グスタフ・クリムトの作品から見えるさまざまな考察

僕の好きなアーティストの中にグスタフ・クリムトがいる。クリムトが見せるアートには日本の感覚、文化を見つけることができ、西洋と東洋の合体した奥深いものを感じる。人それぞれアートからとらえる感覚、見え方というのは違う。そのためこの記事では僕の個人的な考えということを伝えておく。

クリムトの作品で好きなポイントは死の中の美しさというものをクリムトはうまく取り入れている。死というのは枯れそうなものだったり色使いだったり、それは言ってしまえば日本のアイデンティであり日本とは何なのか、自分探し自分の発見、現代社会とテーマというところまでクリムトの作品からは見つけることができる。そしてクリムトの作品と切っても切れないアニメの話まで頭の中をいろんなことがめぐる。クリムトの作品に行き続ける日本のアイデンティティと日本アニメの共通点。日本文化論、アニメ文化論、現代文化論などのさまざまなことを考えさせられる作品だ。そのクリムトの作品の面白さを順番に説明していこう。

作品:接吻 The Kiss

一般的にはこの作品は男女の愛であり官能的に描かれている。崖のという危険の状態でのキスが死が隣り合わせになっており儚い中の美しさを表現している。

クリムトはエジプトやビザンティン、日本画からテクニックなどを学び自分のアートに取り込んでうまく表現している。そしてクリムトが日本のことをかなり学んでいたことと、当事はジャポニズムという日本の物をかっこいいと思うムーブメントがあり多くの部分に日本の感覚が取り込まれていると思われる。

The Kissが見せる儚い中の美しさとは伝統的な西洋芸術には無かった表現でありアジアの中でも特に日本芸術のに見られる特徴だ。この抽象的でダイレクトには伝えないメッセージはさまざまな日本のアートから見つけることができる。

クリムトが学んだかどうかは分からないが例えば日本の「能」。子面(こおもて)のお面からは顔の表情が変わらないお面をつけているけど体中で感情を表現し、お面からは悲しさも喜びも感じてきて見えないものが見える美しさがある。狂言が生まれた時代は死が近い時代だったからこそお面から伝わる感情には儚さが込められていると思う。動かない目は魂を表わす鏡であり隠されたメッセージを伝えつづけていて、それは狂言の美意識であり死生観なのである。クリムトの作品とは「能・狂言」のような禅、日本の独特の死生観をうまく取り入れていると僕は思う。

The Kissは今にも崖から落ちそうであり、落ちるかもしれないという不安もあたえながら人物は恐れを感じていないように見える。女性の目は閉じており目からは感情を読むことができない、男性の後ろに回す腕や女性の小さくなる肩には明らかな抽象的なメッセージがある。そこに愛という永遠に続くかのような美しさがありながら死ぬかもしれない儚い一瞬はさらに美しさを増幅させる。

壊れたら無くなるという美しさはフラワーアートや秋の綺麗な紅葉のようなもので今だからある美しさ、生と死があるかこその美しさというものをクリムトは取り入れている。

金色とは西洋でも東洋でも聖なる光であり特別な色なわけだけど、The Kissのバックの金色のくすんだ模様からは、まるで日本画のにじみを使った「たらしこみ」技術を表現したかのような表現に見える。ただ金色に輝かせるだけでなく、くすんだように見える些細な表現から悲しさ儚さが感じられる。それはクリムトが学んだ過去の金をつかったビザンティンアートには無い金の使われ方をしており日本の精神を西洋の精神に金を通してうまく融合させたものになっている。

ビザンティンアート↑

とても長い西洋の歴史と金の伝統的な聖なるものとしての使われ方が、儚い美しさと悲しさを加えることで奥が深いものとなっている。僕はクリムトのアートは「なんて多様なんだろう」「なんて儚くて美しいんだろう」と秋の紅葉の森を見るかのような感情で見てしまうのだ。

多様性を無くそうとアメリカではアメリカ人優先の政策をしていくなかクリムトのアートからは時代とは逆に多様性の素晴らしさ、ダメだと叫ばずステレオタイプにならず見えないものを見る奥深さを教えられる。

僕はクリムトの作品から数々の有名なピアニストの曲が聞えてくるように感じる。代表的なものにはリストのラカンパネラがだ。リストはクリムトのThe Kissが出来る前に亡くなっているのだけど、クリムトと同じ時代に生きた人になる。この時代の演奏家達はオーストリアやドイツなどいろいな国で演奏しながら移動していたのだけど、その中にリストも含まれている。ラ・カンパネラのエレガントな旋律とは対照的にドラマティックで悲しさも感じる音色であり、あまりにも難しいラカンパネラは一歩間違えれば失敗していまう危なさとそれを完璧に弾いたであろうリストの練習とその尊さと命の儚さにはクリムトの作品と時代背景にとても合うように思うのだ。

もちろん日本だけでなくエジプトからの影響を受けているので服装や丸の模様はエジプトっぽいし四角の模様はモザイクタイルが使われたビザンティンアートに似ている。しかしこれら丸や三角や四角は仏教の「天地人(てんちじん)」という万物の基本形と取ることもできるし三角というキーワードは西洋アートのトリニティ(三位一体)とも似ている。とても多様な文化があって面白い。三角はもしかしたら、おむすびなのかなー。

作品:生命の樹  Tree of  Life

この作品からはエジプトと日本の影響を受けたというのが強くわかる。四角や三角、目のような模様はエジプトから影響を受けていると考えられるし、真ん中辺りにいる黒い鷲もエジプトの模様に似ている。

しかし僕が注目したいのは日本の特徴である。生命の樹は尾形光琳の作品から影響を受けているといってもいいほど似ているところがある。上でも述べたように、にじみの表現を使ったアートを「たらしこみ」というのと余白を含めた大胆な構図、そして二曲一双(にきょくいっそう)という、二つの面の屏風を二つ並べて対照的にしているのが尾形光琳などの琳派(りんぱ)の特徴なのである。この特徴がはっきりとわかるのが「生命の樹」なのだ。

尾形光琳の紅白梅図屏風↑

両サイドの木と生命の樹の両サイドの人は位地が類似している。真ん中に流れる川は生命の樹では木が立ち、気の枝の渦巻く様子は川の渦巻きにも似ている。古びた両サイドの木からは死を感じさせるけど、何もない空間と木と川の構図はバランスがよくとても美しい。静けさの中の美しさ、わびさびのようなものがあるのだ。生命の樹は西洋では珍しい何もない空間というのが枝と枝の間に無数に存在する。儚さと静けさの中の美しさは非常にパワフルな感情を見るものに与えてくる。

この静なのに儚いのにインパクトがあり感情にささるテクニックこそ日本のテクニックなのだ。例えていうならベトナム戦争戦没者慰霊碑だ。空から見るとシンプルなV字のモニュメント。シンプルすぎて慰霊碑とわからない人もいるかもしれない。しかしこの形やさまざまな工夫は日本のわびさびから取り入れている。ダイレクトに伝えるメッセージではなく抽象的であり静けさの中の美しさと悲しさ。Vの意味は平和のピースサインであり、モニュメントに近づき黒い壁を見ると死んだベトナム人の名前がびっしりとかかれており鏡のように光る黒い壁に自分の顔がうつりこみ、死者の名前と自分の顔を重ねてみることで自分を見つめ、死者の気持ちにたつことになる工夫がされている。これもわびさびから取り入れている。シンプルで自然と調和しようとしているように見える静けさからは、禅の自然と調和することによる悟りの境地を知るということにも通じるように思う。

ベトナム戦争戦没者慰霊碑↑

生命の樹には同じことが言える。クリムトが悟りの境地というのを意識したかは分からない。僕も悟りの境地は達したことはないのでわからない、でもそのような感覚をなんとか西洋のアートに取り込もうとしていたにちがいない。

慰霊碑からもわかるように日本の芸術とは社会に抽象的に訴える力がある。生命の樹の隠されたメッセージとは愛なのか、平和なのか、エロなのか。僕はすべてだと思う。真ん中の木は地球を覆うかのような大きな広がり空に到達している。根っこはしっかりと地面についていてそれは男性の大きな愛であり優しさなのかもしれないし、地球の大きくつつむ平和の象徴かもしれない。エロはクリムトの18番なのでいうことなしだ 笑

アニメ エリフェンリート

このアニメを知らない人も多くいるかもしれない。古いアニメではあるけどアニメのオープニングではクリムトの作品とアニメを融合した絵を使い、歌のタイトルは「Lilium」(リリウム)、ラテン語で百合のことで百合は聖母マリアの象徴である。歌はスペイン語で東洋のアニメとキリストが融合したかのような歌のタイトルはクリムトの作品にとても合う。さらにクリムトのエロさの中の美しさと悲しさとエリフェンリートのエロさの中の美しさと悲しさが面白いほど似ている。曲の美しさとタイトルの百合、グスタフの西洋と東洋の融合した生と死の世界からは、美しいと世界の人々が絶賛した時代があったのだ。世界の教会で歌われたエリフェンリートのLiliumの人気からアニメをオタクとバカにせず宗教をも動かし、アニメは世界のかけはしになるアートだということを再度認識させられ、クリムトのすごさをあらためてしるのだ。

公式の動画が無いのが残念。

Elfen Lied Opening – Lilium
Lilium (Kyrie) – Coro Ars Nova

そして福島の東日本大震災のためにエリフェンリートのLiliumも歌われたことは忘れることができない。

Lilium "Elfen Lied"-エルフェンリート

Liliumとクリムトの作品は生と死、ユートピアとディストピアがテーマと言っていい。それはエリフェンリートも世界観と似ている。またクリムトが日本画の影響を受けて伝統的な西洋のとてもリアルな人でなくどちらかというと平らな人を表現しているので、西洋のアニメシリーズとクリムトの作品を合わせるより日本の作品と合わせることがとても合うと思う。Liliumはクリムトの作品でなくてもあうと思うのだけど、アニメとクリムトの融合というのが芸術性を感じさせてくるのだ。なぜなら説明したようにクリムトは日本の文化を含んでいて、アニメと融合していることと、もしクリムト生きていてこのアニメを知ったらもの高く評価し喜んだだろうと思えるからだ。クリムトが評価することで芸術という評価はさらに高まるだろう。

クリムトの作品から見える日本の未来

説明してきたようにクリムトの作品はうまいこと日本の美学と取り入れている。これは多様な文化が同じ場所で共存していて日本の文化と西洋の文化はうまく調和させることができるともいえる。現在日本では外国人労働者を増加させようとしているもののまだまだ多様な社会とは言えない国である。留学生は行方不明になり外国人労働者は日本の労働環境に不満を感じ、また年齢差別や見た目での差別が残り多種多様の人が安心して満足して働ける国ではない。しかしクリムトの作品からは多種多様の文化(エジプト、キリスト、ビザンティン帝国のアート、日本の美学)があり、それらはケンカをしていない。この事実からは日本は多種多様なものとうまく共存することができるという日本の将来を見ることができる。

しかしこの共存は日本の伝統的な美学を用いた共存なため現在の美意識とは若干違う。例えば、この日本の美学は現在失われつつあったり間違った方向に使われることがあると僕は思う。特に戦後日本が復興してきたあたりから美学は路頭に迷っているように思う。

クリムトの作品から見える日本の美学とは

・禅の思想、わびさびという美、生と死という哲学

といったものだと思う。

禅は悟りを開く思想であり悟りとは自分の考えをゆがめているものに気づいたり、普通では気づけない新しいことに気づくことだと僕は思っている。伝統的な西洋美術ではリアルに描くことが求められてきた。そのためクリムトが取り入れた日本の美学は西洋文化で育った人達に悟りを開くかのごとく理解してもらわないと今までの伝統的な西洋芸術の人達になかなか理解してもらえないものだと思う。それは簡単にいうとどう美しいのかを理解してもらうということである。クリムトの作品は日本ブームもあってただかっこいいという感情もあっただろうけど、芸術というところまでもっていけたクリムトの作品は西洋の伝統的な芸術家に理解してもらうことで芸術になりえたと思える。それはクリムトが西洋と東洋の美を理解したからできたことなのだ。現在の日本では海外の人と触れ合うことができるのに触れ合わない人や日本の美について外国人の理解が進まないので日本を変な国や価値観が合わないと思われたりして日本はガラパゴス化しつつあると思う。意思の疎通が出来るように英語を学び偏見をもたない人になれたとき平和的な共存が出来るようになるのではなかと思うのだ。

わびざびとは質素で静かなものだけどそこには質素と静に見える構図、配置、色、形、大きさなどが計算されて置かれている。そこに無くなるかもしれない失うかもしれない要素が加わることで儚いものへの尊さと美を感じるようになる。現在、儚い美しさというのは徐々に忘れられていると思う。情報化社会になってから西洋文化が大量に入ってきて映画でもゲームでもテレビでも西洋思想に簡単に触れることができる。さらに拝金主義が広がりつつある日本でわびさびを感じる気持ちや美を考える時間さえないのではないかと思うのだ。世界が認めるわびさびを理解しない人が増加していると思うと日本は将来日本国内でさえうまく調和を保てなくなるのでないかと思えてくる。美学は教育をしないと理解できないため美術教育に意味を感じていない人が多いことは危ない傾向だと思う。わびさびは日本の重要な美意識なため多種多様な人が共存するには理解が必要だと思う。また日本では日本人としてのアイデンティティが分からない人がいることも自身を失う人が多くなる原因だと感じる。クリムトの作品のように日本の美を力強く自信を持って見せられるように将来の日本はなれると僕は思っている。

生と死の哲学はわびさびとも関連しているが刹那的な美しさだ。紅葉を見てただ綺麗と思う人は世界中にたくさんいる。でもそこに儚い命があり今だけしか見えないことを知ることで極限の美を感じるという人は世界では少ないと思う。それが日本の美学であり一部のアジアの美学でもある。現在の日本は生と死が昔より遠くなっている。それは寿命も延び危険が減り平和だということでいいことだと思うのだけど、日本の美は生と死が密接なため平和ボケでは日本の美を意識するのは難しいと僕は思う。おままごとのような働き方、政治というのはバブル崩壊以降出現してきたと思うし、美学を持って死するではなくダラダラと現状を変えようとしない過去の栄光にしがみついて生きているように思うのだ。すぱっと死ぬという話ではなく、死を覚悟することで現状を変え、イノベーションがおき、経済発展するのではないかということだ。チャレンジはリスクがともない、現状を変えることは自分も傷つくことにつながるかもしれないし人と人との衝動が起きるかもしれない。でもそういうことが少なくなったから今の日本になってて、歯車のような生き方をしている人が多くなっているのだと思う。これは過去の偉人達は誰も望んでいないと思う。放送されるアニメは現実逃避させるものが多く、戦後に鉄腕アトムをみて日本の将来に希望を持ち頑張って働き続けた人達と比べると現在は大きくことなる。生と死は自分も人生の目的や命の尊さを認識しないことには考えることは難しいと思うので精神的に子供であればあるほど考えるのが難しくなる。生と死とは覚悟がないと見つめることができない。簡単なところで言えば例えば物を捨てるか捨てないか迷うとき、これはまだ使えそうだからとずっと残してどんどん部屋が汚くなる。物を捨てて綺麗にするというのは自分の過去を見つめ、将来を見つめ、自分の人生の目的と目先の目標を理解していないと実行できない。生と死を考えるとは自信を持って行動し人生の目的を知ることと同じなのだ。それができれば決断できる強靭な精神を育み前向きな人生に変えることのできる人になるのだと思う。クリムトの見せる日本の生と死の美学はクリムトが精神的にも大人であるからこそ、クリムトのパーソナリティが反映されており絵の中で力強く他の文化と共存できたのだと僕は思う。

ちなみにお掃除についてはコンマリメソッドの記事を見てもらうのがいいと思う。何故日本のお掃除と神秘性にアメリカは魅力に思うのかを書いたものだ。

日本は世界とうまく調和できるポテンシャルがあるので調和するためにはクリムトが日本の美学を学んだように僕らも美学を学ぶ必要があると思う。

そして映画ハウス・ジャック・ビルドのジャックでクリムトの作品が引用されているのは興味深かったがジャックはクリムトの作品をわかっていないから自分のいいように解釈して殺人につなげている。都合のいいように解釈したとしてももっと深くジャックが考察していれば面白かったのにと思ったのだ。

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