ジェンダー問題で悩むことは勘違いと思うこと

世の中ジェンダー問題で溢れているのにそんなの考えすぎだから勘違いだから、なんていったら怒る人はいるだろう。でもあえていいたい、それは勘違いなんじゃないのかと。これはけっして多様な性の問題を否定しているわけではなくむしろ肯定している僕なりの考えなのだ。

ここでは男性を例でするがジェンダー問題で悩む人は自分が同性愛者と思われたらどうしようとか、女の子っぽい振る舞いでバカにされるかも、言葉遣いでドン引きされるかもなどと考えることはあると思う。小さい頃からオカマと言われていじめられるとかキモイとか思われるのを恐れたりすると思う。

でもそんなの勘違いだ。
なぜなら女の子っぽい男性だっているのは「当然」な話でむしろ男女の価値観だけに染まっていることのほうが奇妙だからだ。
もし女の子っぽいといわれたら、だからなんなんだと思ったほうがいい。相手は分かっていないだけなんだから分からせればいい。それにはものすごく力や攻撃性が必要になるかもしれないけど、ケンカってそんなもんだと思う。
わかっていないなら分からせるが重要で自分がおかしいと思うのではなく相手がおかしいだ。僕は周りの目を気にして怖がって悩むことがわからない、わかりたくもないことで、なんで男らしくないことを喜べないのかと思う。
僕だったらキモイって言ってきたら手が出ちゃうかも 笑
手を出すのはいけない、でも人を傷つけたら傷つき返されても文句は言えない、殺人じゃない限り否定はできないだろう。それがケンカでもあり、ある種の口で言ってわからない人への分かち合いでもあると思う。あなたは人生で一回でも同姓を好きになったことがないのか?といいたい。

僕は同性愛者ではないので理解できない部分もあるがかなり似ている部分があるのでそれなりに分かっていると思っている。
アメリカの学校に来るまで同性を好きの対象にすることは一度もなかったが、アメリカのクラスメイトに人生で一度だけでもこの同姓なら付き合いたいと思うことがないのはおかしいと言われて考えたことがあった。
そしてそういえば僕は何回か同性にアプローチをかけられたことがあったことを思い出したのだ。例えばバイの人に襲われそうになって逃げたことがあるし、女の子にもかっこいいと人気でかつ男の子からも尊敬されたいた先輩に抱きつかれて告白されたときは頭がグラっ・・・ときたこともあるのだ。
同性でも尊敬して男として好きだと思っている感情はすり替わる可能性があると思った。釣り橋理論みたいなもので怖さが好きに変わるというようなもの。その気持ちが勘違いだったとしても好きになっていたというのは嘘でなくそこから恋愛に発展するカップルもいるはずだ。だから同性だから好きにならないということはないのである。
それでも僕は心の中に同性とは付き合わないという思い込みのようなものがあるから好きになっても付き合わない。怖いとかじゃなくて付き合ったらすべてが僕の周りで壊れそうで、それがめんどくさいのだ 笑
僕も色々女っぽいって言われる経験をたくさんしている。日本だけでなくアメリカでも女っぽいと思われていると思う。
小さい頃から女の子みたいな遊びをしたり女の子がやる習い事していたり、そもそも僕は体が弱かったから男の子のような遊びができず世間の男性像に合わせられなかった部分もたぶんあって自然と僕が出来る遊びに流れていったらそうなった感じだ。
女性ボーカルが好きだったし男性ユニットが踊るより女性ユニットが踊ることにカッコよさを感じて真似することだって小さい頃はよくあったりゲームでも男性キャラより女性キャラをよく使ったり。それに僕はガンダムが好きなんだけどガンダムってスカートをはいていて女性っぽいなぁって思う。女性の服のスカートが揺れてスタイリッシュなデザインと長さはスタイリュッシュなガンダムみたいでかっこいいものに感じることがあるのだ 笑
それはたぶん僕の男性像と女性像が重なっているんだと思う。
ちょっと調べてみると女性と男性の理想が交差している場所に行くことをオタク用語では「武闘会行き」というらしい。武闘会はものすごい闘いがあるがシンデレラがいる舞踏会とヒーローがいる武闘会が精神世界で合わさっていて女の子っぽい趣味のもの、装飾に何か女性的なものがあるものをヒーローが武器や鎧かのように扱い、男らしくカッコよく戦う、家事、育児をする人らしい。男性キャラなのにヒロイン要素があるのを「男子力(ヒロイン)」というらしい。面白い。ヒロイン要素のある男子力はいくつもあって他の要素も僕にあるあるでなんか当たっているような気がする。

僕は男性らしくないかというとそうじゃない。たまたま男性としても生きることを叩き込まれた時期もあって男性としても振舞えるんだけど、でもやっぱり僕は根っから男性像に縛られていなくて理解ができない男性像の思想と感情に無理に押し込めてると辛くてほどほどじゃないと無理と分かっている。この感情は誰でもあると思う。ただ僕が男性像にしがみついていないだけで男性像に無理に押し込めて苦しんでいる人ってたくさんいると思うから普通のことなのだ。
例えば
1:競争して勝つことを望み社会的地位を追求する
2:感情を出さない
3:リスクを取る
4:他人に頼らず自分ですべてやる
5:同性愛を軽蔑する
6:女性を思い通りに振舞わせようとするまた暴力的である

というのは男性像にあると思う。これに苦しむ人は男性で多いはずなので僕が男性像を叩き込まれてそれが辛いと思うことは別に変なことじゃないのだ。

男女ともに生き易い社会は男女の「らしさ」に拘ることへの解放であり男女平等社会になることである。そうなると困るのは男性像に縛られる人や女性で今の男性像が好きな人で男女平等になると逆に生きることが辛くなるはずなのだ。
なので重要なのは男女平等でも男性像が好きな人もいていいでも色んな考えがあるということを理解していくことだと思う。
社会規範として男性らしさはなかなかなくならないし無理に無くならなくていいもの。何か一つに縛ることがもう勘違いなのだ。それこそ西洋社会が持ってきて答えは一つの考えみたいなもので僕らの勘違い。
やめてもらいたいのが平等社会になったら今の男らしさはなくなり「りゅうちぇる」みたいな人がたくさん生まれるんじゃないかという人がいること。それはそういう生き方をしたい人であって生き方はたくさんあって見た目は男っぽくてでも心は女っぽいやただ女装が趣味で中身は男という人だっているだろう。生きたい生き方をすることが男女平等社会なんだと思う。僕にとっては普通なことなんだけど、そういうと頭がおかしいとか日本では100年先だとか言われることがある。頭がおかしいのはどっちだろう 笑

LGBT自体も勘違いというと怒る人もいるだろう。でも僕は勘違いだと思うことがたくさんある。体が男なのに心が女っぽいからXジェンダーとか言ったり、男なのに女が好きだから女性に生まれるべきだったとか悩む人。なんで周りの決めた男性像に合わせてそれを満たせないからと悩むのだろう。嫌われたくないから?認めて欲しいから?
なんで嫌われるのがダメで認められないこともダメなのか?
それは多様な気持ちじゃないし嫌われることや認められないことも出来ない言えない社会は面白くない社会だと思う。LGBTと発言したい人は社会から強く承認されたい気持ちがあるんだと思う。そうじゃないと悩むこともないしLGBTなんていう言葉は生まれないはずだ。今問題になるのが社会規範に強く意識して、でもそれに合わないから承認欲求が満たされないことで心の悩みを抱えてる人が多い、でも幸せって他社から認められることに固執すると他社の目が気になって怖くなって自分を抑えるから幸せは来ないと思う。なんでアメリカで周りを気にしない人が多いのか、周りからの承認欲求をそこまで求めていなくて、それでもLGBTを叫ぶのは競争社会でかつキリスト教社会だから強い抑圧があるからだと思う。
性転換しようとするまで悩むのは僕からすると西洋が勝手に作ったLGBTの定義に翻弄されている被害者でしかない。性転換しても女の子とも男の子とも話が合わなくてどちらからもやっぱり女?男?とか言われるわけだ。周りに合わせて男女でわけることが人を迷わすから男女にも色々あるという考えがないといけないと思う。LGBTを叫べば叫ぶだけ性同一障害なんだと思ってしまう被害者が増えそうで怖い。
性転換を否定しているわけではない。性転換したい人はすればいいし、もっというなら人間の形が嫌いなら怪物みたい見た目にでも転換してもいいと思う。好きな生き方を選べばいいのだけど一度転換すると元には戻らないから考えないとはいけない。でも本人に信じる見た目があるのならそこを目指せばいいのだ。世の中には首長い族のように首を長くすることが美しいと考える人たちもいるし、自分の信じる見た目なら怪物でも悪魔でもよくて、LGBTの枠はもう自由じゃなくて時代遅れなんじゃないかと僕は勝手に思う。ただ本当に悪魔を信仰している人は社会ではまだ受け入れられない見た目だろうから生きるのが難しいと思うけどね。例えば体中イレズミいれて鼻も口も改造していて目も普通の色じゃないし角を移植してとか、肉体をアートにしている人とかも世の中にはいる。何が言いたいというと男女の固定観念やLGBTに縛られていたら自由じゃないよね?ってこと。だけどLGBTがなくてもそれが当たり前という考えを持てない教育だとLGBTという言葉は必要になるんだろうけど。

周りを気にしなくていいというのを「ものすごく捻じ曲がった考えだ」というのは勘違いで、劣等感には健全なものと不健全なものがあって誰かに合わせることでの劣等感は不健全だと思う。自分勝手に生きるわけではなく、人がみんな同じ考えじゃないから分かってもらえる人の共同体な中で生きるほうが幸せなのだ。だから親に理解してもらえない家庭だと当事者には大きな問題にはなると思うけど。自分らしさとはなんのか?自分のやりたいことさえわからない人が多いのは他の人の期待ばかり考えているからだと思う。ただ普通でいることができなくて他人に合わせないといけないことがおかしいことなのだ。
もちろん他人が決めたものに合わせないと働けない、需要がないという大きな壁にぶつかるだろう。たまたま自分の気持ちと生きるスタイルが世間の需要と合えばいいけど合わない場合は極論で言うと自分で稼ぐようにするしかないと思う。僕は誰かに気に入られようとかするのは苦手だからスキルベースで生きられる社会でないと生き辛いと思う、なのでそういう会社か社会か国に行くか自分で仕事を作るしかないんじゃないかなーって思う。あとは自分らしくの極論は仕事をしないに行きつくはず。お金がないから出来ることは限られるけど、仕事をしなくても認めてもらえる共同体があるかどうかで気持ちは違うはず。両親、結婚していればパートナーとか、たまにあると思うのがお金が全くいらない宗教団体にめんどうを見てもらう人とか。昔の日本は働かない人もたくさんいたって聞くし、ちょっと昔でも男性が働いて女性を養うなんて当たり前のことでみんなが働かないといけないと思っていない、働かないといけないということがもう勘違いだということだ。だけどそんな共同体にいれば何か共同体のためにできるように生きないといけないとは思うけど、たいしたことじゃないと思う。

勘違いで物事を見ていることって幻想みたいなもので、実はみんな幻想しか見ていない。心を騙して命をかけてフリをするおままごと社会なのである。
分かりやすい例は新卒は入社してフリをして生きないといけないというのは分かる人はいると思う。能力のない新卒に自分を出されても嫌のは会社だ。命を削って生きるおままごと社会なのだ。根本的なことに本気になって何も取り組まないから失われた30年なんだろうし、日本の相対的貧困が拡大しているんだと思う。
だからみんな勘違いしているだけなのだ。

僕は自分を隠すほど器用じゃないから女っぽいって思われたかどうか分からないけど彼女はいたし、なんか女っぽいくても好きな女性はいるから気にしなくていいと思うし、それが多様性。

だけど頭で分かっても好みはそれぞれあるから気にすることじゃないけど差別意識を持っている人はやっぱりいる。そういうのも仕方が無いと思う。人間だからみんなが昔から持っている気持ちを捨てることがなかなかできないし完全に払拭できると思うことことも勘違い。一人一人と向き合えばできるかもしれないがそんなことは不可能だからである。それが出来れば世の中の差別はもうなくなっていると思うのになくならないのは何故なのか?ユダヤ人迫害はヒトラーの時代から比べると明らかに少ないがそれでも残っていることからも完全に差別を無くすことは難しいのだ。
だから差別されたことで悲しむより、無視できるなら相手にしない、でも逃れられないグループの中で差別されたら分からせるか戦うか自分が去るしかないと思うけど。

僕は女っぽい男だと思うという話をしたけど、それは分かりやすく話しただけで実は女っぽい男だとも思っていない。それが女らしいとかなくてそれが普通だと思っているからだ。同性愛者などが怖がるのも社会的規範の男性像に合っていないからだと思うのとそれを理解できない周りの環境があるんだと思う。同性愛者がごく普通の家庭の幸せも得られず、諦めやしかたがないという気持ちになるのもわかる。でも僕がその状況なら間違いなく極端な話だと周りがぶっ壊れてでも僕の気持ちをわからせるか僕がぶっ壊れるかを選ぶかなー笑
極端な話じゃなくても僕は僕の気持ちが大切だから周りがどう思うとかあんまり気にしない。だから周りから浮くとか言われても気にしないし周りと違うことが嬉しいし楽しい。簡単な話が楽しんだほうが魅力的だしそんなに心が自由に生きていることに羨ましいとなる人だってたくさんいると思う。みんな冒険が嫌いなのかな?周りを気にしないとか自己中というのもまた勘違いで、自分の気持ちに正直にして辛いより楽しい人生を生きて欲しいと親は思うと思うけど。周りを気にする人が多い日本だから無理に空気に合わせてしまうと思う。でも空気は合わせなくてもそこに理由があれば相手は納得すると思うし、それを納得しない場所なら自分に合わないだけ。人間関係が壊れるというより形成し直すという感じ、それはどこでもありえる話で壊れて作るというのは自然なことだと思う。そんなことで壊れる家族なら愛なんて薄っぺらいし子供のことなんて考えていない無責任な人だと思うから普通は理解されるはず。両親がものすごく子供に期待していたとしてその期待を裏切ってしまうという恐怖を感じても気にしなくていいと思う。それこそ勘違いなんじゃないかと思う。好きな人に告白しようとして嫌われたらどうしようとか考えるのって僕は無意味だと思うし、嫌われないかもしれないし直球勝負したほうがスッキリすると思う。

自分の考えをなんでも信じることって怖いことで信仰心みたいなもので盲信すると真実が見えなくなる。恋愛も盲目になると相手の悪いところが見えなくなるのと一緒。洗脳みたいなもので洗脳されないためには健全に信じない生き方をしたほうがいい。信じることは救われるというが、盲目ではいけなくて疑いも忘れなければ救われると思う。たぶん同性愛を言うことで恐怖があって躊躇する人は国や家族が作った規範を守れば必ず自分を守ってくれると思っているんだと思う。それも勘違い。
国はいつも裏切ってきているのは言うまでなく事実で家族だって強い期待があれば子供を強すぎる期待で苦しめ希望通りにならなければ子供を悪く思ったりするわけだ。守ってくれると思っていながら実は傷つけられていることが多いんだからスッキリしたほうがいいと思う。家族に愛がない限り僕は信じることは出来ない。愛は本心に向き合ってくれることでどんなに世間と比べておかしくても受け止めてくれることだと思う。幻想を信じているのは奴隷と変わらない 笑
奴隷は奴隷でいることが心地よくなって奴隷から脱却するのが不安になるのと似ている。究極的に奴隷の最後って命を捧げることで、それって日本で起こっている自殺と変わらない気がするし同性愛者がつらくて我慢して命を削るのにも同じだと思う。みんな勘違いしているんじゃないかと思う。そろそろ気持ちを大切にしないくだらないおままごとみたいな人生なんて自由じゃないからやめればいいのにっと思う。

あと何かのトラブルがあっても分からせる姿勢って本気で向き合うってことだと思う。世の中たくさんストライキがあるけど危険があることは分かってやるわけ本気になるとリスクはあるのも普通なこと。民主主義ってそういうものだと思う。リスクを求めやすいというが男性像とするより本気に向き合うことは誰でもリスクがあることなんだから男性像にだけ当てはまるわけではない。正々堂々と自分の気持ちに真っ直ぐ向きあうことは、自分だけのことを考える自己中心的なことだけでなく相手のことも考えることにも結果なるので、それが優しさであり愛なんだと思う。

じゃあ苦しんでいる男性がふっ切れて女装したり、同性に告白したりとかできるかというと社会のしがらみがあって難しいんだろうけどね。みんながいきなり女っぽくなったら面白けど 笑

話はちょっと変わるが今思えばたしかに僕には女っぽいかなーと思うことがたくさんあって映画サマーオブ84のラスト15分のように怖い不協和音とともに走馬灯のように僕の人生で女の子みたいと言われてきたことを思い出しすべての記憶が一つ繋がってちょっとホラーみたいでゾクゾクするけど、それは普通としか思って生きていなかったからであって女っぽいということに気づいたことでのある種の気づかなかった別の真実に気づく恐怖のようなものなのだ 笑

あのときも、あのときも、あのときも・・・・うわぁあああー・・・って 笑
だからカリフォルニアに着ちゃったのももしかしたら無意識にでもジェンダー問題が進んでいる場所を選んだのかなーって思ったりもする。

世界は知らないことだらけで面白いなぁ 笑

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