映画ミッドサマーから考えさせられた社会問題

ミッドサマーを見て僕はバカにできないと思ったことがあった。それはホルガには現代が欠けているものがありホルガから学べることもあったからっだ。けっしてホルガのすべてを受けいれられるわけではないが、心のどこかにホルガをユートピアのように思った気持ちもあったのは現代を生きる僕に求めているものが少なくともあったからだと思うのだ。

アメリカから来たクリスチャンたちは競争社会と個人主義の自由を信仰している人たちである。アメリカ人と言えばSNSやフェイスブックが大好きで意思の共有は言葉できちんと伝えないといけないし、効率、生産性、正論が正しいと信じている。アメリカがグローバルな国ならグローバルな視点は効率、生産性、正論なくしては語れないと言っているようなものだ。
そんなアメリカとは全く違うのがホルガで効率、生産性なんて気にしない正論なんて通じない。正論よりも心でどう感じたかが重要視されるのだ。そんなグローバルな視点をホルガに持ち込むと殺されるのである。ホルガではグローバル視点なんて関係ないのだ。

実際に幸せは人それぞれでアメリカのようなグローバル視点では幸せを感じない人もたくさんいる。競争に疲れる人、個人主義に冷たさを感じる人、自由主義に無責任を感じる人、自由主義に幻滅しだした世の中に現れたのがドナルド・トランプやEUの離脱である。グローバル化と自由主義はパイを労働者に分配するどころか一部のエリートに権限を与え一般大衆を犠牲にしている部分は否定できない。
ホルガはそんなことが一切無いのである。

人類は安心と安定を心の底では求めているからこそ宗教という物語を信じたり、不安が怖くてめんどくさいからフェイクニュースを疑う気持ちを持たないようにしたり、分かっているはずなのに無理なポジティブ思考で問題があるのに問題を見ない人が多いのだ。みんな安心できる虚構が大好きなのに、お金しか信じられなくなる安定安心のない競争社会という虚構を信じて、その問題が発生しているのが現在だと思える。だからドナルドトランプが昔は良かったとノスタルジーを感じていたり、80年代に関係する映画がたくさんでてきたりもしている。それだけでなく、生まれた家庭によって逃れられない格差が広がっているとすればそれは現代版カースト制度とあまり変わらないとも思えたりする。働いて苦しんで死んでいく人が多くなっている世の中ではカースト制度のほうがむしろ心は自由に生きているかもしれない。

でもホルガは違ったのだ。ホルガのすごさは誰でも受け入れる村だということだ。障害者でも悪党でも狂った人でもホルガのルールを破らなければ誰でも受け入れる村だ。こんなことは現代ではあまりありえないだろう。多くの人が社会的少数派を勝手な思い込みでバカにし差別しているのに社会的多数派の差別主義者はバカにされずにむしろ差別していることさえ気づかれないまま生きることができている。
差別はそこら中にある、例えば「白人がアジア人よりかっこいい」と思う人が多かったり「アジア人をバカにしている人」や「男女で不平等な判断」などさまざまある。国によって差はあるけど差別を差別を思わない人で溢れているのだ。
映画の中で黒人のジョシュがナチスとホルガが関係していると偏見を持ってホルガを見ていることも一方的な差別思考の表れだし、アホのマークがホルガの大切なものに何も知らないという理由でおしっこをしてから知ったこっちゃないと思うのも一方的過ぎる態度だ。
それにホルガは男女で差別することはないだろう。男女のジェンダー問題さえ固定観念から脱却できず男性像や女性像からはずれた人をバカにするのは世の中にたくさんあることだ。そんな問題を一切持たないものがホルガなのだ。文明社会が土着信仰のホルガに負けてしまっているのである。

ホルガの住民はナショナリズムを持っているだろう。過度のナショナリズムはファシズムを生むかもしれない、でもナショナリズムのない国はソマリアのような荒れているところでありドイツやスウェーデンは健全なナショナリズムがあるからこそ民主的な選挙ができ民主主義が機能するのだ。それなのに世の中はナショナリズムを毛嫌いする人がいたり逆に熱狂的な自国第一のナショナリストもいたりする。まとまることができない混沌とした世の中に僕はホルガは輝いて見えたのだ。安定して安心して生きることができる社会。僕たちが望んでいる懐かしむものがあったのだ。

人の幸福は他者との関係に大きく依存しているといわれる。人を通した友情や愛やコミュニティが泣ければ幸せになれず、本当の本当に一人で孤独で生きた場合は惨めになるかもしれない。だからこそどんな人でも居場所が必要なのだ。心の拠り所、愛の場所が。

だけど巨大なコミュニティをフェイスブックはオンラインで形成しようとしている。AIがビッグデータ分析で人をコントロールしようとしフェイスブックのデータも常に監視されている。僕らの求めるコミュニティはそんな心の拠り所がない監視社会ではないんじゃないかと思うからホルガの監視社会を感じない世界に魅力を感じたのだ。監視社会は中国みたいで好きじゃない。そして情報が氾濫する世の中では僕に色んな感情が渦巻いて僕の心が振りまわされそうなこともある。不必要に幸せを見せ付けてくる情報の裏には、見せ付ける人のコンプレックスが見え隠れし不気味さと悲しさを感じさせる。SNSで病む人は多いのにSNSは規制もされないしむしろ拡大し続ける不条理さ。共感する者を生きづらくさせるのが現代だから自分に嘘をついてでも考えない気にしないようにしなければいけない、ことなかれ主義が多く出てくるのは自然のことだろう、特に左脳型が増えてマイノリティになりつつある共感しやすい右脳型は辛いのかもしれない。自分の気持ちがわからず自分の気持ちを見つめるために瞑想やアートは助けになるのに、そんな感情を見つめようとする社会とは反対に進化の速いAIは感情を見つめようとする人をあざ笑うかのようにビッグテータで人を振り回し成長し突き進み、ついていけないマイノリティはもっとマイノリティになるだろう。ビッグデータが正義になった世界に文学や独特の文化の発展なんてなくなり、世界で信仰が薄れているように死んでいくものに心を寄り添える人がいなくなっていくのではないかとも思える。でも反対に静かなホルガは感情に迷いがなく不要な争いもなく、死を尊いと感じ死に寄り添い現代の心の問題は解決してしまいそうなのだ。

だからこそホルガをバカにできなかったのだ。カルトと言われようが文明社会が今問題だらけだからホルガに安らぎさえ感じた人は意外と多くいたと思う。現在の自由主義と民主主義モデルが悲鳴をあげ、いつ大きな問題が起きてもおかしくない世の中に爆弾のようなものを落としたのがホルガからのキリスト教社会のアメリカ人への祝祭だったのだと思えてくる。

でもホルガは完璧ではない。現代の倫理から離れすぎている部分もあるし食べ物もおいそうではないし刺激は少ない社会し、みんなの希望を満たすことは出来ない。ホルガのようにグローバルを国がやめることは食べ物も制限され様々なものの価格が高騰し仕事も減るかもしれない。僕の好きなゲームだってできない。だけど現代の社会モデルも不完全で不条理が溢れている。何年たっても景気はまともによくならない、政治は表では良いことをいうのに結局嘘ばかりついて何を信じていいのかわからない狂った世の中なのだ。ホルガにも文明社会にもお互いが欠けていて必要なものを持ち合わせている。でも何が答えなのか誰もわからないのが現在の世界のジレンマだ。今までの正論が正論でなくなる社会になりつつあるんだと思う。

じゃ何が必要なんだろう?と素人なりに考えると
・居場所(個人主義で安心できる共同体、居場所の崩壊)
・共感(個人主義と拝金主義で共感より自分とお金になっている)
・平等(思い込みによる差別、昔ながらの考えで人を同調圧力で抑圧する。自分は自分、他人は他人で考えることができる平等社会が大切)
・利他主義(過度の競争と個人主義で助ける気持ちさえなくなっている、大企業なら寄付するとか。)

・多神教・自然崇拝(日本は多神教や自然崇拝の思想はあるのにお金第一の拝金主義になって、凝り固まった価値観しか受け入れない、多神教と自然崇拝は多様なものとの共存と密接だと思う。)

・過度な競争をやめる(競争のせいで自分の気持ちさえ見えない人が出たり、誰かと自分を極端に比べてメンタルを病む人が増える。健全な向上心がない)

これらはアドラーの心理学からも同じようなことが言えて
1:承認欲求、競争意識をもとに人間関係と構築(過度の競争をやめる)
2:自分と他人の課題を混合してしまう(自分は自分、他人は他人とする平等)
3:コミュニティの中で仲間に貢献することで貢献感を養う。(居場所がある人が利他主義になることで貢献感が増して幸せになる)

ホルガはホルガの信仰する物語の中だけで生きればいいのでそもそも自我がなく承認欲求も競争意識もなく、みんなが信じる幸せの居場所があるから優しくなるしかない世界だからアドラー心理学よりも究極の世界だけど、自我が無くとも一応アドラーの心理学が生きている世界でもあると言えるかもしれない。なぜならアドラー心理学は普通の人は自我が邪魔して出来なくてやろうとするとかなりの年数修行僧みたいに心をコントロールできるようにならないといけないかもしれない。究極が承認欲求も競争もなくなる自分は自分、他人は他人という無我の境地なのだ。
ただホルガと違って文明社会の現在はお金も関わるから構造と利権の問題が含まれているから、なかなか誰も解決できない時代にいるんだと思う。徐々に社会的な実験でもしながらそれぞれの国にあった良い社会モデルを見つけていくしかないんだと思う。そうじゃないと誰も知らない間にクマに入れられて燃やされる可能性がある時代なんだ。痛くない薬のはずが燃やされて痛みを感じる。言いように使われて騙されて死んじゃう。世間を見渡せばそんな事件はたくさんあるのはわかる。過労死、自殺、ブラック企業、精神疾患、貧困、信じて殺される社会に正論なんてあるのだろうか?国により正論は違う。法治国家では法律は正論、独裁国家は独裁者が正論、共産主義の国では共産党が正論、戦後に自由主義を信じてきた日本と他国が直面しているのは今までの正論が崩壊しつつあることなんだと思う。選んだ正しさが間違いでも信じた大切な愛と幸せを守ろうとするなら強く間違っているなんていえない、でも誰もそんな信じるものなんてない社会に正論って心がない空虚な正論に聞えるのだ。今までの正論が人を支配し傷つけて社会に小さな亀裂を起こしていたのが、もう少しで壊れそうになっているんだと思う。それが1%超富裕層と99%の貧困社会になって暴走したアメリカを変えるために当選したトランプであり、稼いでいるだけの中国べったりだったハリウッドにうんざりのアリ・アスター監督のホラーであり、色んな国で起きている無差別殺人なんじゃないかと思えてくる。コロナウイルスのパンデミックにより世界中混乱してるなか今までの常識が通じなくなっているようにクリスチャンたちの西洋の理屈、常識が崩れようとしているのだ。

アリ・アスター監督が映画を見て「不安を感じてもらえばいいな」といったことは、みんな監督の気持ちなんて聞かなくて理解しなくて、自分達のことばかり自分達のルールばかり押し付けて、マイノリティは叩かれ生きることが苦しいのに多数派はそんなこと気にしないで自分のことだけ考えてればいい。だからこそ分かってもらいたい、そうすれば世の中が良くなると思うから映画を見て監督の気持ちを理解してちょっとでも不安を感じてもらえたらいいなぁということなんじゃないかと僕は感じた。コロナにより絶望感を感じてきている人が増えている時代に生まれてきやすいのが新しい宗教や新しい社会モデルだと思う。でも監督の感情はコロナの前から絶望があって僕たちがコロナで直面している悩みや問題を強烈に感じていたんじゃないかと思う。
僕らが想像する以上に強烈過ぎる悩みだろうから狂った悩みは狂ったものでしか救われないのである。そこまで現実社会の人たちの感情は到達してしまうんだろか?

そんな不条理が浮き彫りになりつつある現代なのに、不条理な悲しみを正論でつぶし寄り添うこともせず臭いものに蓋のようにどこか自信過剰になって隠れた絶望を見ないで生きようとする世の中に、正論を越えて共感してくれるホルガに僕は救われ、絶望のどん底に落ちて愛に飢えていたダニーが居場所を見つけ不条理のカタルシスで解放されたように僕も解放されたのだ。

はやく良い社会になるといいなぁと思う。

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