この漫画は主人公の愛子ちゃんがかわいそうな境遇でそれについて考えればとても重い話に見えてくる。逆にその境遇をあまり考えずに見るとしらける人もいるかもしれない。な
僕は1~3巻まで読んで別世界のとてもかわいそうな話に見えた。
この漫画は作者の幼い頃からのトラウマや寂しさが描かれている。僕が最初読んだときはただかわいそうな話で終わったのは大人になると子供の頃の寂しさやトラウマなんて癒されたり忘れたりして漫画が見せる幼い頃の心の問題にすぐに共感できなくなっていたんだと思った。
小さい頃は誰でも寂しくなったり愛に飢えたりすることはあると思う。それは物理的な貧困、裕福とは関係なく誰でも子供の頃の寂しい気持ちや悲しい気持ちはあるんだと思う。
2回目読んでいると僕の心の奥底で癒されたはずの感情やもう忘れていた幼い頃の寂しさや苦しさがえぐり起こされいくのが分かりしばらく苦しかった。
しかし僕は大人なので幼い頃の苦しさを再度感じても心を落ち着かせることはできる。そこに固執したくないのとやらないといけない、やりたいことがたくさんあるからだ。
でも大人になると忘れていく感情を思い出させてくれたことは僕がもし結婚して子供ができたとき子供の気持ちに寄り添えるようになるんじゃないかと思い良かった。
この漫画の面白かった点は普通の家庭ではないということ。
僕は女性ではないので女の子が体験した辛い気持ちがわからないところはあるが主人公の家庭は普通ではない家庭だ。
・主人公が父親に性的虐待を受けている
・母親が宗教を信仰しさらに門限通りに家に帰らないと暴力
・母親の言葉が冷たい
主人公は死んでしまいたいと日々思っており、目が覚めたときにまだ自分が生きていることに絶望してしまうらしく、相当追い込まれていると思える。子供のときにこの状況はかなりきつい。普通の家族愛を知らないで生きてきたと思うと作者の独りよがりの話には聞えない。
逃れられない家庭と義務教育が主人公を苦しめ続けるから何もかもなくなってしまえばいいと思ってしまう気持ちは僕も少なからず共感できる。漫画は義務教育のやり方が合わない人は世の中にいるんだ、助けられない社会的少数派がいるんだと僕は思わされた。漫画で描かれている学校は宗教学校なのかちょっとおかしな教育に見えるが学校が合わない人は交友関係や勉強にストレスを感じてしまったり自分のアイデンティティ、自尊心まで破壊されそうになる窮屈さや居心地の悪さを感じるのかもしれない。
そんな状況と分かっていながら受け入れてきた自分自身を許せなく思っている主人公は葛藤する。周りに流されてきた自分自身に嫌気がして、毎日同じように繰り返される逃れられない家庭と義務教育の中でみんなに合わせて生きて、
「特別な何かになりたかった」
と心の中で思う主人公の気持ちには昔も今も共感する人は多いんじゃないかと思う。
作者が経験したインターネットがまだ普及していなかった時代にインターネットを使えてそこで仲間や居場所を見つける人はまだよかっただろう。見つけられない人は主人公のように苦しみ続けるしかない人もいるというのが伝わってくる。
しかしインターネットが普及してもネット社会にさえ居場所が無い人が出てきているのが現代だ。特別になりたい、認めてもらいたいという承認欲求はあまり必要ないと僕は個人的には思うんだけど、主人公は特別になりたくて成長したあと売春しだし、そのときだけ特別でいられる心を保っているのはとても病んでいるなぁと思う。
それと主人公がかわいそうなのは辛いなら「お祈り」を家族から勧められるということ。お祈りしても気持ちはスッキリしないし問題は解決しないから心はどんどん病んでいくんじゃないかと思える。家庭環境が気持ちを理解しようとしていないことに気持ち悪さを感じる。
そこに加えて厳しい家庭のしつけがあると子供としては行き場はなくなるだろう。
その反動もあって悪いことをやってしまうのはあるあるな話である。
でもいつも思うのがなんでみんな特別な何かになりたいのか?なぜ誰かに認められたいと思うのか?自分を分かってもらいたいと訴え悪いことをしたり自分をいじめたり日常から離れようと何故するのか?
主人公は自分の感情に素直になれなかったことに対して二つ答えを出している。
1つはまだ子供で弱かったから。
2つ目はおかしな家族でも主人公は家族を愛していて家族も主人公を愛していた
そして一部のおかしな部分を除けば幸せなで何一つ問題がない家庭だから壊したくなかったし壊すのも怖いから自分自身を無茶苦茶にする、という。
でもそれに対して売春相手は主人公にきつい核心を突くことを言う。
「お前は自分を特別な人と思いたい、普通にすがっているだけだ」と。
誰でも辛いことはあるし問題を抱えているし自分だけかわいそうって思うのは何者でもないから、ときつい言葉を浴びせる。
たしかにそうだろうけどと思いながらも僕はそれでもこの主人公には誰かの助けが必要だったんじゃないかと思えてくる。強いものの意見では「お前が弱いから、勘違いするな」だけどみんなが強いわけではないから誰かの助けは必要な人もいる。なのでかわいそうだなぁと思えた。正論だけど正論だけじゃないし子供のときの強烈な寂しさや悲しさは理屈じゃ癒されないと僕は思うからこの売春相手の冷たいアドバイスは嫌いだ。
愛に飢えて寂しさを埋めるために売春、夜遊びをしても悪い人や悪い大人にあっても、正論でしか理解しない人が多いならいつまでたっても心は癒されない気がする。他にもっとかわいそうな人がいるとか関係ないのだ。悲しんだ気持ちは事実で他の人の経済状況で優劣を付けられない。経済状況が悪い発展途上国のほうが日本より幸せな人が多いと思うのも感情は経済倫理で優劣をつけられないからだ。それが分からないこの売春相手は経済倫理でしか物事を考えられない頭が固い人だろう。
やりたいことや夢中になることがあれば誰かに認めてもらおうとか誰かに怒ったりするや寂しいと思うことも愛に飢えることも少なくなると思うんだけどそれを持てなかったように見える主人公は売春相手がいう「何者でもない」ということなのだろう。でも好きなことなんて持てる心の余裕もなかったほど色んなことに翻弄されていたかもしれないし、好きなことに見向きもできないほど悲しさや寂しさが心にいっぱいあったのかもしれない。
自己顕示欲や承認欲求が強くて有名になりたいと思う人は今でもたくさんいる。主人公が特別になりたいという気持ちを分析するように「子供で弱かったから」というのは子供で心の弱かったから心に余裕が無なんてなかったということもあるかもしれない。
でも僕としては認めてもらおうとすることなんてくだらないし、なんで素敵だと言われなくちゃいけないのか何で必要とされなくちゃいけないのか、なんで誰かからのまなざしを一心に浴びたいのか。それが出来ればなんで幸せだと思えるのか?僕にはそんな承認欲求さえ幻想のようにしか感じない。
自分を出せない人や承認欲求が強い人は家庭でも学校でも周りの機嫌を取るように生きてきたんじゃないかと思う。それは主人公の愛子も同じように周りに合わせて機嫌を悪くさせなくないから自分の気持ちを抑えこむ。それを責めることはできないと思うのも現代の競争社会で承認欲求は少なからず必要なものにも見えるからだ。少なからずと言うのは過度な承認欲求は必要ないけど負担にならない程度なら必要なんじゃないかということだ。
人に認めてもらう生き方より相手の承認なんて気にしないでやりたいことをしたほうが人としてもスキルも成長すると思うのは好きなことがあれば主体性が身につき積極的に学ぼうとするから過度な承認欲求は必要ないと思える。
しかし日本は承認欲求が強まる教育がされていると思うので主人公のように病んでしまう人もいるだろう。偏差値教育、先生に従ういい子、強い同調圧力、個性を伸ばしているはずなのに全く個性なんて伸びない歪んだ嘘の世界に「くだらない」と思う人が出てもおかしくない。
僕らの社会が承認欲求の塊なら社会は精神の未熟な子供社会と言ってもいいかもしれない。大人になれない子供たちの多い社会。例えて言うならブラック企業だ。やりがい搾取という期待に応えたいという気持ちを利用した異常な働き方をさせるやりかたは大人でない世界だといえる。
そんな世界で生きている人はドMか勘違いしたかわいそうな人だろう。くだらないのだ。
主人公もくだらないと思いながら行動を変えることができずくだらない世界で生きているから心が病むんだと思う。「ほんまにくだらん」といいながら行動を変えられない本人がくだらない、けどそこから動けないこともわかるからかわいそうとは思う。
主人公の愛子ちゃんにも共感するが作者がサラっと終わらした男子が男子友達にバカにされて「じょーしー」と言われていることに僕はかわいそうだと思い、それを見ていた女子が「男子キモー」というのだ。僕がその男子の当事者なら死んでしまいたいと思ったかもしれない。
大人になっていく主人公は鬱になり部屋に閉じこもって汚部屋になっている。汚部屋は命にも関わると思うのでかなりヤバイ状況だ。ゴキブリもダニも発生するだろうし女性なら生理もあり何もしないでそのまま寝ていると思うと汚すぎる。家族が強制的にでも行動しない状況は両親に間違いなく問題があると言える。少なからず汚部屋のときの主人公は未成年だったわけだから、主人公は両親のおかしなところを除けばお金にも困っていない普通の家庭というけどこの状況の家庭は普通じゃない 笑
ゴミを取ったら大量にゴキブリがうじゃうじゃいそうで怖い 笑
ゴキブリが多いとゴキブリ喘息という症状が起こることがあり呼吸疾患で下手したら死ぬ可能性もある。
そんなことを考えながら映画ミッドサマーを見た後なので衝撃が薄まっているように感じる。漫画「愛と呪い」の話もミッドサマーも似たところがあるがミッドサマーがもっと強烈だった。
「愛と呪い」の呪いは逃れられない環境を呪いと言っている。ミッドサマーもアリアスター監督が前作ヘラディタリーで逃れられない環境を呪いのような見せ方をしている。ミッドサマーでも見せ方は似ている。「愛と呪い」で主人公が性的虐待を父親から受けることもミッドサマーでも家庭では性的虐待があったんじゃないかと思わせることがチラっとでてきたり、「愛と呪い」の作者ふみふみこの描く男の娘みたいな登場人物は作者が「性差をなくしたい」という気持ちがあることをインタビューでも言っているのでジェンダー問題を含んでいる。ミッドサマーもジェンダー問題、監督自身もジェンダー問題を抱えていると思うのも似ている。
似ているから面白いのかと思ったがミッドサマーがメリーバッドで救われない中での救いなのに対し「愛と呪い」は最後救われちゃっている。暴力をしたり父親から虐待を受けても何も助けてくれなかった母親を許していなかったのに最後は「私はもう大人やから、ゴルフクラブでぶち殺そうとも、思い切り抱きしめてほしいとも思っていないよ」と心が少し癒されちゃっている。そこが似たような部分が多いミッドサマーと比べても面白さが半減したところだったと思う。
いや1巻は強烈だった。
「義務教育を生みだした社会への復讐も忘れない、この醜い私も全部殺してセカイを綺麗にしくれるから」
と苦しさの中から出てきたと思う言葉が心をえぐる。
真面目でいい子で自分の言いたいことを言えない子なんだと思えてきて心に溜め込んだ苦しさが爆発している。
僕とは違う考えだけど犯罪しかねないほどの闇の気持ちの爆発とその魂の叫びのようなメッセージが僕を惹き付ける。
セカイの崩壊することで浄化がさせることで信じている宗教もセカイも嘘だと気づかせる、という気持ちは決して他人事ではなく感じるのは僕も世の中嘘ばかりあると感じるからである。
たまたまだけど現在コロナによる崩壊により様々な嘘が浮き彫りになり、社会の構造や思想、今までの正しさが崩れようとしている。皮肉なことにパンデミックが浄化になろうとしているようなのだ。家族との距離を見直す人、働き方を見直す人、家族や社会との距離に問題があった人が問題が浮き彫りになり生き方を考えさせられる人など今まで見ないようにしてきた嘘で固めようとしてきたことを嘘のままでしておくことが出来なくなってきているのだ。
主人公は性的虐待があってもみんな笑って終わらす家庭に何が正義かわからなくなっても周りが正しいという正義を追い求め続けないと逃れられない世界では生きていけない。そんなうわべだけの正義の空虚さに振り回される主人公は強烈だと思った。
それが3巻になると作者がインタビューでも「漫画を描きならが気持ちが消化しちゃって最後のシーンであなたを殺したいとは思わないよ」という話にしたと言っているように1巻と2巻にあったキレっキレの社会への訴えと闇が消えつつありちょっと物足りなかった。だから最後に主人公は母親に「もう、いいんよ」って話を終わらしちゃう。気持ちが消化されちゃったら面白くなくなるのは映画監督でも同じでヒッチコックは映画サイコで彼の母の呪縛から解放されてしまうためしばらくヒットが生まれなくなる。面白くなくなるのだ。呪縛から解放されちゃダメだというとおかしな話だけど、面白い話には作者の呪縛が付き物だと思う。そのあとヒッチコックは「フレンジー」でヒットをした理由がヒッチコックが抱えていた闇がまた生まれたからだと思う。ホラー映画や重い話には作者の闇が付き物でそれがないの薄っぺらく共感を得られない、キレがない話になっちゃうんじゃないかなー?と思う。その点で言えばミッドサマーの監督アリ・アスターは闇を消化しきれていないのかもしれない。ホラーや重い話の作品へのファンを裏切らない姿勢は作者が闇を忘れないことなんだと思う。それが優しさであり気遣いでありファンへの誠実な気持ち。
だから「愛と呪い」がちょっと残念だったんだと思う。
大人でも思いっきり抱きしめてほしい、殺意を感じるほどの怒りと苦しみがあるなら殺意を見せるほど相手と向き合ってもいいんじゃないかと誤解があるかもしれないけど思う。なぜなら人間なんだから。殺人はいけないでも人間なんだから感情があるんだから、本当に取り返しがつかないことになる前に沸いてきた感情をぶつけたほうがいいと僕は思う。それが出来ないから特に日本では苦しい人は多いんだろうなぁと思う。素直にありのままに生きる努力は必要だと感じる。思いっきり抱きしめてほしいと思うことの何がいけないのか?どんな感情があって我慢しているのか謎だ。いい子ちゃん教育の弊害か。
結局、主人公は最後母親を許しても誰に向けていいかわからない怒りと悲しみが付きまとって「この気持ちはいつか消えてくれるのでしょうか」
と思うのだ。
そんなのは本人に向き合わないと消えないし薄まらないじゃないかと思うので、あーまた気持ちを誤魔化して生きているんだなぁと思うのだ。家族を愛しているし家族も主人公を愛してくれているから現状を変えられないのはわかる。しかし現状を変えないとずっと悲しい気持ちは残るはずなんだけどなぁと思う。それ本人の気持ちは全く救われてない気がする。
この点で言えばミッドサマーの最後の本当は救われないけど主人公にとってのハッピーエンドのほうがまだ救われる。ミッドサマーは救いが無さ過ぎる居場所の無い人の話で呪いのような呪縛の要因の彼氏は殺され家族もいない主人公を家族として村の人たちが受け入れ主人公は居場所を手に入れるのだ。もう悩まなくていい世界に到達した主人公はおかしな世界でもハッピーエンドなのだ。でも漫画「愛と呪い」のほうでは最後スッキリしていない、作者が気持ちをある程度消化しちゃっているから心に向き合うのをやめたのかもしれない。逃れられない悲しみが残ったままで苦しみながら生き続けることになる最後に読者としてはハッキリしてほしいなぁと思ったりもした。
ハッキリしないってめんどくさい 笑
とはいえ全体的に面白かったけど。
作者が漫画を描いてトラウマが消化されていくようにトラウマを発信して癒されるのは箱庭療法みたいなもんだ。
絵や何か作るのが苦手なら「ごっこ遊び」でも癒されるんじゃないかと思う。
小学生のころに甘えたくても甘えられない厳しい家庭にトラウマがあるなら甘えて甘えられるごっこ遊び 笑
ごっこ遊びはやりたいことも素直に言えず心を押し殺してきたなら素直な気持ちになって甘えることで心を解放させるセラピーみたないものだ。
「やりたいバブー」
「しゅきブー(好き)」
「ぶーぶー(車)」
赤ちゃんはバブーとは言わない。でもバブーは大人になっては言えない言葉でありそこをあえていうことで心のブレーキをはずして苦しさを解放させるのだ 笑
ん?間違っているかな? 笑
いわゆるアクトセラピー(演劇療法)というもので演じて自分の心の中の怒りや悲しみを出し切り解放させるものだ。一人でやっても解放されづらいから誰かがいるから解放される。
そりゃミッドサマーのホルガ村のようにホルガごっこをしたい人が現れるわけだ。ごっこ遊びは心を癒すと思うから 笑
コメント
納得できる部分もあったけど、いちいち他の作品と比較してるのと最後の部分はちょっと腹立った。