【感想・考察・ネタバレ】ヘレディタリー/継承 実在しそうなエグいトラウマホラー

怖いと聞いていたのでちょっとビビッていた映画を見てしまった。

「うああああーーーやばい・・・」

って思うぐらい僕にとっては衝撃的。
怖くてめちゃくちゃ気持ち悪くてトラウマになりそう 笑
もう見たくないって思うぐらい、ホラーが苦手だと怖いこと間違いなし 笑

アリ・アスター監督のミッドサマーとは同じような構造があるけどヘレディタリーはドス黒い。ミッドサマーが失恋物だったので共感しやすかったのに対してヘレディタリーは共感が難しい。監督の経験を元に映画にしているのは両作品同じこどだけどヘレディタリーにはもっと強烈な深い闇を感じ、それを知るために触れようとすると地獄に引き込まれそうなほどの感じて震えてくる。もちろん笑ってしまうところはあるけどそれは明らかに恐怖を理解できない僕らの頭が混乱しているだけだと思うのもさらに怖い。
家族愛を見せるエクソシストとも違う救いがあるようでない絶望。メンタル弱いと後に引いてメンタルやられるかもしれない 笑
ミッドサマーがよかったからヘレディタリーを見たらショックを受ける人はいると思う。すくなくとも僕はショックを受けた 笑
ミッドサマーのダニーちゃんみたいにかわいそうな子がいて共感するのかなー程度だと思ったら違ってヤバイ 笑
何故、僕が恐怖で絶望しそうになったのかを悪魔や呪いなんてないという視点でちょっとずつ説明、考察していこうと思う。

僕の個人的趣味と興味の範囲の内容で精神的な話と鬱のイラストと映画を少し比較しながら監督の気持ちについてエグイ話をするのでトラウマになるかもしれないのでメンタルが弱い気をつけて読んだほうがいいだろう 笑

映画から感じた監督の気持ち

アリ・アスター監督がヘレディタリーでしたかったことは英語インタビューで語っている。
要約すると


・観客を深く動揺させることを第一の目的としていました。
・この映画は実在するホラー映画だと思っています。
・私の悪夢は近くにいた誰かをうっかり傷つけてずっと罪悪感を持って生きなければいけないものです、また何かの方法で変化していくのが好きで、私を裏切るか去るか死ぬかのいずれかで展開し本当に治療法がない恐怖を利用した映画を作りたかったのです。

また監督は他の英語のインタビュー

「僕にとって本当に神聖なものはないんだ。ヘレディタリーでは悪魔を使いたくなかった理由は僕はユダヤ人なので悪魔に敬意を払ったりすることはないからね」


と言っている。

つまりこの映画は呪いも悪魔も出てこない実在してもおかしくないホラーであり、何かの拍子にしてしまったことで、監督に深く関わる人が裏切るかいなくなるか死ぬかして、ずっと監督が罪悪感を持って生き悩まされ苦しまなけばいけない恐怖、なんだと思う。前知識としては監督は弟が亡くなっていて家族に起こったことを映画にしているらしい。
監督の言葉で一番気になったのが「私を裏切るか去るか死ぬかのいずれかで展開し本当に治療法がない恐怖」というもの。
最初これを聞いてもあまり意味わからなかった。監督はしっかり説明しないので分かりづらかったがでもやっと自分なりにわかったことがあった。簡単にいうと価値観が違うものが逃れられない環境にいる場合は去るが死ぬか受け入れていたけど最後は裏切り攻撃してくるかなんじゃないかと思った。
例えていうなら
監督の例で言えばわかりやすいのがショートビデオThe Strange Thing About the Johnsonsで女性っぽい気持ちがある息子が家族である父を好きだけど、父はその価値観を受け入れられず去るように距離をとっていた矢先に事故で死ぬ、母は息子が父を好きなのを知っていたが見て見ぬフリをして受け入れているような様子を見せつつ最後は息子を裏切り殺すのだ。家族は逃れられない共依存関係だ。ここにあるのは簡単に言えばLGBT問題に関わる話とかつ家族のタブーだ。監督はおそらく女性っぽい性格でそれを受け入れられないほど父の威厳が強い家族があってその中で監督の弟も無くなって弟を守れなくて罪悪感があるかまた違うことでのつらさがありその過去を映画にしたいんだと思う。そのことからヘレディタリーはホラーで気持ち悪いけど社会的に意義ある映画ではあると思う。

記事によると


自分にとってはパーソナルな内容で、自分の分身となるようなキャラクターがいます。『ミッドサマー』ではダニー、『ヘレディタリー/継承』では何人かに分けています


と監督が言っているので様々なことが監督の何かを表わしているのだと思う。

ヘレディタリーでは近親相姦の話は出てこないがチャーリーの首、母親アニーの首の事件は監督の強烈な罪悪感があらわれているように思ってしまう。監督はインタビューで食事のとき家族の前では家族のフリをしなければいけないと言っている。クビを切る行為はものすごい抑圧を感じていて、何かうっかりしてしまったことに「僕はそんな子じゃない!僕をそんなふうに思わないで!」と思っているようにも見えるし、特に母親アニーが自ら首を切ることは母親の首を母親自らが切らないといけないほど監督が母親に自らいなくなってほしい、もう何も思ってほしくないと攻撃的な願望と監督の心の悲鳴が感じられる。「お母さん、そんなふうに思わないで、そんなふうに見ないで、そんなふうに見つめないで!お母さんを傷つけたくないのに・・・・あぁぁぁあああ」と言っているかのようだ。近親相姦ならなおさらそういう状況になってもおかしくないんじゃないかと思う。キリスト西洋社会で近親相姦なんてあったら恐ろしくて生きていけない気持ちになるのかもしれない。もし監督が強迫性傷害があるならなんども自殺をしようと思っただろう。本人が完璧主義で心配症なだけど言っていることも強迫性傷害があるかのように思えてくる。気になって気になってたまらない、不安、恐怖で頭がおかしくなって寝れなくて、ますます頭がおかしくなって何かに心が追われ続ける心境になったのかもしれない。それだと、とんでもない疲労があっていつでも死が近くにあったに違いない。狂いまくっている。

抑圧を感じる食事風景↓

参照:IMDb

アニーの兄は16歳のころ「母が自分の中に何かを入れようとした」と遺書に書き自殺。これも監督の何かの葛藤なんじゃないかと思ってしまうのは妙に具体的に聞えてくるからだ。例えば近親相姦で嫌がる相手に「好きになってほしい」という感情を抱かせようとしたとか、監督の感情に悪魔的な罪悪感を感じるようにさせられのかな、と疑ってしまう。

監督の気持ちが映画にたくさん含まれているとすると死は何度も泣いて死にたいと監督が思った気持ちなんじゃないかとも思った。鬱は罪悪感持っているのものである。

近親相姦は監督のほかのショートビデオThe Strange Thing About the Johnsonsで父親への同性愛を見せていたりミッドサマーでも出てくるので想像でしかないけどありえそうな話である。このショートビデオでは近親相姦の相手となる父親は事故で死んで母親に息子は責められて息子は母親に殺されてしまう。ヘレディタリーでは形を変えて近親相姦を表現しているように思うのがおばあちゃんのエレンがチャーリーに授乳しようとし男の子になってほしいと思っていたこと。アニーの父は餓死、兄は「母さん(エレン)が僕の中に人を招きいれようとする」と言って自殺。これは家族の中に捻じ曲がっている愛があるとエレンからは見て取れ、チャーリーもエレンのことがもしかしたら普通の好きより特別な存在として好きだったかもしれない。アニーの兄が死ぬのもThe Strange Thing About the Johnsonsの父親が息子の愛を受け入れられないと思っていたやさきに事故で死ぬようなものにも似ている。近親相姦のようなの感情をそれぞれの人に振り分けいるようにも見える。

さらに映画ではクビと体が違う人形がたくさん出てくる。これらからも監督に強烈なプレッシャーがあり「自分はこんなんじゃない」という気持ちの表れのようにも見え、「フリ」をして生きている自分と本当の自分の二つが強くあるんだと思う。ものすごく攻撃性のある映画である。監督が静で何も語りたくないと思っている理由もなんとなくわかって怖い。
もちろんこの監督の感情の二面性だけでなく母親アニーの総合失調症と夢遊病も表わしているとは思う。顔と体が違うのは映画ゴーストランドの惨劇でもあり見ている世界が現実がどうかわからなくなることを顔と体の違う人形で表わして、さらに殺人鬼にも性格に二面性があることを表わしていると僕は思う。それを二重人格ともいうだろうし精神病、夢遊病、抑圧を我慢しているピエロのような本人の気持ちとかなんでも二面性と言えると思う。またどちらの作品にも形は違えど人形がたくさん出てくる。ヘレディタリーでは人形の周りが整理されいないため特別どの人形が好きかどうかがわからなく、どれが好きかを決められない感情があるんじゃないかと思う。監督は女っぽい部分がある。女の子が男の子より序列をつけるのは有名な話でチャーリーが人形に序列をあえてつけていないんだと思う。それは序列をつけて特別に好きになることで他の人形に嫌われると思っている可能性があり、人形によってチャーリーの心が操られている強迫観念のようなものがあるかもしれない。それはカルトという視点からも説明ができるかもしれない。例えばエレンによって洗脳のようなことをされた家族が深層心理に悪魔ペイモンを崇拝しなければいけない、ペイモンを召喚することをしなければいけないペイモンにずっと見られているような気持ちになっているのかもしれない。それがチャーリーの心にあったのかもしれないし、家族全員にもあったのかもしれない。だからこの映画の怖いトラウマになる音やチャーリーの「コッ」という舌鳴らしもペイモンが近づいているかのごとく死と恐怖と抑圧が徐々に近づいているように聞え、監督の逃れられない心の闇を見せているようである。人形の見た目からは性別がわからないことから性別でものすごく苦しんで、今の性別だったから何か罪を感じて性別なんて無くしまいたいと思っているのかもしれない。心の中がずっと誰かに狙われている、見られている恐怖があってその脅迫感と罪悪感が入り混じりった荒廃した心がうまく映画では表現されているようである。それが近親相姦だとしたら同姓が好きだけど近親相姦のタブーと同姓ということで苦しいという悲鳴にも見える。またゴーストランドの惨劇からも同じようなこといえると思う。どの人形も同じように並べられ特別感がなく特別に扱うことを避けたい、その先は人形から「特別に扱うな」という脅迫のような恐怖を感じる感情もあるんじゃないかと思う。ただどれも女性なので女性に対して非常に愛と攻撃性がありそうだ。攻撃性と愛は紙一重と言われる。人形と人形には密接な感情の関係があり、シュールレアリスムの画家ダリが人形をどこでも手放さず、あるとき人形が行方不明になったときダリは激しいパニックで倒れそうになったことがあるように人形と人の心理は心に悩みを抱えている人には強烈に密接なのだ。
またダリに関連してダリは映画アンダルシアの犬で手にアリが群がるシーンを見せている。ダリの作品でアリの群がりは死の象徴らしいのでヘレディタリーでもアリの群がりがあるのは死や腐敗の象徴だと思う。

映画アンダルシアの犬↓

もう一つ気になるのがチャーリーが描いたピーターの絵の目が消されていること。ここからはやってはいけないことをやって見られたくないという抑圧と罪悪感が感じられる。それはもしかしたら監督の亡くなった弟かもしれないし家族が誰かなのかもしれない。なのでチャーリーがペイモンに導かれるように死ぬのも人形(ペイモン)からの強迫観念と罪悪感のような強いものがあったらアレルギーで発作が起きながらもペイモンに死を導かれたい気持ちがあったのではと思う。やっとこれで解放されると。それはかわいそうなことでチャーリーの気持ちに誰も気づけなかった結末でチャーリーは社会の中の被害者でしかないのだ。このような映像を作ることで監督がもし同じような苦しみがあったなら苦しみを表現できて少し心が解放されたんじゃないかと思う。考えていると怖くてしょうがないけど、面白い 笑
だいたい顔と体が違うものが出てくると精神的な世界に行くと思う。

ゴーストランドの惨劇↓

出典:IMDb

苦しいものが生まれ変わるとは顔を変えたいほどのものなのだろう。本当の自分なんだという考えもあるが苦しくて苦しくて絶望から脱却したい気持ちの表れにも見える。ヘレディタリーでは人形がたくさん出てくるのでその数の分、監督は苦しんだのかもしれない。
「見つめないで、これは僕じゃないんだ、心も現実も歪んで壊れて僕がどんどん消えていくようだ・・・あぁ見つけたよ本当の僕を」そんなふうに僕は感じた。

映画の怖い徐々に何かが近づいているようなトラウマの音は鬱の気持ちなんだと思う。何かが忍び寄ってくる気持ちをずっと感じているだと思う。「逃れられない、逃れたくても、逃れられないんだ」という心の叫びが聞えてきそうだ。

家族が精神に病を持っていることはヘレディタリーとミッドサマーでも同じなので監督には本当に家族に精神病持ちがいたのかもと思ってしまうが、ここはあえて監督の心の世界を見せていると考えたい。
精神病が監督の中の何かだとすると、夢遊病は見たことにしたくない、知らないことにしたい母親に忘れて欲しい、記憶を消して欲しい気持ちの表れなんじゃないかと思えてくる。
総合失調症も母親に対し普通であってほしくない気持ちがあるようにも見える。
もしかしたら母親ではなく監督の中にある女性の心へ強烈な攻撃性があるかもしれない。

さらに気になるのが監督の作品にはおばあさんが出てくる。ヘレディタリーでもミッドサマーも一応悪いようには見えないので女性への自立やらフェミニズムもあるのか思ったり、裸がたくさんでてくるのでヒッピー文化や自然崇拝のリスペクトがあるのかと思ったが、もしかしたらそれよりも監督がおばあちゃんっ子で祖母に何かあったんじゃないかと思う。そう思うのもヘレディタリーではおばあちゃんが好きなチャーリーがいたりする点とヘレディタリーでもミッドサマーでも普通の視点からすると一応狂っているおばあさんなわけである。狂っているおばあさんと聞いて頭に浮かぶのは認知症や痴呆の人である。認知症やそれに似た精神障害は年齢に関係なく度を越えると様々な奇行が始まると思う。徘徊、唸り声、悪魔が乗り移ったかのように奇怪なことをし尽くしていくというのはありえる話で、映画ではアニーが祖母が立っている幻覚を見たりエレンが自分の胸で授乳させようとした、カルト教団が突然裸で立っているのもおばあさんの認知症と関係しているのかなと思った。普通に考えて子供の後ろに突然認知症のおばあさんが笑顔で裸で立っていたら恐怖を感じても不思議じゃない。トラウマになってしまうかもしれない。もしそうなら監督は複雑すぎる事情が重なった狂おしいほどの苦悩に満ちていた人生なのかもしれない。

ミニチュアの中だけどエレンが不気味に立っているところ。認知症とかならありそう↓

おもちゃでも胸が出ていたので一応モザイクを入れたが、エレンが授乳させようとするところ↓

カタルシスについて考える

監督にはすごいカタルシスがあったんだと思うが一般の人にはそこまでカタルシスがないと思う。僕もそこまでない。僕が無いのは気持ち悪いことにあまり理解したくないという気持ちがありカタルシスを感じることができたとしてもしないようにしたいのだ。
このカタルシスを簡単に言えば悲しいことがあったときにどっぷり悲しい曲を聴いて繰りどん底の気持ちになってあとに、かなすか希望を感じて立ち上がっていくことができるというようなものだと思う。
だけどこの悲しい気持ちの度合いが映画は違う。たぶん死を愛するということだけど、死と愛は日本のアートにもあるがそれとも違う。例えていうなら母親チンパンジーが死んだ子供をミイラになってでも抱きかかえていたという愛のようなもので、映画で言えば恋人が殺されてやっと見つけたと思うと骨になっていて、でも悲しくて愛を込めて抱きしめるというような愛がヘレディタリーにはあるんだろうなぁと僕は思った。
とんでもなく抑圧と強迫観念を持っている狂っているピーターにとって大切な家族とチャーリーが死んでいく。すべてカルトによって起こされたことだけどPTSDを持つピーターにとっては極度のストレスがあったと思うし、PTSDは恐怖や辛い感情が蘇って繰り返しり不安が襲ってきて脅迫観念で幻想さえ見えてしまうかもしれない。そこから希望を見出すには死を愛さないと出口はないんだと思う。
すべてコントロールされている世界である意味、奴隷のようなものかもしれないが、コントロールされていることは逆に安心感も含まれていると思う。奴隷というのは実は一度なってしまうと幸せなことで奴隷から脱却すると不安になるので脱却しようともなかなかしない。究極は奴隷の最後はご主人様のためなら命さえ捧げることが幸せなことなんだ。エレンにすべてコントロールされていてみんな死んだとしてもペイモンに奴隷のように命を捧げることはある意味幸せだったんだと思う。監督が強烈な不安定な感情があったなら運命論で安心感を得たいと思うのも無理はない。

だけどこれを他人事としてバカにできないと思うのも現代では奴隷みたいなことがたくさんある。
例えるなら日米関係でアメリカとの関係が悪くなると不安になってアメリカの機嫌を取り冷たくされるとどんどん大切なものを上げようとする。ブラック企業でずっと働く、戦争でもないのにとんでもなく苦しい思いをして働き自殺する人がたくさんいることは戦争より精神的にひどいことが起こっているんじゃないかとも思う。見方を変えると奴隷と変わらないことが起きているならヘレディタリーと同じく不条理なカタルシスを感じないと生きられないほどの苦しい人はいるんじゃないかと思ったりもする。

ただ僕が共感したくないと思ったのが死者の顔を使ったりする道徳を崩されそうになることにカタルシスを得ないといけないと思ったことだ。このカタルシスの先に想像するのが死者しか愛せなくなるということなんじゃないかと思う。監督はそこまでではなく上の例で言った母親チンパンジーのねじれた家族愛に近いと思うと、チンパンジーは抱いていたわけだから生きている子供のように扱っていたはずでミイラになった子供にもキスをして愛情表現をしたに違いない。もしそれが母親と子供でなく男女の性的な関係に変わるとキスで終わらない話になりなかなか受け入れられない。さらに映画では大切な死んだ人を墓から掘り起こしてしまうわけで、監督にネクロフィリックな考えが普通より強くあるんじゃないかと思えてしまう。
気持ち悪くて怖い。だから共感したくないのである 笑

しかしもう少し考えてみると、人間の特徴としてとても心配症で綺麗好きで部屋がとても綺麗な人でかつ動物が嫌いな人はネクロフィリアな可能性があるらしい。それって監督っぽい。心配症で完璧主義で綺麗好きだと思うし。意識をしていなくても無意識の中で死に憧れ生き物の多様性を生理的に嫌いな人らしく、人は皮膚の下にはぐちゃぐちゃなものがありそれが生であり生き物にはそんな汚い暗いものがあるものだと、腐の部分に生を見出す人。だけどその考えは極端な話しであっても誰しも死の願望は心の中のどこかにありネクロフィリックなものもありそれで心でバランスを保っていると思うから、死が平和の象徴という概念もわからんでもないし、生命とはグロテスクなものであり人間が生まれる前は人間の形をしていないんだから「生ってそういうもんでしょ」と言われたらそうかもと思う。ネガティブな部分に人間や平和や愛を見出して考えることはすごいことだと思う。
普通の人でもネクロフィリックな感情を表に見せてくることはある例がレディーガガがアートとして体中に動物の肉を貼り付けてドレス風にしたけど、その真意は

「私たちが死ぬと、その肉体に性差はなく、違いはない。だから差別するべきではない。命が尽きれば私たちはみな同じ肉になるから」参考記事

というものがある。

マイノリティーの絶望からの反抗が肉ドレスなのだ。これもネクロフィリックな要素の一つだと思う。そもそもホラー映画はネクロフィリックな部分があるし、現代で言えばゴスロリや中世のゴシック建築もネクロフィリックの欠片と言っても完全な間違いではないと思うので誰でも持っている気持ちだけど傾きすぎるとあぶないものになるのだ。
僕がヘレディタリーに気色悪さを感じたのはちょっと傾きすぎものを感じて怖かったんだと思う。首が飛んでアリがうじゃうじゃなっても「これこそ人間であり生であり嫌悪感を持つべきじゃないんだ」、というメッセージに聞えるぐらい露骨に血が飛ぶようなエンタメがを避けているように見える。

ミッドサマーにはそういうの感じがなかったので、ヘレディタリーではホラーにするために嫌な事を詰め込んだだけ、もしくは僕の考えすぎだと思いたい。

そもそも遺体の顔を喜べるものとして使ってほしくないと思うのもバラバラ殺人事件を楽しむ犯罪者心理に近い気がするからだ。殺人描写であればもうちょっとスッキリしているほうが受け入れやすい。せめてミッドサマーぐらいにしてほしいなぁ 笑

基本的にメリーバッドエンドの救われない世界の中のかすかな救いは好きなんだけど、自分の中でやってはいけない壁を越えると愛はあっても思考停止になっちゃう。だから僕は映画ハウスジャックビルドのジャックが遺体をアートにしてしまうことが受け入れられず好きじゃなかったともいうのもあるが、気持ち悪いシーンがなければ嫌いじゃない話なのだ。
例えば、昔話にお銀と小金物語というのがある。

腹違いのお銀と小金がいて、小金とお銀は同じ父親で、その父親が亡くなってしまう。母親は小金だけ幸せになってくれればいいと思いお銀を殺そうとするのだ。水が流れ込む穴にお銀を母親が落としてお銀はもう助からない状況になり小金に助けを求めるが子供の二人ではどうすることもできない。二人はとても仲良しで小金の最後の決断は一緒に死ぬということだったのだ。
愛のために命を捨てるそれも子供がである。
誰が見ても悲しく切なくやるせない話になるに違いない。これとヘレディタリーには似た部分があると思う。カルトでもエレンの愛を継承している家族が狂って愛のために死んでいく。チャーリーはエレン、アニーはチャーリーのために死に最後は崇拝される。チャーリーはかわいそうな子だし、アニーも気の毒なほど精神が追い込まれているしピーターもアニーに見放される思いとチャーリーを殺してしまったことへの罪悪感で辛かっただろう。それらを救うには家族が求めたペイモンを崇拝するしかない。絶望の果てに喜びを見出したならその喜びは懐かしいものとなるかもしれない。例えると、想い出のある音楽があまりにも悲しい曲でも懐かしくなってくる感情。絶望な世界のアニメなのに懐かしくなってくる感情。ふとしたときに絶望的な孤独を覚え、でも懐かしくて泣いてしまそうになる気持ち。不条理な気持ちかもしれないけど、不条理の気持ちはみんなもっているのだ。現代の秩序の背後に隠れた偽善性とからくりに無意識にでも気づかないように生きようとすることがもう不条理な心理。映画でいくつかでてきた淡い光の使い方もペイモンの導きが悪いことでなく幸福に向かっていくかのように見えたり、もしくは悲しみの中にどこか切ない懐かしさえ感じさせてくる。そんな感情が監督にもあって、泣き虫の監督の胸が「ぎゅううう」ってなって苦しい気持ちになって、ただ共感してもらいたい話を聞いてほしいって思っているじゃないかなって感じる。不条理なカタルシスは僕たちの生活に溢れていると思えるからこそヘレディタリーが狂っていても少し共感できる部分もあるのは間違いない。

どこか懐かしいような、何かに導かれそうな光の雰囲気があると思ったシーン↓

参照:IMDb参照:IMDb

アニーの結末は夢遊病と遺伝だけでなく自己催眠によるかもしれない

夢遊病では実際に殺人事件なども起きているらしく映画のようなことはありえるように思う。
アニーが的はずれなことをいうのも、夢遊病者の目が覚めた後に状況の把握ができる混乱しているかのようだ。夢遊病者が夢の中で誰かを守ろうとして戦っている最中に目が覚めると知っている人を殺していたとかあるらしく、アニーがエレンを墓から掘り起こして首を切ってしまったということはありえる。もちろん教団がやったかもしれないけど。

気になったのがアニーはジョーンの家で降霊術のようなものをして亡くなったチャーリーがコップを動かしているという体験をする。これでパニックするアニーはもうすでに自己催眠状態で信じ込まされていてるんだと思う。似ているのがこっくりさんのような話で降霊術によって人を信じ込ませパニックさせる。コックリさんをしたことがある人や興味があって事例を調べたことがある人ならわかるはずである。パニックになったり叫んだり、泡を吹き出したり、怯えたり。信じやすい人がなりやすいと思うこの状態を解くにはそのゲームにある終了を意味する行動をするか本人が嘘だとどうにかして気づくことが必要だと思う。そうでないとずっと信じてしまい普通の生活ができないぐらい悩まされることになるかもしれない。金縛りにかかったり息が出来なくなったり寝れなくなったり死そうになったりそれが続くと夢遊病がなくとも夢遊病のようなことが突然起きる可能性だってあるかもしれない。なのでコックリさんのような降霊術をしたことがあって心身のトラブルを経験したことがある人はジョーンとアニーがする降霊術でアニーが驚く顔を見て怖くなった人もいるんじゃないかと思う。こっくりさんでPTSDになってる人ならフラッシュバックを起こすかもしれない。フラッシュバックについて同じことが言えるのがアニーがスティーブを燃やしてしまうときの顔が衝撃的な顔をしてその後、静に別の顔になる。ここは笑ってしまうと思うし、僕も笑ったんだけど、よーく考えてみるとこれは心に傷を負っている人だとこの顔の変化がフラッシュバックになるんじゃないかと思う。降霊術を小学校などでやっている人がいたら顔が変わることがありえるのが想像できると思う。もちろんここは映画では光が降りてきてペイモンが降りてきたという意味もあるけど、実は悪魔も呪いもない設定で見れば洗脳か暗示によって作られたことのトリガーが発動したんじゃないかとも思える。その暗示や洗脳ってたぶん遺伝やら環境、精神病も加わった逃れられないものが積み重なって発動したのかなと思う。その結果アニーが自らクビ切りまでしてしまう。

降霊術をしているところ↓

表情が光が降りてきた後に変わる。僕は最初笑ったけど考えて見直したらゾクゾクして怖かった。精神が病んでいる人の感情の変化でありそうなので光は感情は変わったと意味にもなる。↓

自己催眠(自己暗示)にはものすごい力があって現実に起こっていないのに本人が起こっていると思ってまうことで心拍数や内臓の動きの変化、感情の変化などがでて人は観念や思考によりすごい力をはっきするのだと改めて思う。それが命までかけられるほど信じてきた人類の宗教でもあるのかもしれないけど。

いやー監督の家族がこんなめちゃくちゃだったら僕は生きていけないだろう 笑
たぶん色んなところにトラウマになったことを含んでいると思うから、映画を見た人にトラウマがあったり精神疾患で悩んだことがあるなら思いだしたりしてパニックになったり発作がでるんじゃないかなって思うのは言いすぎだろうか。瞑想や自己暗示は呼吸を調整したり合わせたりすることだと思うから、アニーの顔がゆっくり変化する部分は見ているこっちが呼吸を整えられそうでちょっと怖かった。それの何が怖いかというと僕の仮説だけど精神病や鬱病は理解したときに本人にも影響を与えるので理解だけでなく呼吸まで合わせられると、こちらから呼吸を合わせられるわけじゃなくて相手に合わせるだけだから気分が悪くなる人がいるんじゃないかとゾゾッとする。何も考えていない人なら笑って終わりだろうけどメンタル弱かったらきついんじゃないかなー。そのくらい精神疾患の怖いドラマに見える。
精神病、認知症、虐待といった同じような経験がもしあれば僕が感じた以上に当事者には怖い映画になったんじゃないかと思うので、ちょっと怖い。
間違っているけどこんな家族の中で生まれればすべての死とカルトを受け入れるある意味強い気持ちと意志がないと、幻覚と夢さえもわからなくなり頭が狂って人格崩壊で死ぬか精神病院行きだろう 笑
だから監督は何か過去にあったやばい出来事をもう受け入れているかもしれないけどそれでも罪悪感があって映画にして少しでも気持ちを浄化しているのかなぁって思ったりもする。

ちなみに僕は精神病は持っていない。ただ精神病の映画や小説を面白くて読むことが多くてそれらの知識から想像できる部分があるだけだと思う。なので精神病家族の崩壊という点では興味深く見れた。

そして何で遺伝でありカルトなのか?精神病の遺伝は現実にもありカルトによっても操られるという意味以外にも下記のイラストを参考にして言えば鬱の症状として誰かに寄生されているような気持ちになっているのを意味しているのかもしれない。
体の中に誰かがいるようで誰がいるのか教えて欲しくでもわからない。無限に広く感じる真っ黒な孤独が体中に絡み付いて、ほどけたくてもほどけなくて動けない気持ちになるのだろう。まるで遺伝によりペイモンが体の中にいるかのように。

また取り付かれているようなシーンはピーターの目映る赤い反射からも感じさせる。普通なことなのに悪魔がいなくても怖く見せるのがすごい。

ちなみにチャーリーがノートに描いたハトの目には花のようなものがある。これがミッドサマーの背中を広げられ殺されて目の周りに花びらを貼り付けられているシーンを思い出す。なぜ目の周りに花なのかの真摯は謎だ。

最後の悲劇はピーターの妄想の可能性もある

最後にペイモンとして崇拝されるのも夢遊病か精神分裂が起こっているのではないかとも思える。
ピーターはチャーリーが死んでから学校で自分の不気味な笑顔がガラスに写っているのを見ることや。それは精神分裂か夢遊病の兆候かPTSDで幻想を見ているか。
最後アニーの体が小屋に浮き上がっていくのもピーターが幻想を見ているということだろうし、裸のカルト集団も幻想の可能性はなくはない。
アニーとピーターの幻想を見せつけられた映画だったとしたらどこにもカタルシスがないので微妙だから監督の心の問題を表わした映画だとすると救いが無さ過ぎるので、妄想だという可能性は低いと思うがありえる話でもある。
ちなみにチャーリーの死は監督はカルトによるものと言っているのでおそらくチャーリーは死んだと考えたほうがいいと思う。

映画ではピーターだけでなく他にもガラスに写るシーンがある。ミッドサマーにも同じようなものがあるように鏡に映る。下のイラストは自分をキャンパスに描いているいるものだ。自分を映すことは本当の自分を見せるものだと思う。ガラスにはピーターの笑顔が映っているのはPTSDでもあり心の中の狂った悲しんでいる悪魔のような気持ちを写しているんだと思う。

この映画はトラウマや心の悩みや疑問に正面に向き合わないことがすべて問題を起こしている。
・アニーは精神病を持つ母親エレンをピーターを出産したときにエレンに渡さないようにして、トラウマに向き合ってきていない。
・スティーブもエレンの墓が荒らされていることについて真剣に追求しようとせずそのまま。
・ピーターはPTSDがあるもののチャーリーの死を受け入れられず両親に発見されるまで話さない。
・アニーはピーターを産みたくなかったという感情があったのでその気持ちに向き合ってこなかった。
・エレンが悪魔崇拝をしていることさえエレンが死んだ後にならないとアニーは気づかない。
・チャーリーの描いている絵がおかしいことにもチャーリーが死んだ後でないと気づかない。

問題を先送りにはしてはいけない、というメッセージにも取れるし問題を先送りにするというのは身近なことでたくさんあると思う。それが積もると悲劇が起きる。悪魔崇拝者の立場で見ると気分は多少良くなるが、それでは精神病を抱え問題の本質を見ることを先送りしてたグラハム家と変わらないのだ。遺伝性精神病、総合失調症による家族崩壊の恐怖を見せ付けたヘレディタリーは社会派ホラー映画と言ってもいいかもしれない。

キリスト社会への批判

エクソシストでは神父が出てくるがヘレディタリーはカルト教団しか出てこない。監督の心の闇がキリスト教社会では受け入れられないのならキリスト教批判のような映画を作ったと考えてもおかしくない。
マイノリティーを批判する社会へ狂ったと思われるかもしれない人でも受け入れてほしいという願いのようにも感じられる。
もしそうならば世の中の多くの人が怖いまたは思慮深い見たことの無い映画だとと批判したり絶賛したりするのは監督の悩みはやっぱり受け入れられないと言っているのと同じなんだと思う。怖いという目線が悪魔が出てきて家族を崩壊させる、今の社会では考えられない理解できないことを見て怖いが一週回って思慮深いと言う。でももしこの映画を現実なものとした場合は違った怖さが出てくる。壮絶すぎる恐ろしい話だけど、苦しいけど完全に否定できない家族の話で視聴者が一方的にマイノリティを見ないように排除して見ている姿勢に差別や偏見はなかなか無くならないんだという喪失感。差別なんてするなといいながら叫んでいるものにしか目がいかない、ポリテクが素晴らしいといいながらきちんと真実を見ていない嘘の表れ。これはミッドサマーにも共通してあった。またLGBTの問題も映画は含んでいるだろう。上で説明したように人形には性別がない、キリスト社会の男女を気別することに怒りさえ感じているのかもしれない。
監督はヘレディタリーを作った際、視聴者には受け入れられないだろうと思ったらしいが、その逆で受け入れたことに驚いたらしい。受け入れられないものを作ろうとしたならキリスト社会への批判、偏見の固まりの社会への批判、ポリテク批判があっても不思議ではない。チャーリーを不気味に見せるのも偏見だと、叫んでいるアニーの顔が笑えるのも視聴者の思い込みで現実である話なんだと。

僕は首が飛んだり、気色悪いラストのような描写さえなければ監督に同情さえしてしまう。

映画内でハエがたくさん飛んでいたが、西洋絵画でハエを描かれている場合はキリストの受難であり腐敗、悪魔などの象徴なので悪魔の視点から見るとペイモンが近づいている。キリストは受難の後に十字架にかけられ死にそして復活するので、最後にぺイモンがピーターに降臨するのはペイモン復活の意味でキリスト教を皮肉っている。

ハエが描かれているジョヴァンニ・サンティ (Giovanni Santi)の作品天使に支えられるキリスト(Cristo accompagnato da due angeli)↓

ラストのシーンはイエスキリストの復活を皮肉ったペイモン復活

キリスト教には受胎告示という作品があり突然、大天使ガブリエルが処女マリアは聖霊によりキリスト授かったことを告げる。それとは全く同じではないが、悪魔的にも見えるのがクイーン・エレンがアニーに強引に出産を迫りペイモンの器になるピーターを授けさせるという強制受胎。精神病の人は純粋で真面目な人も多くある意味純潔だと思うのと受胎はキリスト教の大切なものだと思うので思うので悪魔式の受胎告示に見えなくもない。

レオナルド・ダヴィンチ 受胎告示 ↓

キリスト教批判、それは監督が映画で見える愛は人類愛による神への反逆にようなものでキリスト教が作り上げた西洋社会は本当に苦しんでいる人を助けない。そんなキリスト教が罪人に渡す天国へ行けるための免罪符なんてもらいたくないとでもいうかのようである。神は認めるでも今の神ではいけないのだと。神がない世界が地獄であっても地獄は人類の終わりではなく苦悩することで初めて救いが導かれるのだと。無神論に近いもしくは今とは違う形の神が必要だとも聞えるこの考え方が監督にあるかもしれないというのは監督の発言に

「僕にとって本当に神聖なものはないんだ。ヘレディタリーでは悪魔を使いたくなかった理由は僕はユダヤ人なので悪魔に敬意を払ったりすることはないからね」

というところからも少し分かる。
この映画の隠れた意味はキリスト社会が否定する側のある種の聖戦なのだ。それはジョーダンピールが映画アスでも同じようにキリスト教社会への批判とそれに対する聖戦のようなものを見せていたのとも似ている。今人気の韓国映画パラサイトがかわいく見えるほどの現代社会の社会的少数派が直面している心の貧困格差を見せ付ける生ぬるくない話が映画ヘレディタリーなのである。

それは黒死病でたくさん人が死んで満足に人の心も救えないキリスト教社会を疑い生まれた思想である「人間にとって幸せとは何なのかを見つめ、ありのままの人間を知ろうとしたヒューマニズム」なのである。監督のしていることはまさに中世で起こったこと間接的に見せているように思う。この後に中世ではプロテスタントの生みの親マーティン・ルーサーが現れ、カトリックとプロテスタントの殺戮が起こったのである。ユダヤ人でもある監督の映画を通した痛烈なメッセージをキリスト教とは違う位置で世界を見ているユダヤ社会の人たちは肯定したのかもいれない。新しい宗教が生まれる前兆だろうか・・・・。現実社会にもそのようなことが起こりかねないと今回の映画からは思ったので気をつけて生活をしていきたい。

それと監督は死への崇拝のようなものがあるように見えて実は不死への信仰なのではないかと僕は思う。ヘレディタリーでも魂は引き継がれ不死であるかのような終わり、ミッドサマーでも輪廻転生の考えがある。宗教では不死の考え方はよくある話だけどなんでこんなに不死を感じさえてくる映画なんだろうと思うのは監督がそのようなものを求めているのだろう。
例えば本当に苦しんだ人は不死に救いを求めないと希望はないのに、現代社会が永遠というものを信じていない心で冷めている人だらけで愛を感じない社会がある。男女間でさえ永遠の愛なんてないと冷たい考えが蔓延し永遠に愛よりもお金が大切と考える人はたくさんいる。お金は大切だけど人が絶望した時には永遠の世界に救いを求めるように人は永遠に安心できる場所を求めるというものを深層心理では持っているはずなのだ。それを否定している現代で愛がないから感謝もできない自分勝手な考えが蔓延し、ありのままの自分を受け入れてもらえない、ヒューマニズムとは違う考えがあるのかもしれない。ヒューマニズムが絶望の時代の後に生まれたように絶望を感じたことも考えたこともない強者の論理でしか考えられない人達が「ありのままなんて」「永遠の愛なんて幻想」だというのである。

そんな人たちに「マイノリティを排除し新自由主義を盲信する君たちは何も見ていない、わかっていないんだよ!現実を感じて震えろ!」と言わんばかり、言葉ではなく映像で見せつる作品を監督はぶちこんできたのか、そこまで考えてなくても嫌われるだろうなぁとは思ったんだと思う。だからたくさんの人に最高のホラーとして受け入れられたから監督も驚いているのだ 笑

そしてキリスト教批判に関連して面白いと思ったのが、上でも少しシュールレアリスムのダリに触れたがダリの作品はキリスト教批判でもあり、さらに監督はダリと自分を重ねたのかもしれない。監督がおそらく幼い頃からトラウマと強迫観念があるようにダリにも幼年期からのトラウマと強迫観念があり、そのためダリは既成概念を破壊する思想でもあるシュールレアリスムで自分を解放しようとしたのだ。映画ヘレディタリーでもダリが使った蟻だけでなく、全体通しても既成概念を壊してきたホラー映画であるのでシュールレアリスムに関連する作品と言っても間違ってはないかもしれない。シュールレアリスムに被せてきたと考えるとたぶん僕たちが考える以上な強烈な批判なのだ、でもキリスト教徒たちがヘレディタリーを強烈に批判をしているのも見つからないし、言ってもこの映画はクリスチャンとしては見ないことをお勧めするぐらいのものをネットでは見つけれる程度。
シュールレアリスムは見る人が作者のやりたいことや遊び心なのか哲学など表に出てこない世界にちょっとでも理解して共鳴しないと面白くない、全く意味がわからないとなる。そのことがわかるのが数々の意見の違うレビューだと思う。心の中の世界の理解は見る人の感性が高くても作者が精神的に成熟しているとは限らないので理解できないことがある。精神科医のフロイトはシュールレアリスムで人の本性の善悪の公式を見つけようとしたらしいので、ヘレディタリーは見る人の信じる善悪を露呈させてくるものだと思う。悪魔に恐れたものは悪魔が人生において悪で、嫌な感じに恐怖した人は理解できない理不尽な日本ホラーである恐怖のようなものに悪を感じたのかもしれないし、現実ととらえて震えた僕は現実こそ悪がある世界なのだ。まぁどちらにしても共感したということは監督の色んな心の底近くに触れたんだと思う。人によって心の成熟度や感性、知識やトラウマの経験など様々だろうから善悪も違うのはしょうがない。僕は若干、既成概念が変わったような気がする。今までに無いホラーに驚き、観客の視点によっては見え方が大きく変わる作品なため色メガネをどうかけて見ているか気づけた作品だった。僕にとっては無意識の中の恐怖を知る考察だったのだ。すべてたぶん監督の思う壺なのだ 笑

ヘレディタリーとミッドサマーにある運命論は箱庭療法だと思うこと

ヘレディタリーはアニーが箱庭療法で模型を作っている、それだけでなく実はエレンによってすべてコントロールされているということも監督の箱庭療法なんだと思った。

ここから思ったのがゴーストランドの惨劇の監督パスカル・ロジェも箱庭療法だったんだろうと思ったこと。ミニチュア製作と脚本製作と映画製作は箱庭療法。アニーの作っていたミニチュアがアニーの心の中のことであるように映画製作は監督の心の中のことで両方の監督は今でも悩まされていてセラピーが必要だったのだ。
箱庭療法はおそらく作者にとって癒しにしないといけないので作者にとってハッピーエンドとなるだろう。不条理な世界があるなら不条理に立ち向かおうとする人を最後見せてメリーバッドエンドとなる。

アリ・アスター監督が過去のことをあまり話したくないと言っているのは映画がはっきりと箱庭療法だったんだと言え。箱庭療法はトラウマ体験などを話すことなく治療していくもの。

ゴーストランドの惨劇の監督パスカル・ロジェにもアリ・アスター監督には共通点がある。
・小さい頃ホラー映画をとにかく見ていた
・監督の中の女性的な部分が脚本に影響を与えている。(パスカル・ロジェのインタビュー
・実際にあった苦悩を映画にしている。
・エンタメにしかなっていないハリウッドホラーが好きじゃない。

この両方の監督の作品にカタルシスを強く感じた人は似た悩みがあってセラピー効果があったと言えるかもしれないし、カタルシスが薄かった人はマイノリティの気持ちがわからないか、考えたことがないか、何も考えないで生きてきた人か、狭い世界でしか物事と気持ちをとらえることができない可能性もあるのだと思う。それが悪いわけではなくマジョリティーだとそんなものなので、世の中の人が両方の映画を怖いと感じたことは本人が触れたことのない考えたことのない闇に触れたからだと思う。新しいことに気づかされる映画だし、悩んでいる人にはセラピーにもなるし全く悩んでいない人にはエンタメとしも楽しめる万能な映画だと考えると興味深くて面白い。ホラー映画の皮を被った診療療法が悪いわけではなくてすばらしいと思う。なぜならほとんどの作品は何か作者の箱庭療法があると思う。ハンターハンターでさえゲーム好きで心が病んでいた作者が描いた作品はゲームがベースの内容で絵のタッチも荒れてきている。絵が荒れるのも描いた本人の荒れた心の癒しにもなるはずなのだ。箱庭療法にはどんな作品にも必要な「物語り」が必要で本人の再体験と解放と受け入れて考える再統合が必要なのだ。それは物語の起承転結みたいなもので作り方によっては面白いものになるんだと思う。はっきり療法として言っているアリ・アスター監督だけどパスカル・ロジェ監督に比べて言いたくないと言っていることから、アリ・アスター監督はまだ心の傷が深くて苦しんでいて、逆にパスカル・ロジェ監督は触ると少し痛いぐらいに回復した人なんじゃないかと思ったりもする。
いずれにしても素晴らしい映画だと思うのに「診療療法みたないそんなの映画にするな」、と思う人がいると思うので、そこは残念な話である。みんな気づかないだけでどんな作品にも箱庭療法はある。知らない側面を知ると怒りを覚えるのは心が狭いもしくはあまり監督の気持ちが含まれていない薄っぺらいエンタメ映画にしか興味がない人なのかもしれない。僕はそんな見方しか出来ない人に怒りさえ感じる。

パスカル・ロジェが

「そういうことを読み解けずに作品を否定する人たちは、何も考えていないと言えるね。ただバイオレンスのレベルを見て、そのリアクションをしているだけだ。」

とちょっと怒っているのと同じように。アリ・アスター監督の言いたいことをパスカル・ロジェが代弁しているようだ。

ただ、診療療法からトラウマが起こる人もいるかもしれないから気をつけないといけないけど、それはどんな作品にも同じことが言えるから診療療法映画を完全否定できることにはならない。そのためには年齢制限は高く設定する必要はあるかもしれないけど。

気になるのが監督だけでない映画作成に関わった人たちの心境だ。製作者の気持ちはなかなか表に出てこないがとんでもなく辛くなった人がいるんじゃないか?と疑ってしまう。
その理由はパスカル・ロジェ監督の前作マーターズに関わったアーティストが自殺しているというこたがあったらしい。監督の気持ちを理解してそれをアート作品に作ろうとメンタルがやられる人もいるんじゃないかと僕は想像する。例えて言うなら鬱病の人の気持ちを理解すると鬱病になる人もいるや精神科医が患者と話しているといつの間にか鬱になっていたというのと同じようものなんじゃないかと思う。

この対策としてはたぶんはっきり外に悩みを言えることや相手の理論を越えた高度な理屈が必要だと思う。信仰心や別次元の物事を見たりできる心の余裕など。なぜなら誰か好きな人が死んでその死を受け入れられない人が苦しんだ先に自殺するのはそれを受け入れられない理屈と気持ちがあるからだと思う。たぶん一種の洗脳みたいなもので洗脳を解くにはゆっくり間違っていた自分を見つめて、間違いを受け入れられる理屈を理解していくしかないんだと思う。
それが出来ないと相手に飲み込まれてしまうんだと思う。
もっと簡単に言えば好きなものや人がいることが絶望から救うんだと思う。愛がして守れるものがあれば頑張れるというのは分かる話だと思う。好きなものがたくさんあればたぶん苦しさは少なくなるはずなのだ。それは信仰心や理屈でもある。
とはいえヘレディタリーやミッドサマーではグロテスクな首が出てくるので製作に関わった人はかなーり苦しかったんじゃないかと思う。
浄化してもらいたい 笑

物静かで心に深い闇がある監督は女性よりもとにかく泣くらしいので泣くことでも精神の浄化をしているんだと思う。泣いて泣いて泣かないと心の中に希望の花が咲かないのだ。
何度も繰り返す癒されることがない感情は不浄のカタルシスでしか癒されないかもしれない。
手探りで出口が見えなくてもいつか出口が見つかると希望を信じて闘い続けるしかないのである。本当の悪魔は心の中で死なないかもしれない、しかし苦悩なしには神を知ることもできないのである。路上で死を待つ人たちにイエス・キリストを見出し誠心誠意を命をかけて尽くしたマザーテレサの魂が絶望の人々の心の中にを輝かせたように監督も強い希望をいつかもてるようになってほしい。答えはいつも僕らの正しいと思うことだけとは限らない。たとえ、とんでもないドス黒い過ちを監督が犯していたとしても僕は次の作品を楽しみに待ちたい。

スポンサーリンク
レスポンシブ 広告
レスポンシブ 広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする