「言われなくても理解しろ」というのは無理な話だ

言われなくても普通は分かる、というのはステレオタイプの発言で自己中心的な意見だと僕は思う。世の中には「言われて初めて分かること」というのがある。そのことを分かっていない人はすぐに言われないでも普通は分かるという。

理解できるにはいくつかの要素がある。1つは経験、2つ目は知識だ。
例えば今まで全くパソコンを触ったことない人に口で説明しながら教えようとした場合、分かっている本人からすると分かりやすく説明できていると思うだろうが、今まで何も触ったこと、経験が無い人からすると「何でそうなるの?」「何の意味があるの?」と根本的なことが分からないものだと思う。

これは目に見えていない欠落していることをどれだけ見つけられるからがその人の能力でありクオリティなんだと思う。言われなくても理解しろ、とは十分な経験、知識があってできることなのでみんながそんな人なかりじゃないんだからそんな発言をする人は自己中心的か人の気持ちがわからない無能な先輩になっちゃうだろう。

「言われて初めてわかること」とは計画を練ってこれで完璧と思っていても小学生のいとこからそぼくな疑問を言われて「はっ!」と気づくことがある。人は言われないと自分のことって意外と分からない。

これは低コンテクストとか高コンテクスト文化という話ではない。文化の話ではなく人としての話だ。人は言われないとなかなか自分のことを気づけなかったりするものだと僕は思うのだ。本質は本人が考えている反対側にあったりする。
ちなみに低コンテクストと高コンテクスト文化の話は言われなくても理解するかどうかの話にはなるけど、どんなに高コンテクストでコミュニケーションができたとしても情報が氾濫する現代では高コンテクストですべてが理解できることはかなり難しい。これは高コンテクストから低コンテクストに慣れてしまっている人が日本で多くなっているということではなく、現代では非常に情報が多く昔ほどシンプルでなく学ぶこともものすごく多くなり精神的にも多様な社会となってしまっているので高コンテクストで会話を維持するのはシンプルな範囲を除いて難しくなっているということだ。日本は低コンテクスト文化に移行しているわけじゃなく、今でも明らかな世界トップの高コンテクスト文化だと僕はアメリカで感じる。

ここで少しまとめると、

1:言われて初めてわかることが必ずある。

2:情報が多すぎる現代ではみんなが同じような経験と知識があるわけじゃなく言わないとわからないことがどうしてもでてくる。

3:日本は低コンテクストの人が増加しているわけでなく高コンテクストのコミュニケーションが可能なほどの知識と経験を学ぶことが追いつかなくなっているだけ。日本は今でも世界トップの高コンテクスト文化

日本は察する文化(高コンテクスト文化)であるのはみんな知っているけど、察するには相手と同じバックグランドがないと察することができない。僕はアメリカにいて思うのがアメリカの文化と日本の文化は大きく異なり日本の感覚でアメリカ人の考えや行動を察するというのは非常に難しい。それは日本人にアメリカの文化についての知識の欠陥とアメリカ人の多種多様の人種からくる多様な考え方についての知識不足とそれらの人とのコミュニケーション不足によって高コンテクストでコミュニケーションを取ることは難しい。そもそも相手は低コンテクストなのだから話が合うわけがない。ここで言いたいことは同じ似たようなバックグラウンドがないと高コンテクスト文化は成立しないということ。

僕達は人間は言葉を使って言葉から想像を膨らませることができる。でも見えていない、言葉がないものにこそ重要な要素があると僕は思っている。これは高コンテクストの話ではない。見えないものに言葉をつけることで僕達は認識するこができるようになる。それは人は目に見える認識できることに引っ張られる傾向があり、見えない風景や世界になかなか気づけないものだ。

これからの日本は移民労働者も増加し今までの常識は通じなくなってくる。常識でしょ!、なんていうのはもう通じなくなってくる。そうなってくると「常識でしょ」「言わなくても普通分かる」とかいうのは化石のような発言になるかもしれない。それぐらいありえない発言であぶないしリスクも含んでいる発言だ。相手が分かっているのかなんで言わなくてわかるのか?言わなくても普通分かるでしょ?って言う人はいわなくても相手のことが本当にわかっているだろうか?日本人は他国の人と比べて平和ボケしていて安心しきっていて日本の常識は世界の常識じゃないんだけどそれでも常識でしょっていえるんだろうか?

簡単に言えば他人が書いた字が汚くて読めないけど書いた本人には読める。本人には分かる字なのに他人には暗号に見えるようなことが今の世の中たくさんあるのだ。自分がわかっているから相手もわかるどうというのは分かるような字で書いてないとわからない。その分かるような字というのはどういうレベルかは人によって違う。

言わなくてもわかるというのはお互いのIQレベルにも関係してくると思う。同じようなIQなら息の合った行動ができるだろうけどみんなが同じなわけない。ほとんどの人はIQが違うのだから「わからないことが正しい」と思う。IQが低いか高いかは人をランクづけしているようで好きじゃないがここでいうIQは知識と経験からくる言わなくても理解できる補完能力だ。解釈する能力というもの。この能力に頼りすぎることはいつか誤解が生まれたり取り返しのつかないことが起こる可能性も秘めいている。そのためすべてを言わなくてもわかるというのは現代ではなかなかありえないと思う。失敗すべきでないことであるほど「言わなくてもわかる」という考えは持つべきではない特に情報過多の現代では。もちろんスポーツのように言葉はなくとも息のあった行動というのは効率的チームを作るのに必要なことだとは思うんだけど、これはスポーツというシンプルなルールがあるからこそできる行為であって、上でも言ったとおり情報過多で多様な考えが溢れて多様な答えがある現代ではスポーツのように息を合わせてというのは難しいと思ったほうがリスクが少ない賢い選択だと思う。

言わなくても分かるのであれば高速道路で事故なんておきないと思う。それでも事故が起きて事故の原因がちょっとして確認ミスであったとしても当たり前のことでも当たり前だからといってみんなができているものではない。

ここでまた少しまとめると

1:IQ(知識と経験量)の違いによって言わなくても分かるという補完能力、解釈能力は人によって違う。

2:情報が多く多様な考えや学ばないといけないことが多くなった現代では人によって大きく知識も経験も違う

3:スポーツのような息の合う行動はシンプルなルールだからできることで現代社会に当てはめようとしてもなかなか難しい。

4:言われないとわからない、ということを正しいと思うことがリスクがなく後で問題にならない選択。

言われないとわからない人は使えない、ともしかした言われた人がいるかもしれない。僕はこの考え方に賛成できない。例えていうなら、車が事故しやすい場所というのはどの国にも存在する。相手が見えずらい場所になっている、道路標識がわかりづらい場所にあったり、そもそも標識さえなかったりして運転手にとって分かりづらい場所になっている。それでも事故をすると本人の不注意や本人の責任で問題になるのだけど、それって「言われないとわからないあなたが悪い」って言っているようなものでものすごく自己中心的な考えだと僕は思う。分かりづらさが存在しているのなら分かりづらくしているところにも過失もあるし、そんなところでの事故は運転手の責任ではないと思うことが多いと僕は思う。言われなくても普通はわかるは普通というのは、標識無くても事故なく運転できるでしょそんなの普通だよって言っているようでものすごく危ない発言に聞えるのだ。ドライバーの不注意による責任、言わなくてもわからないあなたの責任というでは何も解決しない。

ちなみに、低コンテクスト文化という話をよくしているけどいったいどれくらい言わないとアメリカでわからないか知っている人は少ないと思う。アメリカでは本当に言わないとわからない人が多いので日本で僕は言わないとわからないです、っていう人と比べてもそれでもその人は高コンテクストだとアメリカと比べると思う。

低コンテクストといっても世界では見えないものを見つけ出す能力というのを評価してきていると僕は思う。それは言わないでも分かるという意味ではなく、みんなが気づいていない改善するポイントに気づける能力があることでいろんなことがユーザーフレンドリーになったりするということ。それが分かることでウェブサイトがユーザーフレンドリーになったりゲームもストレスなくプレイできるものになるというものだと思う。これは言わないでもわかるという無責任な考えではなく、言わないでもわかるシステムづくりができているということである。ウェブサイトであれば、読み手の目の導線を考えた文字の配置、色使い、文字の多さなど読み手がストレスなく読めるようにするというものである。それはゲーミフィケーションにも話だと思う。(ちなみに僕のサイトはあまり読み手のことを考えた色や文字の大きさなどしていない。一人でやる個人ブログには時間の関係もあり限界がある。)

ユーザーフレンドリーは科学的なアート能力が必要になってくると思う。科学的なアートの視点、考えというのは例えいていうなら、何故色の組み合わせがこのページやシーンで適切なのか、何故この配置なのかとかたくさんあり、実際に使われている例はお店Aで店員が3人いて行列が3列できるところと、お店Bでは行列は1つだけど店員が3人いて、空いた店員の場所に行列の先頭の人が行くという二つの並び方がある。A店では物をたくさん買う人の列には長く並ばなければいけない不公平が生まれるが、B店では空いたところにいくので不公平がない。並び方という図形的なものを変えることで人の結果の平等のA店、機会の平等のB店という違いが生まれる。お客のことを考えるとB店の機会の平等のほうがストレスがないはずである。これは科学でありアート的なセンスであると僕は思う。

このような考え方を日本では今後重要になってくると思うし、この考えがない発言が「いわれなくても普通わかる。常識!」というものだと思うのだ。

学校でグループで宿題をしたときだけど、言わなくてもわかると思って行動したことがあったけどその結果失敗したことがあった。提出が近くなって問題が発覚して、時間も必要だったため取り返しがつかない問題になって結局、その宿題はうまくできなかった。もし言わなくてもわかるという考えもたずに、みんながわかるようにしていればこんなことにはなかっただろう。例えば、誰が何をして、いつまでにして、各自がやることを終わると各自がみんなで確認して、言う必要がないことはみんなで表などを作って目で見て理解できるようにし、できるだけ進歩状況をみんなが把握しておく必要があったと僕は思った。

「言わなくてもわかるのが普通」は今後時代遅れになると思う。しかし僕は日本の文化でもある「言わなくてもわかる」という美的感覚は大切にするべきだと思う。時代遅れになる理由は情報過多になり多様性が加速することについていけない人が多くなるので時代遅れになると思うだけで、シンプルなことについては「言わなくてもわかる」というのは存在していてもいいと思うのだ。その結果が大震災のときの世界が驚いた日本人のまとまり。この「言わなくてもわかる」が教育水準をみんな同じようにしようと努力も必要になり犯罪率も下げている要因になっているのではないかと思っている。

高コンテクストと低コンテクストは今後日本では使い分けないといけないと思う。これを使い分けられる国はあまりないと思うけど日本の文化を守りながら多様性を受け入れ、世界基準で仕事をするなら高コンテクストも低コンテクストも理解し使い分けないといけないと思う。これには二つのコンテクストを使い分ける経験と、二つの違いを理解している知識がないといけない。これらを使い分けられないから「言わなくてもわかるのが普通」という発言が出てくるのだと思う。

違う文化を理解し使い分けるということをお年寄りや頭の固い人がついてこれるか謎だけどやらないと「言わなくてもわかるのが普通」という人は減らないと僕は思う。

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