダニーも愛を求め泣き叫び過呼吸になるのである。どちらも「一人じゃない」という強いメッセージがある。魂が引き裂かれるような狂った叫びから解放するには狂ったことを受け入れ狂わなければ救われないのである。おっこもミッドサマーも宗教の世界であり宗教はある意味狂っている世界であるので狂いに救いを求めた物語なのだ。
でもそんな狂いはいたるところにある。普通なおかしいといわれることも好きなら我慢できる、許せる、受け入れることができると自分を押し殺すことはどこにでもあることで、自己が強すぎるとそれが出来ない。監督の好きなら頑張れる辛くても生きられるというメッセージは僕にとっては多くの人が忘れている伝統の中に大切なものがあり、それは狂いかもしれないけど狂いだっておかしいものじゃない。他人からみれば頭がおかしいと思われるところにも愛も成長もあり人間らしさがあるのである。
ミッドサマ↓
話の展開はおっこの気持ちに寄り添うというより大人の都合で進んでいるようには見え、おっこがなんとか大人に言われるように頑張って見える。伝統とはそういうこともあるけどそこから自分を見つけ強くなろうとするおっこを応援したくなってくる。
ウリ坊とミヨちゃんが最後に消えていなくなることで不安な顔をするおっこを見てPTSDは簡単に治るものじゃないと思うからまた後でちょっとだけ泣いちゃうのかな?って思ったりもする。
でもどんなに辛くてもいつか季節の終わりの切ない想い出を思い出すかのように淡い気持ちで思い返せるときがくるのかな?と思いたい。怖くて苦しい想い出も懐かしく愛おしくなるものだと思うから。絶望が懐かしい、そう言えるときが来れば成長したと言えるのかもしれない。
他の人と比べて当たり前の人生じゃなくていいしおっこのようにドジで雑でもいいんだ。出来る人からすると真月みたいにおっこに「バカおかみ!」っていうだろう。でもバカでも精神病で狂ってても一途な気持ちが真月に「バカおかみ」と言わせなくなるように心が大切。だから普通の家族愛が欠けて生きるおっこに「ただ自分の信じる道をいけばいい」と言いたい。辛かった思いではかさぶたが取れるようにいつか終わるから自分の心を裏切らないで信じて進んでほしいと。その道が他人から見ておかしい、おっこがかわいそうと言われても、そこにはおっこと周囲の関係に深い愛があることを知っているから僕はおっこが間違っているなんて思えない。
頑張れおっこ!