【ネタバレ・感想・考察】ミッドサマー ダニーの愛の居場所を見つけるお話

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最初見たとき思ったのはミッドサマーは不思議な映画だった。簡単にいうと最初は良くわからない映画で不思議な気持ちになっただけだったのだ。たぶん多くの人が予備知識がなければよくわからないと感じたと思う。だから理解したくて監督の考えを調べて何度か見るとだんだんと感じてくるものがあった。
気持ち悪いグロテスクでホラー要素もありながら監督本人が言うように失恋映画であり監督の心の傷を癒すセラピー映画であり、見た後は怖さだけじゃなくて喜びさえも生まれてくるのだ。いや、ダニの視点に立てば涙さえでてくるかもしれない。そもそもダニの視点で見てもらいたいと監督はインタビューで思っているようである。細かな解説は公式ページや他の個人ブログでも解説されているのでそちらを見ると分かるが、ここでは映画を見て僕の心が悲しみと喜びの入り混じった解放感で泣き震えたことを解説と考察分析を含めて感想を書こうと思う。細かな謎のパズルを組み合わせただけでは感じないカタルシスを最後あたりまで読んで理解すると分かってくるんじゃないかと思う。ただダニーの気持ちは壮絶すぎてなかなか理解できないかもしれないけど。パズルを組み合わせただけのロジカルシンキングだけでは理解できない、まるでアートを見て心と心を対話させるかのような人の心のお話なのだ。感情と感情の話で簡単に言えばメンタルが弱っていたら簡単に共感するかもしれないという映画でメンタルが弱くなくても分かれば理解できる映画なのだ。しかしメンタルが弱い人はネタバレを見てから不安を取り除いて後に見たほうがいいんじゃないかなと思う。またインタビューで映画の悲劇を通して見てくれた人の心のわだかまりを浄化してほしいという想いが監督にはあるのでダニーの視点で見るとたぶん楽しめるんじゃないかなと思う。
ちなみに前作ヘレディタリーの感想・考察も興味がある人は見てみるといい。エグくて強烈なことが感想に含まれているのでトラウマにならないように読んでもらえればいいと思う。
(全部で約45,000文字を2ページに分割)

目次

ページ1

ページ2

  • 社会的メッセージ
  • 気持ち悪かったところ
  • 結局
  • 妹がすべて仕組んだ説(ヘレディタリーのネタバレ含む)
  • 僕の友達に言われたこと
  • 映画に出てきた気になるアート
  • 撮影場所
  • イザベラ・グリル
  • ミッドサマーを見たスウェーデン人の反応

ダニーは共感されたい

ダニーの彼氏のクリスチャンが最後は燃やされるのにダニーは笑顔になる。この作品をバッドエンド、ダニーの最後の笑顔がとても怖いとか色々見る人によってとらえ方はあるだろう。そこを狂気ととらえるよりもダニーの逃れられない苦しみから解放され未来に向けて生きていけるんだ、と僕はそういうふうにダニーの気持ちをうけとってダニーの笑顔に僕の気持ちはぐっときて嬉しかった。これはダニーの気持ちを考えれば考えるほどバッドエンドではなくダニーにとってハッピーエンドに見えてくるのだ。ホラー映画なのにホラーに見えない明るい映画なのは監督はパートナーに不満を感じている人にとって良い感じのいい映画を作りたかったとインタビューで語っていることから視覚的に怖くさせたくなかったんじゃないかなと思う。

下の監督のインタビュー18:14から映画について面白い質問をしていている。
簡単にいうとこの映画は失恋映画ですか?ホラー映画ですか?
要約すると


「不満のあるカップルのための映画を作りたかったのと、もしこの映画がホラー映画なら僕はホラー映画として全く納得しない。僕はホラー映画は好きだし前作より今回はもっとおとぎ話でもしホラー映画としてみるなら共依存のホラー映画かな。ダニーは共依存が機能していない(おそらく家族が死んで彼氏にも不満)から映画の最後にはもっと共依存の関係になっていく。それは間違いなく共依存だよね。(ホラーだよね)」


なんか監督ははっきりと答えないからよくわからないんだけど、おそらく共依存ってホラーで良くある怖い要素だよね?ってことなんだと思う。基本的には監督はホラー映画として作ってなくてもしホラー映画としてみるなら最後は共依存の関係になるんだよ、だからホラーだよね?ってことなんじゃないかな。

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たぶん一応ホラー映画だけどカップルに見てもらいたいんだと僕は思う。でも普通のカップルが見るより関係がわるくなっていてダニーみたいな絶望を感じているカップルが見ると共感するか別れるかになるんだと思う 笑
もちろん監督もうまくいっていないカップルに見てもらいたいと言っている。普通の気持ちじゃないカップルという意味である。
そもそもミッドサマーは監督が恋人と破局を迎える最中に作った映画らしいので、監督の絶望に共感する破局しそうな恋人には共感して逆に気持ちがスッキリするかもしれない 笑
まぁそれがキッカケで別れることになったとしても知らないけど 笑

ミッドサマーをあくまでも監督自信の体験による傷を癒すセラピー映画だと思えば最後に彼氏が死のうが死んでも笑顔でいられるダニーに頭がおかしいと思うより、ここまで狂気染みたものを作らないと解放されないくらいダニーに投影している監督が苦しんでいたんだという理解を僕はしている。家族も死んで彼氏にも優しくしてもらえない、でも村の人から「あなたは今家族よね?」とメイクイーンになったあとに言われダニーは「はい」と答えるのだ。
自分の居場所をやっとみつけたんだと思った。これは心の世界を見せる映画で心の中で今でもさまよった過去に縛られている監督が映画で表現しないといけないぐらいの気持ちになって、自分が壊れそうなぐらい心のより所がなくてダニーが監督に代わってダニーの居場所を見つける物語なんだと思う。ホラーというより監督にとって精神が癒されるはずの映画。

「あなたは今家族よね?」↓


おとぎ話でありセラピー映画なのにダニーの今後が村の一人になるとかダニーの人生はそれでいいのかとかそういうことは全部置いといて解放されたことに喜びを感じることが重要なんじゃないかと思う。もちろんこのダニーの今後について考えると不安が残るのは、それの不安も監督が狙って作っているのだ。
セラピー映画といえば「マーウェン」というのを見たことがあるが、自分を投影しているものは最後はハッピーエンドになって自分の気持ちが解放されるようにするものだと思う。
おとぎ話というのは映画の最初に昔話が始まり扉が左右に開くように下の絵が開く。
左はホルガに来る前の地獄、右はホルガでダニーが居場所を見つけたことなのだ。
出典:IMDb

笑いと狂気の境界線をうまく見せているのもミッドサマーである。
ダニが泣きながら叫んでいるのに周りに女性が一緒に「わーわー」いって笑いにも泣いてるようにも見えるおかしな雰囲気をかもしだす。

出典:IMDb

本人の悩みが深ければ深いほど他人から見れば理解ができず、そんなに悩むことじゃないと笑えるようなことなんだと思う。ミッドサマーを見てダニーが泣いているシーンで笑ってしまった僕は監督の深い悩みと闇に気づけなかったんだと思ったのだ。僕だけじゃなくて多くの人が異様な光景に笑っただろう。監督は明るい性格でシャイなようにも見えるけど深い闇を抱えているんだと思う。笑っていけないというわけではない。おそらく笑いも狙いだからである。だけど誰の視点で見るかで笑えなくなったり笑えたりしてくる。ダニーと監督の自己セラピーの視点だと笑えなくてダニーの異常な気持ちが分からない普通の人には笑えることがちらほらあるはずだからだ。でも笑うことは監督の思う壺で監督の誰も理解してくれなかったと思う苦しんだ過去と同じで「ほーら、みんなやっぱり笑って僕の気持ち理解できないんだ」って思うかもしれない。それは苦しんだ人の気持ちを考えればわかってくる。監督がこの映画を見て少し不安に思ってくれたらいいなって思うのも、そこには僕の不安の気持ちを少しでも分かってくれればいいなって思う気持ちが無意識にでも隠れていると僕は思うし、それは監督が理解してもらえない不安や恐怖を感じている心の闇を詰め込んだ映画なのだから。でもたぶん笑ってもらえても嬉しいんだろうけど、悲しいのに嬉しいんだよ、矛盾しているように聞えてなんのことがわからないというのが普通だと思うけど 笑
捻じ曲がった複雑な感情があるんだ。

みんなが笑ったシーンの一つ、ダニーの視点でいえば周りの人がダニーと一緒に泣くのはまるで辛いときに悲しい曲を聴けば癒されるようなもので一緒に泣いてもらえる人が必要なんじゃないかと思った。辛ければつらいレベルに合う暗い曲を聴き、あまりにも悲しいとなんでそんな暗い曲聴いているのとびっくりしたり笑われたりするものである。監督はダニーのように一緒に泣いてくれる人もいなく辛さを共感できず、せめて映画の中だけでも一緒に泣いてもらいたいと思ったんじゃないかと僕は感じた。それが過去に縛られる監督の気持ちを浄化させる方法なのだろう。

浄化というとよくわからないと思う人がいるかもしれない。それをもうちょっと説明するのにダニーが結果として彼氏のクリスチャンを殺してしまうことを考えると分かるかもしれない。
ダニーの感情は家族も死んで薬に依存し彼氏に依存するしかない状態なのにクリスチャンに冷たくされ壮絶な気持ちになったはずだ。簡単に言うと「好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。」でもそれだけだとまだかわいい。ダニーは依存しすぎて「好きだけど殺したいほど嫌いでも好きなのだ。」
ドラッグで世界が歪んでダンスを踊って頭がおかしくなっている状態なのに好きな彼氏が気になるから彼氏の入った小屋をのぞいちゃうんだ。

出典:IMDb

好きという異性への愛に依存している人が起こす犯罪でよくあるのが殺人未遂。ホストが殺されそうになったという話を聞いたこと無いだろうか?愛と攻撃性は紙一重で性的なサディズムが生まれるんだと思う。それはメンヘラという簡単なものではない。依存してしまうほど愛しており愛してしまうほど恐怖を感じ、愛する人が存在することで苦しくなるという普通の人では考えられない感情なのだ。自分勝手な独占意欲という言葉は当てはまらない。愛しているから、クリスチャンが別の女性と性交したところを見てダニーは大泣きしてしまう。そのシーンで視聴者が笑ってしまうのはそれだけ理解できない状況になり視聴者がダニーの深い愛と絶望に本当のところ気づかないからなのだ。ダニーの気持ちを言葉にするなら

「彼が他の女性と・・・・もうどうしたらいいかわからない、私の気持ちなんてわかってないんだ、誰もわかってくれないんだ。わーん(大泣)」

感情と頭の中がぐっちゃぐっちゃになって世界が崩壊するかのように絶望に落ちるダニ。それを共感するかのようにみんな一緒に笑っているように周りの女性たちが泣く。普通はこんなの見たら誰でも笑う 笑
監督は今回監督の気持ちの表現をどう映像にするかを試行錯誤したそうなのでどうやって笑いと狂気の狭間を作ろうかを模索したんだと思う。その狭間が一番ダニの気持ちを表現しているんだと思う。

でもね、ダニーの乙女心と監督の絶望感をバカにしているわけじゃないけどなんか子供っぽくてかわいく見えてくるのだ。それはたぶん子供の頃に何かひどい思い出があったり忘れられない感情があるんじゃないかと僕は思う。どういうことかというと例えるなら下記の画像。

子供が捨てるオムツなのに好きすぎて「なんで捨てるの!びぇーん」って泣く 笑
コントみたいな話だけど世界がまだ狭い赤ちゃんにとってお母さんとオムツと彼は一心同体のようなものだ。一心同体のお母さんが大切なオムツを捨てようとすることは彼にとって考えられないことなのだ。オムツは彼にとって大切なもので愛しているから泣いてしまう。
彼の頭の中と感情はグラグラに揺れて世界が崩壊するような絶望感を感じているだろう 笑
まぁ映画はこれとはちょっと違うのはこの子に狂気を感じないからだ。ここに狂気をつけると映画のような笑いと恐怖がいりまじったものになるんじゃないかと思う。
男の子にとっては世界の中心で絶望に落ち愛を泣き叫ぶほどのことなのだ 笑
抱きしめてもらいたい、キスしてもらいたいわけじゃなくて彼にとって大切なオムツを大切な人から捨てないことを認めてもらいだけなんだ。
この男の子はダニーのように誰かを殺すということはないけど臭いオムツを抱きしめている姿からはどこか自虐的な愛があるように思う。
ダニの乙女心のような複雑な感情とこの男の子からは大人にはなかなか理解できない悲しみがありダニーとどこか似ているのかなーと思いながら、また男も女もみんな乙女心みたいなものはあるのかなーと思ったりもするのだ。
ダニーが子供だという話ではなく子供のころに心がひどく傷つくことがありそれが大人になっても残っているとこの赤ちゃんのような絶望感というのは大人になっても起こりえると思うのだ。それだけダニーは世界が狭くなるぐらい苦しんでいて、心の中になかなか癒されない過去の絶望があってそれは監督も同じなんだと思う。さらにダニーは病的に彼氏に依存していてドラッグもやってバッドトリップしているので想像を絶する絶望感なんだと思う。ダニーは簡単にかわいく言えばわがままかもしれない、わがままにならないと収まらない自分を抑えることができない心の痛みがあって抱きしめたりキスしたりなんて拘りは無くてなんだってよくて、ただわかってほしいだけでこんな悲しいときに心と心の底から繋がっていたいだけ。それでも分かってもらえなくて心の傷は深すぎるんだと思う。これが絶望でなく殺人がなければ誰が止めてもやめずダメ男と付き合うわがままな女の子で無邪気でかわいいで終わるかもしれない話だけどね。ダニーには都合のいい女にはなってほしくないなぁ 笑
ダニーはロラゼパム(Lorazepam)という抗不安薬にも依存しているのでただのメンヘラでなく、発作的な不安が表れるとんでもなく精神が荒れているメンヘラなのだ。普通の人はそんな感情はなかなかわからないだろう。だけどダニーに共感すればダニーの気持ちがわかってくるはずだ。そして副作用は疲労感、脱力感、倦怠感、ふらつき、眠気があるらしくその副作用とホルガで薬が合わさると映画で見せたように世界がぐちゃぐちゃになってしまうんだと思う。

監督のセラピーだからクリスチャンは死なないといけない

セラピーに関するブログを見ているとダニーのように殺してしまいたいほど好きな場合のセラピーは

①心の中で殺すこと。
②そして最後に殺した相手をどこにも行けないように閉じ込める、

とある。それは愛しているからこそ何処にも行って欲しくなくて、現実には殺せないからこそ心の中で殺し、自分の気持ちを縛り付け愛しい相手を殺し心を浄化するのである。

彼氏には悪い意味で死んでもらうわけではない。
クリスチャンはクマの皮を着て燃やされる。これはバイキングの神のテュールのシンボルのクマかオーディンのシンボルだとか言われるが、どれも狂戦士の証であり神に近づいた存在ということである。クリスチャンは最後そうなったことで監督の心に奥底にある駄目な彼氏なのか彼女を尊重し成仏してもらう意味があるんじゃないかと僕は感じたのだ。燃えて死ぬことで永遠に心の中で成仏し心の中で生きることになる。熊の中に閉じ込めもうどこにも行けない彼氏を燃やすほど嫌いになったと思う彼氏でも好きだからこその殺人なのだ。
もちろん殺された人たちの気持ちを考えれば恐怖でしかないが、失恋を癒すというセラピーの目的があるのなら、ダニーの心につかえているもの、それは愛しているけど愛している人の存在がダニーを傷つけ、できることなら消したいと思うほどの関係があって、ダニーの気持ちを解放するには殺されなければ成立しないんだと思う。
そして村の人に変な煙をかけられクリスチャンが目を覚ました後「あなたはしゃべれない、動けない」と言われ、動けなくなっているクリスチャン。これはセラピー②のどこにもいけないところに閉じ込めるということなんだと思う。

ダニーの家にあった絵にクマと女の子が描かれている。ダニーは熊のクリスチャンのことが大好きで監督は今でも冷たくされた昔の彼氏か彼女かが好きなんだと思うのだ。
なので冷たい彼氏への仕返しでダニーが彼氏を燃やすというのは違うんだと思った。
そもそもダニーは彼氏が男同士で楽しもうとした旅行なのに、ダニの心を落ち着いてもらおうと誘われたのとやっぱり彼氏のことも気になるから、本当は来なくてもいい旅行に着いていこうとするほど彼氏のことが好きなのだ。だからもうみんな死んでしまえ!って絶望したわけではなくて、殺したいほど嫌いだけどでも好き、彼の存在しているだけでダニーを傷つけてしまう。誰かが彼と彼女を話さないと、依存が強すぎれば殺さないと解放されないんだ。だからストーリーはなんか変だなぁって思ってもそれはダニーが解放される=監督が解放されるためにクリスチャンが殺されるようにただしたんだと思う。
しかもこのクマはなんかかわいい雰囲気があるのもダニーには殺したいほど怒りがあるんじゃないんだ、離れられない好きなあなたがいるから苦しい、自分じゃどうしようもないけど、出来るなら死んでもらいたい(いなくなってほしい)んじゃないという気持ちの表れなんじゃないかと思える。だからクマがなんかかわいいのだ。ポイントはダニーが自分で殺すわけじゃなくて意識がはっきりあるけど、後からもしダニーが考え直したとしてもダニーはただ言われるままに人を選んだだけで狂っていたといういい訳を言える救済がある点。ダニーは邪悪になっているわけではないんだ。それでも駄目なクリスチャンを殺してやっと心を解放する話なんだと思う。それが監督の心にあったものなんだと思う。クリスチャンが村の人に搾取されて村の人はダニーの味方なんだ。映画は筋が通ってないようなことがちらほらあるが、おそらく結論ありきで作っているのでそうなるのだろう。それは映画の中だけを考えていると意味がわからなくなって混乱してくるけど、映画の外から見ると監督が作者の特権として神の力のよう理屈を超えて物語を作ったようなもの。つまりそれは監督にとっての自己セラピーだからクリスチャンが死ぬことの意味がわからなくてもそういうもんなんだと思わないとただただ混乱してくると思う。
もう一つクリスチャンが死ぬ意味は名前がキリストの意味なのでキリストは他人のために自分を犠牲にして死ぬのでダニーのために死ぬ慈愛の精神の意味もあるのかもしれない。

ちなみに熊の皮を着るというとニコラス・ケイジが映画「ウィッカーマン」で見せたものにも見えてちょっと笑ってしまった 笑

三角の建物は北欧神話のユグドラシルの木を連想させる。ユグドラシルの木は世界を現す巨大な木だけどシンボルで表わすと三つの三角形なのである。ここでクリスチャンがクマになって燃やさせることはスピリチュアルな神聖な行為でありあくまでもただの殺人で終わらさず浄化、成仏の意味があるのかなと思った。そうとう監督悲しかったんだなー。

ユグドラシルの木

また記事によると「ホルガ」には踊って死ぬという意味があるそうだ。
そんな不吉なダンスでも全部で30枚の写真に写るメイクイーンはみんな幸せそうに見える。

村の人達を説明した絵が気持ち悪かった。
目がぐるぐるとなっているのは飲み物に、女性の陰毛が混ざった食べ物と月経の血を入れた飲み物でスピリチュアルな意味を込め、さらにドラッグに近いものが混ぜられているのを飲んだからである。
ちなみに監督は村人達を英語のインタビューによるとカルトとは考えていないらしい。自然と繋がる歴史と規則と伝統と大切にしている人達なのだ。その時点でコンセプトがホラーじゃないんだなーと思えてくる。現代に生きる僕らには分からない忘れているのがホルガの村にあって昔の人が当たり前にしてきたことを怖いと思ってしまうのだ。監督視点では失恋映画、セラピー映画として、観客側としてはホラーかホラーじゃないのかと思える微妙な線で責めてきているだと思う。でも殺されるのは嫌だけどね。

クリスチャンの飲み物だけ赤っぽく色が変わっている。

僕が感じたアートを通したダニーと監督の気持ち

これら闇とスピリチュアルが組み合わさり、世界は絶望だけど希望と幸せがある最後のダニーの笑顔から僕は絵画のロマン主義のフリードッヒの海辺の僧侶(修道士)を思い出した。ダニーの乙女心のようなものを描いた作品ではないけど過去に縛られる、心に縛られ過去の失われたものを求める、求めたいという気持ちが表現できてる絵画だと思うのだ。海辺の僧侶は僕の記事でちらほら参考に使うほど面白い作品である。
作者は弟を事故で亡くして本人も自殺未遂する。でも生き続けなければいけないし、だからといって悲しみは癒されないし生きるためには希望を持たなければいけない。絵で描かないといられないほど悲しみがあったにちがいない。大きな空からは死んだ弟や自分の悲しみを大きく包み希望を見せ、永遠に弟への愛を忘れない悲しさと辛さと希望が入り混じっているようである。それはもう死んでしまったものへの愛と悔しさなどの苦しめられる心の居場所を求めて、絵を描いて落ち着いたんじゃないかと僕は思うのだ。苦しいのに希望があるのはもう遠くにいって会えなくなった弟でも貧乏で辛い生活だったとしてもその死んだ弟との想い出が逆に生きることを教えてくれているんだというささやかな希望があると思う。
静で悲壮感の漂う絵は弟との遠い想い出に寄り添っているフリードッヒが想像でき何があっても大切な弟への愛を忘れることはないという強い気持ちさえも感じる。まるで弟と一緒に海をみようよ、と約束でもあったのか死んだ弟と一緒に海を空を見ているようである。死んだ弟への悲しみと生きることを教えてくれたことに泣きながら「ありがとう・・・」そう聞えてきそうである。弟と一緒に生きた証なんだ。
このあたりはロジカルシンキングだと感情とか見えないものへの理解は難しいんじゃないかと思う。

↓フリードッヒの海辺の僧侶(修道士)

ダニーの状況に少し似ているのだ。家族をなくし自殺未遂になりかねないほど薬を飲み、バッドトリップをして世界がめちゃくちゃに見えてくる。ダニーのように愛している彼氏が自分から離れていきそうという悲しさをずっと抱えた監督が心の中だけでなく映画にしてまでも殺さないと気がおかしくなりそうなほど過去に縛られている。悲しくてもそれでも生き続けなければいけない。ダニーの最後の笑顔はまるで上の絵画の「海辺の僧侶」の大きな空のように希望を見せつけ、悲しい経験と一緒に生き続け永遠に亡くなった家族と冷たいけどそれでも好きな彼氏への愛を忘れないという意味があるように思えてくるのだ。
それが彼氏を表わしているクマにキスする少女の絵であるのだと思う。

彼氏のことだけでなく家族、妹がなくなった事を最初は受け入れなくて悲しくてバッドトリップをしたときも妹の幻を見てしまう。それだけ辛い気持ちなのだ。でも村の人が飛び降りて死んだことで村の人の死がダニーに妹の死が現実だと残酷にも受け入れさせる。本人が死んでしまいたいと思うぐらい悲しんだあとに、もし死を受け入れることができたなら今度は立ち上がって生きるために死を喜びにしていかないといけないと思う。この死を喜びの昇華する過程を見せるかのように映画では村の人はダニーの気持ちを理解してダニーはどんどん心を開き、最後は笑顔になるのである。

妹の幻を見てしまうシーンは妹の幻よりこのあとの幻想でダニーの顔が歪むほうが怖い
むしろ妹の幻想を監督があまり怖くみせていと思えるのと、幻想を見てしまうぐらいダニーが考えているんだと思い愛さえ感じる。

飛び降りた後にダニーの目のアップからはこのときダニーの心境が変わったことを意味しているだろう。徐々に死の現実を受け入れだしたのだ。

そのあとダニーはみんなに自分だけ村に置いていかれる夢を見て夢の中で口から煙が出て村人の飛び降りでの顔面ぐちゃぐちゃと妹の死を重ねて見ているのが分かってくる。ちょっとここはグロい 笑
そこに一瞬生きているときの家族の映像が映る。壁紙からはホルガの雰囲気が漂い白い母親の着ているドレスからはホルガの服の色を連想させる。まるで家族とホルガは同化するかのようだ。この時点ですでにダニーの心はホルガに動いてたのかもしれない。そして右側のガラスの反射に移るのは父親で、後姿から顔が見えず暗く複数のガラスに映っているところから、心はどこか安定していなく精神を病んでいるような雰囲気がある。ダニーの夢だけどまるで妹が家族がベットに行き自殺をする前に見た光景のようにも見える。父親と妹には鬱や性的虐待があったのだろうかと思わされる。もしかして監督の謎に包まれている闇の部分なのだろうか?ダニは確実に自殺を考えただろう、世界で誰もダニーを気にかけない愛していない状態はダニーに存在する意味を考えさせたに違いない。そして彼女の幻覚は手から草や花が咲いてくる。これも死んだ人は植物によって分解されるという自殺や死を連想させる。悲劇はダニーの心を蝕みホルガが現代倫理と逆でもホルガの考えがダニーを死は自然なんだと死んだものをゆっくりと受け入れ、最後はたとえ一時的な気持ちであったとしても前向きに生きられるようにしたことは変わらないのだ。

実際の映像は暗かったので少し明るさを上げたもの ↓

そして監督も弟を亡くしていて失恋の悲しみもあり悲劇的な状況はこの絵画に似ている。監督の作品はセラピーと同時に弟の死に寄り添った作品で監督にとっての希望でもあるんじゃないかと。もしダニーの笑顔に監督の弟への想いも含まれているとして、仮に誰も責任を追及できない死に方をしたかもしれない弟で、その死に方を弟が狂っていたとしても望んだのなら、弟の死を喜びに変えてあげないと死んだ人は報われない、誰にも救いがない話になる。悲しみととるか愛と感じるかは生きている人が考えることで、前を向いて生きるなら喜びにしないと生きていけないというのは僕はわかるような気がする。おそらく悲しみのどん底を知っているものだけがわかる悲しい死を喜びに変える心の救済なんだと思う。そのためミッドサマーはおとぎ話という名の乙女心が組み合わさったロマン主義のような詩小説のような映画であり、心の深い悲しみを愛に昇華する救済映画なのだ。美しいけど悲しすぎて、僕は男だから涙を流したくないけど心が泣いてしまいそうだった。流されるようにでしか居場所を求められない自分を見失いかけている苦しい気持ちのダニーと同じような経験がもし監督にあったなら、同じように流され洗脳されたような世界でも見失っていたものを見つけて幸せ(浄化)としないと過去の自己セラピーとしては成立しないんじゃないかと僕は思う。
ダニーの気持ちをもう一つ説明するとたぶん最後の笑顔は何をやっても離れられないほど依存している愛の苦しみを喜びに昇華した極地に近いんだと思う。そこが今回の映画の悪魔的な美しさでもある。この苦しみの先にある最高の境地とは仏教のニルヴァーナという永遠を感じるものなんじゃないかなって思う。それは悟りの境地というもので、今回は悪魔的な境地と考えてもいいかもしれない。狂気の悟りの境地。狂気であっても苦しさの先に境地があるのが聖人でも悪人でも同じなんじゃないかと思うし、現代でサイコパスと言われるぐらい狂った死でも歴史上はそれは聖人となるのはよくある話だ。いずれにしても解放された喜びなんじゃないかな。でもダニーは監督と一緒で境地まで行っても心の傷が深すぎてまたぶり返して繰り返すかもだけど。日本の映画を監督は大好きだから、仏教のようなことも分かるんじゃないかな。とりあえずこんな抽象で悲愴感のある雰囲気は僕は好きだ。

面白いことにダニーを演じたフローレンス・ピューと監督の最後のダニーの映画の解釈に違いがあるのだ。英語記事のインタビューを短く要約すると


フローレンス・ピュー「(燃えた建物の中には)彼女の人生の愛が含まれているのはとても面白い。彼女は花火のようなものを見ているんです。ダニーは何が起こっているのかわかっていないし、ただ本当に火が燃え上がり幸せなんです。これが私がダニーの気持ちになって演じようとしたことです。もしダニーがクリスチャンが建物にいること知っていたら私はダニーを支持しないと思います。誰もダニーを邪悪な人とは思わないと思います。私はダニーを悪魔になったとは思いたくなかったんです。」

アリ・アスター監督「フローレンス・ピューの意見は尊重するけど賛成できません。ダニーは彼が燃えていることをしっています。でもたぶん彼女が正気を失っていることを証明するシーンはあります。」


しかしこの英語のインタビューだけでは正気を失うということに誤解があるかもしれないので他のインタビューからも引用しておこう。
端的にいうとアリアスター監督がいうには


「エンディングはセラピー効果をもたらし、治療的なカタルシスがあっていい気分なのにそれと同じくらい引き裂かれるような破壊的。清められたはずなのに何か病気が潜んでいる」


とある。

このことから正気がなくなった狂ったものを見せつつもカタルシスがあり、でも同じくらい苦しみがある。それは矛盾しているように聞えるけど、好きだけど嫌いなほど殺したみたいなもので、悟りの境地みたいな点にいるのに闇が深すぎて闇がまたいつでも飲み込んできそうな感じ。この感覚がわからないのが典型的な異文化をしらないアメリカ人。フローレンス・ピューはかわいいイギリス人みたいなんだけど、たぶんこの東洋の宗教や思想をなかなか想像できないんじゃないかなって思う。これは僕の体験談としても言えるけど、アメリカ人のクラスメイトが日本の昔のアートを一緒に学んでどう思ったかを話したときに多くの人の意見が、技術が低いから平面なアートなんだとか、なんで死がいつもあるのかわからないとか、広い視点がないんじゃないかとか、言う人がいたんだ。僕は本当にアメリカ人って監督みたいな人もいれば全く違う様々いるんだなって思った。
おそらく西洋の視点だけだとキリスト教徒の善悪だけの視点で見て邪悪なものとだけでとらえてしまいがちだと思う。
だから僕がフリードッヒの作品をみて悲壮感や希望も感じ死んだ弟に生きる喜びを教えてもらって感謝もしているかもしれないのに、フリードッヒの壮絶な苦しみは消えないことをわからないアメリカ人がたくさん入るんだろうなぁと思ったのだった。幸せなのに不幸なの?って。正気でない深い悲しみを心に抱える人が正気でない喜びを感じても悲しみは永遠に終わらないことが想像できないのだ、心の底の悲しさと恐怖の本当の悪魔は決して死なないことを。

エンディング曲から見える映画の意味

話を映画に戻してさらにエンディングの曲のThe Sun Ain’t Gonna Shine(太陽はもう輝かない) の歌詞も寂しくて絶望を感じているけど相手を求めている必要としている歌である。ダニーそのものであり、ダニーはクリスチャンが死んでもクリスチャンのことが好きでずっと心に残り寂しいと思い続けるのかもしれないと思わされる。だからたぶんまた浄化しないといけないから同じこと繰り返していくんだ、監督がセラピーとして何度も映画を取らないと不安になりそうと思うのと同じように。ダメンズ好きになる人はまたダメンズと付き合ってなかなか幸せになれず、人生で寂しさを感じながらも愛を求め自分の居場所を求め続けるのと似ていると思う。それは浄化と言っても克服できるわけではにということなんだ。

歌が絶望だけど寂しくて相手を求める内容のことから、好きな人を殺してしまってもしかしたら薬がきれた後に絶望は残るかもしれないけど、ダメンズのクリスチャンを選んだってことなんだ。だからそれって本当にいいの?って思うけど、この人で本当にいいの?っていう感情はダニーが最後に見せた笑顔に嬉しくなるけど、「後戻りできないことして本当にいいのかな?」と少し不安が起こり、また幸せになったあとまた不幸が襲ってくると思うダニーの繰り返されるかわいそうな運命のようなものに恐怖を少しだけ感じるのだ。永遠にホルガの村とダニーの心の中にクリスチャンが残るかもしれないし、もしかしたら全く違う考えでクリスチャンとの依存関係が解放されて次にいけるでも死んだクリスチャンは心に残って好きなんだという気持ちを含んだ笑顔かもしれないけど。恋は盲目だなぁ 笑
このあたりも西洋の視点ではクリスチャンが死んでもダニーの心のに永遠に生きるという発想はなかなか出来ないんじゃないかと僕は思う。西洋だともっと物理的で死は自然、自然は美しいがときには残酷でダニーはクリスチャンときっぱり別れたんだと考えるかもしれない。そう考えても面白いけど、たぶんきっぱり別れたわけじゃないんだ、少女が死ぬ予定のクマにキスする絵のように死んでも好き、心に残るつまり魂は残るじゃないかと。それがホルガの輪廻転生の考えと仏教の輪廻転生と永遠の魂なんじゃないかなと。キリスト教には輪廻転生は無いと思う。ただ上でも触れたがクリスチャンはキリストの慈愛の精神で自分を犠牲して死ぬと考えると西洋と東洋が組み合わさった死生観があると思う。

監督がインタビュー


「家族からは誰も逃れられない、それは僕にとって聖域であり罠にもなる」


というようなことを言っているので逃れられないこと、逃げることのできない人生にある恐怖みたいなものを表現しようとしているんだと思う。まさにダニーの彼氏への依存による彼氏しか見えないもう逃げられない愛と今回のテーマは重なっている。

ダニーのような依存している人がもし自殺を考えたら依存している人と一緒に死のうって言いそうで怖い 笑
そんなダニーには薬物中毒で自殺未遂を繰り返し愛に溺れた太宰治の「人間失格」をすすめたい 笑
人間失格ってホラー映画にしたらミッドサマーみたいになるのかなーって思ったりもした。

The Sun Ain’t Gonna Shine(太陽はもう輝かない)↓

R.I.P. Scott Walker: The Walker Brothers – The Sun Ain't Gonna Shine Anymore

ちなみに「今日の日はさようなら」か「翼をください」でも合うのかな?と思ったりもした。

今日の日はさようなら

そして死と愛と希望の複雑な感情表現がなんか日本っぽいなぁと感じるのだ。
そもそも舞台が北欧というのも北欧と日本には共通点があるのもそうだし。日本に共通ということで言えば監督はインタビューで映画を見終わった後に「あれ?もしかしてポジティブな映画じゃなかった?」と思うような二面性を込めているらしい。二面性は日本っぽい要素の一つである。二面性があるからといってこの映画はダニーが幸せになり、監督にとってのセラピー映画というのは実は間違いなんだというふうには思わない。なぜならあくまでセラピーではあるけどホラー映画の要素も考え、園監督の作品に影響されていることを考えるとわざとネガティブなことも含めたんだと思えてくる。それはアリ・アスター監督がダークコメディが好きと他のインタビューでも言っているのでそのユーモアを入れてきたんだろうと思う。結局のところハッピーエンドでもバッドエンドでもダニーの願いを叶えるファンタジーなんだ。
家族を失い家族を得て終わる。ダニーが不足しているもの、それは愛と密接なの死と家族で、それらを村の集団が提供して終わるお話なのだ。
そして日本のアートが見せる二面性は死と愛が含まれていることが多いことからもダニーの笑顔からも日本っぽいセンスを感じたのだった。深くてどこか怖くてでも愛があって崇高で美しいものだと思う。

こういう感情の後にツイッターとかの大喜利みると気持ちのギャップがありすぎて爆笑したけどね 笑
それが今回の監督がした理解を超えたときにギャップがありすぎて起きる笑いと似ているんじゃないかなと思う。理解できないときに起こる笑いだけじゃなくて、理解ができていてもしっかりギャップを認識することができればちょっと離れた視点から笑えるのだ。

監督のアリ・アスターはジョーダンピールと比べられたりするけど全く違うジャンルのホラーを作っていると思える。ジョーダンビールが政治に不満があって監督の怒りを含めているのに対してアリ・アスターは理屈を超えてもうちょっと抽象的で内面の悲しさ、優しさ、恨みではない嫌いだけど今でも好きという愛のようなものを表わしている。どちらも面白いがアリ・アスターの作品の理解はジョーダンピールのようにパズルを組み合わせて考えることが難しい部分があり新しい感覚のホラーだなと思った。僕がパズルを組み合わせてもしっくりこないと感じたのは僕たちの理解を超えた悲しみがあって、複雑な感情である常軌を逸したダニーの愛に気づくかどうかが大切だったんだと思った。そこに涙がでそうなほど体が震えてくるのだ。監督が映画で本人の心のセラピーとしたように世の中には漫画でセラピーを表現する人がいたり絵画で表現する人もいる。

似たもので漫画血の轍(血のわだち)があり、作者も本人のセラピーのためにも描いている作品らしい。内容も尋常でない愛が怖くて興味深くて面白い 笑
好きな母親の狂気から逃れられない、でも嫌いになれなくて主人公は逃げることのできない共存関係に辛くて泣いているのにどこか嬉しそうに見えるのは好きなママに許されることの恐怖を感じているはずなのに解放感と喜びからくるねじ曲がった愛によるものなのだ。かなりあぶない話ではある、でもそこが心が揺さぶられそうなほど面白いのだ 笑
「ほんと僕ってバカ・・・ありがとう」って複雑な感情で入り乱れた声が聞えそうだ。


作者の見せる感情が見る人の理解を超えた話だからこそ怖くなり文学性さえ感じてくる。ミッドサマーも同じようなもので見る人の理解を超えちゃっているから、芸術やら文学やら今までに無いホラーと言われるわけだ。今までの映画ってこんなに感情を表現した映画は少なかったんだと思う。感情表現は普通なのに分かりやすい怖さばかり求めて、そんな怖さに飽き飽きしてきた人があいまいさや複雑さの含まれる日本映画のような怖さを求めてきている、日本英が回帰している時代なんじゃないかなと勝手に思ったりもする。それが中国よりの映画に飽き飽きして中国べったりのハリウッドホラーに飽きた世界の観衆の気持ちの表れなんじゃないかなって思う。監督自身もアメリカ人の中では珍しいシャイだしインタビューの答えもなんかあいまいだし日本人にいてもおかしくないような感じ。

もう一つのセラピーの可能性

ここまでがダニーに共感しようとして僕が感じたことだ。
次が監督はもう一つ別の自己セラピーを含んでいるということ。
その例は上でも少しいった太宰治の人間失格に似た答えがあると思う。
太宰治は笑われることを恐怖する故にあえて道化になって笑われてしまいたいと思っている。笑いのツボには恐怖があるのだのは確かだけど、恐怖だけでなく悲しみもあるのだ。
太宰治はお金持ちの家に生まれながらも自分らしさと小さい頃ら抑えていきて周りにあわし心にぽっかり愛やアイデンティティが欠け道化師を演じないといけなかったのだ。そうなった先にあるのが人間失格の主人公の葉蔵。なぜ生きていなければならないのかわからない、人間を理解できず人間を恐怖し人間を捨て人間失格となる。
それは他者からの愛情の欠落により心にはずっと足りない形成したかった何かを抱えている。
それがないと本当の意味では安定して生きることができず破滅的、狂気の人生を送るようになる。それが人間失格で見せていることだと僕は思うのだ。

これを浄化するたぶん本人が怖くて隠していることをあえて出して笑われることで浄化するんじゃないかと思う。笑われるほど強くなると太宰治は言うように。
でも最後の最後まで人間失格の葉蔵はピエロとして人間失格としていき続けても自分を出し切っていないのだから浄化なんて根本的にはされないんだと僕は思ったのだった。心の奥底にあるぽっかり欠落した愛情を埋めるためには本心を出さないといけないんじゃないかと思うのと、長い間ピエロになりきり自分の本心さえも気づけなくなっていたんじゃないかと人間失格からは思う。

怖くて言いたくないということには根拠がある。監督へのインタビューで監督は
自分の作品について語りたくない監督が


「地雷原を歩いているような気分になる。後で自分の言ったことを後悔しないだろうか、私の発言がどう解釈されるのだろうかと不安になる。ほかの人の作品について話すほうが、はるかに楽だ。」


と答えているのだ。自分の考えを言うとどう思われるか恐怖するのは人間失格の作品みたいな話に見えるし多くを語りたくないことは透明人間にでもなりたいかのようだ。

本心を怖くて笑われるピエロを演じて隠してしまいたいほどのものとはなんなのか?
そのヒントは監督の過去のショートフィルムThe Strange Thing About the Johnsonsにある。子供が父親の写真で興奮する、近親相姦による家族の崩壊の作品。ホラーとして作っているがたぶん何か隠したいものを何か面白いだろうなぁと思うやり方で笑ってもらってホラーで表現しているだけなんだろうと思う。これは監督が近親相姦があるかないかは別の話だと思いたいが、ミッドサマーでも近親相姦があり、監督の亡くなった弟ってもしかして何かあったんじゃないか?と監督には申し訳ないけど疑ってしまうのは僕だけではないだろう。少なくとも愛が捻じ曲がっていることでとんでもない何かあったんじゃないかと思わされる・・・・。監督の闇が深すぎる 笑

インタビューで二つ気になることを監督は言っている


・食卓では家族の前で家族のフリをしないといけない。

・家族や家族の崩壊といったテーマに関しては、自分の経験から来ているという自覚があり、脚本にするときは、それらを意識的に隠すようにします。なぜなら自分の人生に関わってきた人たちがそれを見たら、絶対に憤慨するような描き方をするから。


出来るだけ隠して笑って誤魔化さないと怒られるんじゃないかとビクビクしているのかもしれないし、フリをして自分に嘘をついてピエロみたいに生きてきたのかもしれない。

映画はいくつか滑稽なシーンがある裸で走って笑えるのとか、全部道化師を演じている気持ちなんじゃないかと思うと妙に納得してしまう。
そのヒントが最後に燃やされる人達がかぶる帽子がピエロの帽子。帽子をかぶっているのはマークで何も考えていないピエロみたいなやつという意味だろう。マークはホルガの大切なものにおしっこして後で画面の見えないところで女性と性交しているときに殺されるわけだ。何も見えていない考えていないのがマーク。監督も考えていなかったコントロールされていたという意味と、インタビュー通り怖くて自分を隠していて、それがピエロを演じていたんだという気持ちの表れにも感じ取れる。ピエロだったかもしれない監督の昔の気持ちを捨てるかのようにピエロの帽子をかぶったまま燃やされる。

監督はインタビュー


「すべての登場人物の中に監督の一部がいる」


と語っている。

監督のいいたくない闇と決別するかのごとく燃やされるんだ。

でもアリ・アスター監督は狂気と思われるようなことを笑われることで自分の狂気と同化して気持ちが少しスッキリするかもしれない。それでも闇を抱え続けると思ってしまうのは、映画で笑ってもらうけど結局笑うことはみんな気持ちをわかっていないという裏返し、さらに恐怖し本心を理解してもらえなければ一時的に浄化があっても何も解決しないのだ。でもピエロが自分の気持ちの自己防衛のためのもので、もし気持ちを見破られ笑われることがあれば恐怖のどん底に落ちるはずである。難しい心だ 笑
監督はホルガみたいに共感されることで救われることがあるのを知っているから共感をテーマにできて、それでも共感されても癒されない、何しても救われない人がいることも知っている。それが監督自身で救われない世界を描くことでしか救われない気持ちを救われないんだと思う。

なので僕は心の中で救われない世界にいる心で悲しくても理解してもらいたいけど笑ってもらいたいという捻じ曲がった気持ちに、僕は少し笑いながらも心は救われなさにどこか泣いているのだった。人間失格を読んだ時だって笑いながらも主人公の苦しみを感じどこか泣いているのだ。
本人がしっかり隠さずに生きて周りが分かってあげることが一番の解決なんだけどそれは怖くてできないんだ。だから他の人からみたら奇妙だけど笑って泣いてあげれば少しは心を開くかなって思ったりする。
たぶん夜が開けたら怖いんだよ、絶望のあまり壊れそうなんだよ。闇に隠れ逃げ込み誰にも知られない透明人間のままでいられるならずっと怖くない。そんな明けない夜明けに絶望はないのかもしれないけど孤独で悲しいはずなんだ。だから夜明けにビクビクして傷ついた心を泣いて笑って抱きしめるような優しさで包めたらいいなぁと思うのだ。
震え上がるほどの現実の絶望と狂気を受け入れ突っ走ることで初めて希望を見出せるんじゃないかと思う。

人間失格の葉蔵がもしいたら、そんなあまりにも奇妙な冷笑でもない笑い泣きを見て気になって

「なんで笑っているのに泣いているの?」と聞くかもしれない。

「だって・・・怖くてつらいことを言えない気持ちを笑いで隠そうとしていることがわかるから・・・寂しくて悲しくて心が震えているのがわかるから・・・口で言っても信じてもらえないとわかるから君の絶望を感じて正気を失ったように笑って泣いているんだよ、ミッドサマーのホルガ村の人より狂気的にね!!もう、隠れんぼやめようよ・・・あははっははははあははああああっあ゛あ゛う゛あ゛あ゛あ゛あ゛あ゛」

葉蔵は一瞬ビクつきでも複雑な気持ちになり、でもドン底には落ちずに驚くかもしれない。「(この人の泣き方、笑い方は尋常じゃない。切なさと苦しさが正気じゃない笑いと涙に溢れている。)狂っている、同じなんだ・・・わかっている。」

って思ってもらえばいいなぁ。完ぺき主義に拘らずたまには狂った音や色があってもいい、だって機械じゃないし人間なんだから。まぁそういう笑いは想像の範囲と心だけにとどめておいて実際にはしないだろうけど。面白い 笑

でも心がすでにピエロになっているならもう人間には戻れないのかもしれないけどね、それが人間失格。コワー 笑
人間失格をまた読みたくなった 笑
ミッドサマーって文学的だなあ。

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