【ネタバレ・感想・考察】ミッドサマー ダニの愛の居場所を見つける旅だと思った

最初見たとき思ったのはミッドサマーは不思議な映画だった。簡単にいうと最初は良くわからない映画で不思議な気持ちになっただけだったのだ。たぶん多くの人が予備知識がなければよくわからないと感じたと思う。だから理解したくて監督の考えを調べて何度か見るとだんだんと感じてくるものがあった。
気持ち悪いグロテスクでホラー要素もありながら監督本人が言うように失恋映画であり監督の心の傷を癒すセラピー映画であり、見た後は怖さだけじゃなくて喜びさえも生まれてくるのだ。いや、ダニの視点に立てば涙さえでてくるかもしれない。そもそもダニの視点で見てもらいたいと監督はインタビューで思っているようである。細かな解説は公式ページや他の個人ブログでも解説されているのでそちらを見ると分かるが、ここでは映画を見て僕の心が悲しみと喜びの入り混じった解放感で泣き震えたことを解説と考察分析を含めて感想を書こうと思う。細かな謎のパズルを組み合わせただけでは感じないカタルシスを最後あたりまで読んで理解すると分かってくるんじゃないかと思う。ただダニの気持ちは壮絶すぎてなかなか理解できないかもしれないけど。パズルを組み合わせただけのロジカルシンキングだけでは理解できない、まるでアートを見て心と心を対話させるかのような人の心のお話なのだ。感情と感情の話で簡単に言えばメンタルが弱っていたら簡単に共感するかもしれないという映画でメンタルが弱くなくても分かれば理解できる映画なのだ。しかしメンタルが弱い人はネタバレを見てから不安を取り除いて後に見たほうがいいんじゃないかなと思う。またインタビューで映画の悲劇を通して見てくれた人の心のわだかまりを浄化してほしいという想いが監督にはあるのでダニの視点で見るとたぶん楽しめるんじゃないかなと思う。
ちなみに前作ヘレディタリーの感想・考察も興味がある人は見てみるといい。エグくて強烈なことが感想に含まれているのでトラウマにならないように読んでもらえればいいと思う。

ダニは共感されたい

ダニの彼氏のクリスチャンが最後は燃やされるのにダニは笑顔になる。この作品をバッドエンド、ダニの最後の笑顔がとても怖いとか色々見る人によってとらえ方はあるだろう。そこを狂気ととらえるよりもダニの逃れられない苦しみから解放され未来に向けて生きていけるんだ、と僕はそういうふうにダニの気持ちをうけとってダニの笑顔に僕の気持ちはぐっときて嬉しかった。これはダニの気持ちを考えれば考えるほどバッドエンドではなくダニにとってハッピーエンドに見えてくるのだ。ホラー映画なのにホラーに見えない明るい映画なのは監督はパートナーに不満を感じている人にとって良い感じのいい映画を作りたかったとインタビューで語っていることから視覚的に怖くさせたくなかったんじゃないかなと思う。

下の監督のインタビュー18:14から映画について面白い質問をしていている。
簡単にいうとこの映画は失恋映画ですか?ホラー映画ですか?
要約すると


「不満のあるカップルのための映画を作りたかったのと、もしこの映画がホラー映画なら僕はホラー映画として全く納得しない。僕はホラー映画は好きだし前作より今回はもっとおとぎ話でもしホラー映画としてみるなら共依存のホラー映画かな。ダニは共依存が機能していない(おそらく家族が死んで彼氏にも不満)から映画の最後にはもっと共依存の関係になっていく。それは間違いなく共依存だよね。(ホラーだよね)」


なんか監督ははっきりと答えないからよくわからないんだけど、おそらく共依存ってホラーで良くある怖い要素だよね?ってことなんだと思う。基本的には監督はホラー映画として作ってなくてもしホラー映画としてみるなら最後は共依存の関係になるんだよ、だからホラーだよね?ってことなんじゃないかな。

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たぶん一応ホラー映画だけどカップルに見てもらいたいんだと僕は思う。でも普通のカップルが見るより関係がわるくなっていてダニみたいな絶望を感じているカップルが見ると共感するか別れるかになるんだと思う 笑
もちろん監督もうまくいっていないカップルに見てもらいたいと言っている。普通の気持ちじゃないカップルという意味である。
そもそもミッドサマーは監督が恋人と破局を迎える最中に作った映画らしいので、監督の絶望に共感する破局しそうな恋人には共感して逆に気持ちがスッキリするかもしれない 笑
まぁそれがキッカケで別れることになったとしても知らないけど 笑

ミッドサマーをあくまでも監督自信の体験による傷を癒すセラピー映画だと思えば最後に彼氏が死のうが死んでも笑顔でいられるダニに頭がおかしいと思うより、ここまで狂気染みたものを作らないと解放されないくらいダニに投影している監督が苦しんでいたんだという理解を僕はしている。家族も死んで彼氏にも優しくしてもらえない、でも村の人から「あなたは今家族よね?」とメイクイーンになったあとに言われダニは「はい」と答えるのだ。
自分の居場所をやっとみつけたんだと思った。これは心の世界を見せる映画で心の中で今でもさまよった過去に縛られている監督が映画で表現しないといけないぐらいの気持ちになって、自分が壊れそうなぐらい心のより所がなくてダニが監督に代わってダニの居場所を見つける物語なんだと思う。ホラーというより監督にとって精神が癒されるはずの映画。

「あなたは今家族よね?」↓


おとぎ話でありセラピー映画なのにダニの今後が村の一人になるとかダニの人生はそれでいいのかとかそういうことは全部置いといて解放されたことに喜びを感じることが重要なんじゃないかと思う。もちろんこのダニの今後について考えると不安が残るのは、それの不安も監督が狙って作っているのだ。
セラピー映画といえば「マーウェン」というのを見たことがあるが、自分を投影しているものは最後はハッピーエンドになって自分の気持ちが解放されるようにするものだと思う。
おとぎ話というのは映画の最初に昔話が始まり扉が左右に開くように下の絵が開く。
左はホルガに来る前の地獄、右はホルガでダニーが居場所を見つけたことなのだ。
出典:IMDb

笑いと狂気の境界線をうまく見せているのもミッドサマーである。
ダニが泣きながら叫んでいるのに周りに女性が一緒に「わーわー」いって笑いにも泣いてるようにも見えるおかしな雰囲気をかもしだす。

出典:IMDb

本人の悩みが深ければ深いほど他人から見れば理解ができず、そんなに悩むことじゃないと笑えるようなことなんだと思う。ミッドサマーを見てダニが泣いているシーンで笑ってしまった僕は監督の深い悩みと闇に気づけなかったんだと思ったのだ。僕だけじゃなくて多くの人が異様な光景に笑っただろう。監督は明るい性格でシャイなようにも見えるけど深い闇を抱えているんだと思う。笑っていけないというわけではない。おそらく笑いも狙いだからである。だけど誰の視点で見るかで笑えなくなったり笑えたりしてくる。ダニと監督の自己セラピーの視点だと笑えなくてダニの異常な気持ちが分からない普通の人には笑えることがちらほらあるはずだからだ。でも笑うことは監督の思う壺で監督の誰も理解してくれなかったと思う苦しんだ過去と同じで「ほーら、みんなやっぱり笑って僕の気持ち理解できないんだ」って思うかもしれない。それは苦しんだ人の気持ちを考えればわかってくる。監督がこの映画を見て少し不安に思ってくれたらいいなって思うのも、そこには僕の不安の気持ちを少しでも分かってくれればいいなって思う気持ちが無意識にでも隠れていると僕は思うし、それは監督が理解してもらえない不安や恐怖を感じている心の闇を詰め込んだ映画なのだから。でもたぶん笑ってもらえても嬉しいんだろうけど、悲しいのに嬉しいんだよ、矛盾しているように聞えてなんのことがわからないというのが普通だと思うけど 笑
捻じ曲がった複雑な感情があるんだ。

みんなが笑ったシーンの一つ、ダニの視点でいえば周りの人がダニと一緒に泣くのはまるで辛いときに悲しい曲を聴けば癒されるようなもので一緒に泣いてもらえる人が必要なんじゃないかと思った。辛ければつらいレベルに合う暗い曲を聴き、あまりにも悲しいとなんでそんな暗い曲聴いているのとびっくりしたり笑われたりするものである。監督はダニのように一緒に泣いてくれる人もいなく辛さを共感できず、せめて映画の中だけでも一緒に泣いてもらいたいと思ったんじゃないかと僕は感じた。それが過去に縛られる監督の気持ちを浄化させる方法なのだろう。

浄化というとよくわからないと思う人がいるかもしれない。それをもうちょっと説明するのにダニが結果として彼氏のクリスチャンを殺してしまうことを考えると分かるかもしれない。
ダニの感情は家族も死んで薬に依存し彼氏に依存するしかない状態なのにクリスチャンに冷たくされ壮絶な気持ちになったはずだ。簡単に言うと「好きだけど嫌い。嫌いだけど好き。」でもそれだけだとまだかわいい。ダニは依存しすぎて「好きだけど殺したいほど嫌いでも好きなのだ。」
ドラッグで世界が歪んでダンスを踊って頭がおかしくなっている状態なのに好きな彼氏が気になるから彼氏の入った小屋をのぞいちゃうんだ。

出典:IMDb

好きという異性への愛に依存している人が起こす犯罪でよくあるのが殺人未遂。ホストが殺されそうになったという話を聞いたこと無いだろうか?愛と攻撃性は紙一重で性的なサディズムが生まれるんだと思う。それはメンヘラという簡単なものではない。依存してしまうほど愛しており愛してしまうほど恐怖を感じ、愛する人が存在することで苦しくなるという普通の人では考えられない感情なのだ。自分勝手な独占意欲という言葉は当てはまらない。愛しているから、クリスチャンが別の女性と性交したところを見てダニは大泣きしてしまう。そのシーンで視聴者が笑ってしまうのはそれだけ理解できない状況になり視聴者がダニの深い愛と絶望に本当のところ気づかないからなのだ。ダニの気持ちを言葉にするなら「彼が他の女性と・・・・もうどうしたらいいかわからない、私の気持ちなんてわかってないんだ、誰もわかってくれないんだ。わーん(大泣)」感情と頭の中がぐっちゃぐっちゃになって世界が崩壊するかのように絶望に落ちるダニ。それを共感するかのようにみんな一緒に笑っているように周りの女性たちが泣く。普通はこんなの見たら誰でも笑う 笑
監督は今回監督の気持ちの表現をどう映像にするかを試行錯誤したそうなのでどうやって笑いと狂気の狭間を作ろうかを模索したんだと思う。その狭間が一番ダニの気持ちを表現しているんだと思う。

でもね、ダニの乙女心と監督の絶望感をバカにしているわけじゃないけどなんか子供っぽくてかわいく見えてくるのだ。それはたぶん子供の頃に何かひどい思い出があったり忘れられない感情があるんじゃないかと僕は思う。どういうことかというと例えるなら下記の画像。

子供が捨てるオムツなのに好きすぎて「なんで捨てるの!びぇーん」って泣く 笑
コントみたいな話だけど世界がまだ狭い赤ちゃんにとってお母さんとオムツと彼は一心同体のようなものだ。一心同体のお母さんが大切なオムツを捨てようとすることは彼にとって考えられないことなのだ。オムツは彼にとって大切なもので愛しているから泣いてしまう。
彼の頭の中と感情はグラグラに揺れて世界が崩壊するような絶望感を感じているだろう 笑
まぁ映画はこれとはちょっと違うのはこの子に狂気を感じないからだ。ここに狂気をつけると映画のような笑いと恐怖がいりまじったものになるんじゃないかと思う。
男の子にとっては世界の中心で絶望に落ち愛を泣き叫ぶほどのことなのだ 笑
抱きしめてもらいたい、キスしてもらいたいわけじゃなくて彼にとって大切なオムツを大切な人から捨てないことを認めてもらいだけなんだ。
この男の子はダニのように誰かを殺すということはないけど臭いオムツを抱きしめている姿からはどこか自虐的な愛があるように思う。
ダニの乙女心のような複雑な感情とこの男の子からは大人にはなかなか理解できない悲しみがありダニとどこか似ているのかなーと思いながら、また男も女もみんな乙女心みたいなものはあるのかなーと思ったりもするのだ。
ダニが子供だという話ではなく子供のころに心がひどく傷つくことがありそれが大人になっても残っているとこの赤ちゃんのような絶望感というのは大人になっても起こりえると思うのだ。それだけダニは世界が狭くなるぐらい苦しんでいて、心の中になかなか癒されない過去の絶望があってそれは監督も同じなんだと思う。さらにダニは病的に彼氏に依存していてドラッグもやってバッドトリップしているので想像を絶する絶望感なんだと思う。ダニは簡単にかわいく言えばわがままかもしれない、わがままにならないと収まらない自分を抑えることができない心の痛みがあって抱きしめたりキスしたりなんて拘りは無くてなんだってよくて、ただわかってほしいだけでこんな悲しいときに心と心の底から繋がっていたいだけ。それでも分かってもらえなくて心の傷は深すぎるんだと思う。これが絶望でなく殺人がなければ誰が止めてもやめずダメ男と付き合うわがままな女の子で無邪気でかわいいで終わるかもしれない話だけどね。ダニには都合のいい女にはなってほしくないなぁ 笑

セラピーに関するブログを見ているとダニのように殺してしまいたいほど好きな場合のセラピーは

①心の中で殺すこと。
②そして最後に殺した相手をどこにも行けないように閉じ込める、

とある。それは愛しているからこそ何処にも行って欲しくなくて、現実には殺せないからこそ心の中で殺し、自分の気持ちを縛り付け愛しい相手を殺し心を浄化するのである。

彼氏には悪い意味で死んでもらうわけではない。
クリスチャンはクマの皮を着て燃やされる。これはバイキングの神のテュールのシンボルのクマかオーディンのシンボルだとか言われるが、どれも狂戦士の証であり神に近づいた存在ということである。クリスチャンは最後そうなったことで監督の心に奥底にある駄目な彼氏なのか彼女を尊重し成仏してもらう意味があるんじゃないかと僕は感じたのだ。燃えて死ぬことで永遠に心の中で成仏し心の中で生きることになる。熊の中に閉じ込めもうどこにも行けない彼氏を燃やすほど嫌いになったと思う彼氏でも好きだからこその殺人なのだ。
もちろん殺された人たちの気持ちを考えれば恐怖でしかないが、失恋を癒すというセラピーの目的があるのなら、ダニの心につかえているもの、それは愛しているけど愛している人の存在がダニを傷つけ、できることなら消したいと思うほどの関係があって、ダニの気持ちを解放するには殺されなければ成立しないんだと思う。
そして村の人に変な煙をかけられクリスチャンが目を覚ました後「あなたはしゃべれない、動けない」と言われ、動けなくなっているクリスチャン。これはセラピー②のどこにもいけないところに閉じ込めるということなんだと思う。

ダニの家にあった絵にクマと女の子が描かれている。ダニは熊のクリスチャンのことが大好きで監督は今でも冷たくされた昔の彼氏か彼女かが好きなんだと思うのだ。
なので冷たい彼氏への仕返しでダニが彼氏を燃やすというのは違うんだと思った。
そもそもダニは彼氏が男同士で楽しもうとした旅行なのに、ダニの心を落ち着いてもらおうと誘われたのとやっぱり彼氏のことも気になるから、本当は来なくてもいい旅行に着いていこうとするほど彼氏のことが好きなのだ。だからもうみんな死んでしまえ!って絶望したわけではなくて、殺したいほど嫌いだけどでも好き、彼の存在しているだけでダニを傷つけてしまう。誰かが彼と彼女を話さないと、依存が強すぎれば殺さないと解放されないんだ。だからストーリーはなんか変だなぁって思ってもそれはダニが解放される=監督が解放されるためにクリスチャンが殺されるようにただしたんだと思う。
しかもこのクマはなんかかわいい雰囲気があるのもダニには殺したいほど怒りがあるんじゃないんだ、離れられない好きなあなたがいるから苦しい、自分じゃどうしようもないけど、出来るなら死んでもらいたい(いなくなってほしい)んじゃないという気持ちの表れなんじゃないかと思える。だからクマがなんかかわいいのだ。ポイントはダニが自分で殺すわけじゃなくて意識がはっきりあるけど、後からもしダニが考え直したとしてもダニはただ言われるままに人を選んだだけで狂っていたといういい訳を言える救済がある点。ダニは邪悪になっているわけではないんだ。それでも駄目なクリスチャンを殺してやっと心を解放する話なんだと思う。それが監督の心にあったものなんだと思う。クリスチャンが村の人に搾取されて村の人はダニの味方なんだ。映画は筋が通ってないようなことがちらほらあるが、おそらく結論ありきで作っているのでそうなるのだろう。それは映画の中だけを考えていると意味がわからなくなって混乱してくるけど、映画の外から見ると監督が作者の特権として神の力のよう理屈を超えて物語を作ったようなもの。つまりそれは監督にとっての自己セラピーだからクリスチャンが死ぬことの意味がわからなくてもそういうもんなんだと思わないとただただ混乱してくると思う。
もう一つクリスチャンが死ぬ意味は名前がキリストの意味なのでキリストは他人のために自分を犠牲にして死ぬのでダニのために死ぬ慈愛の精神の意味もあるのかもしれない。

ちなみに熊の皮を着るというとニコラス・ケイジが映画「ウィッカーマン」で見せたものにも見えてちょっと笑ってしまった 笑

三角の建物は北欧神話のユグドラシルの木を連想させる。ユグドラシルの木は世界を現す巨大な木だけどシンボルで表わすと三つの三角形なのである。ここでクリスチャンがクマになって燃やさせることはスピリチュアルな神聖な行為でありあくまでもただの殺人で終わらさず浄化、成仏の意味があるのかなと思った。そうとう監督悲しかったんだなー。

ユグドラシルの木

また記事によると「ホルガ」には踊って死ぬという意味があるそうだ。
そんな不吉なダンスでも全部で30枚の写真に写るメイクイーンはみんな幸せそうに見える。

村の人達を説明した絵が気持ち悪かった。
目がぐるぐるとなっているのは飲み物に、女性の陰毛が混ざった食べ物と月経の血を入れた飲み物でスピリチュアルな意味を込め、さらにドラッグに近いものが混ぜられているのを飲んだからである。
ちなみに監督は村人達を英語のインタビューによるとカルトとは考えていないらしい。自然と繋がる歴史と規則と伝統と大切にしている人達なのだ。その時点でコンセプトがホラーじゃないんだなーと思えてくる。現代に生きる僕らには分からない忘れているのがホルガの村にあって昔の人が当たり前にしてきたことを怖いと思ってしまうのだ。監督視点では失恋映画、セラピー映画として、観客側としてはホラーかホラーじゃないのかと思える微妙な線で責めてきているだと思う。でも殺されるのは嫌だけどね。

クリスチャンの飲み物だけ赤っぽく色が変わっている。

これら闇とスピリチュアルが組み合わさり、世界は絶望だけど希望と幸せがある最後のダニの笑顔から僕は絵画のロマン主義のフリードッヒの海辺の僧侶(修道士)を思い出した。ダニの乙女心のようなものを描いた作品ではないけど過去に縛られる、心に縛られ過去の失われたものを求める、求めたいという気持ちが表現できてる絵画だと思うのだ。海辺の僧侶は僕の記事でちらほら参考に使うほど面白い作品である。
作者は弟を事故で亡くして本人も自殺未遂する。でも生き続けなければいけないし、だからといって悲しみは癒されないし生きるためには希望を持たなければいけない。絵で描かないといられないほど悲しみがあったにちがいない。大きな空からは死んだ弟や自分の悲しみを大きく包み希望を見せ、永遠に弟への愛を忘れない悲しさと辛さと希望が入り混じっているようである。それはもう死んでしまったものへの愛と悔しさなどの苦しめられる心の居場所を求めて、絵を描いて落ち着いたんじゃないかと僕は思うのだ。苦しいのに希望があるのはもう遠くにいって会えなくなった弟でも貧乏で辛い生活だったとしてもその死んだ弟との想い出が逆に生きることを教えてくれているんだというささやかな希望があると思う。
静で悲壮感の漂う絵は弟との遠い想い出に寄り添っているフリードッヒが想像でき何があっても大切な弟への愛を忘れることはないという強い気持ちさえも感じる。まるで弟と一緒に海をみようよ、と約束でもあったのか死んだ弟と一緒に海を空を見ているようである。死んだ弟への悲しみと生きることを教えてくれたことに泣きながら「ありがとう・・・」そう聞えてきそうである。弟と一緒に生きた証なんだ。
このあたりはロジカルシンキングだと感情とか見えないものへの理解は難しいんじゃないかと思う。

↓フリードッヒの海辺の僧侶(修道士)

ダニの状況に少し似ているのだ。家族をなくし自殺未遂になりかねないほど薬を飲み、バッドトリップをして世界がめちゃくちゃに見えてくる。ダニのように愛している彼氏が自分から離れていきそうという悲しさをずっと抱えた監督が心の中だけでなく映画にしてまでも殺さないと気がおかしくなりそうなほど過去に縛られている。悲しくてもそれでも生き続けなければいけない。ダニの最後の笑顔はまるで上の絵画の「海辺の僧侶」の大きな空のように希望を見せつけ、悲しい経験と一緒に生き続け永遠に亡くなった家族と冷たいけどそれでも好きな彼氏への愛を忘れないという意味があるように思えてくるのだ。
それが彼氏を表わしているクマにキスする少女の絵であるのだと思う。

彼氏のことだけでなく家族、妹がなくなった事を最初は受け入れなくて悲しくてバッドトリップをしたときも妹の幻を見てしまう。それだけ辛い気持ちなのだ。でも村の人が飛び降りて死んだことで村の人の死がダニに妹の死が現実だと残酷にも受け入れさせる。本人が死んでしまいたいと思うぐらい悲しんだあとに、もし死を受け入れることができたなら今度は立ち上がって生きるために死を喜びにしていかないといけないと思う。この死を喜びの昇華する過程を見せるかのように映画では村の人はダニの気持ちを理解してダニはどんどん心を開き、最後は笑顔になるのである。

妹の幻を見てしまうシーンは妹の幻よりこのあとの幻想でダニーの顔が歪むほうが怖い
むしろ妹の幻想を監督があまり怖くみせていと思えるのと、幻想を見てしまうぐらいダニが考えているんだと思い愛さえ感じる。

飛び降りた後にダニの目のアップからはこのときダニの心境が変わったことを意味しているだろう。徐々に死の現実を受け入れだしたのだ。

そのあとダニはみんなに自分だけ村に置いていかれる夢を見て夢の中で口から煙が出て村人の飛び降りでの顔面ぐちゃぐちゃと妹の死を重ねて見ているのが分かってくる。ちょっとここはグロい 笑
そこに一瞬生きているときの家族の映像が映る。壁紙からはホルガの雰囲気が漂い白い母親の着ているドレスからはホルガの服の色を連想させる。まるで家族とホルガは同化するかのようだ。この時点ですでにダニの心はホルガに動いてたのかもしれない。そして右側のガラスの反射に移るのは父親で、後姿から顔が見えず暗く複数のガラスに映っているところから、心はどこか安定していなく精神を病んでいるような雰囲気がある。ダニの夢だけどまるで妹が家族がベットに行き自殺をする前に見た光景のようにも見える。父親と妹には鬱や性的虐待があったのだろうかと思わされる。もしかして監督の謎に包まれている闇の部分なのだろうか?ダニは確実に自殺を考えただろう、世界で誰もダニを気にかけない愛していない状態はダニに存在する意味を考えさせたに違いない。そして彼女の幻覚は手から草や花が咲いてくる。これも死んだ人は植物によって分解されるという自殺や死を連想させる。悲劇はダニの心を蝕みホルガが現代倫理と逆でもホルガの考えがダニを死は自然なんだと死んだものをゆっくりと受け入れ、最後はたとえ一時的な気持ちであったとしても前向きに生きられるようにしたことは変わらないのだ。

実際の映像は暗かったので少し明るさを上げたもの ↓

そして監督も弟を亡くしていて失恋の悲しみもあり悲劇的な状況はこの絵画に似ている。監督の作品はセラピーと同時に弟の死に寄り添った作品で監督にとっての希望でもあるんじゃないかと。もしダニの笑顔に監督の弟への想いも含まれているとして、仮に誰も責任を追及できない死に方をしたかもしれない弟で、その死に方を弟が狂っていたとしても望んだのなら、弟の死を喜びに変えてあげないと死んだ人は報われない、誰にも救いがない話になる。悲しみととるか愛と感じるかは生きている人が考えることで、前を向いて生きるなら喜びにしないと生きていけないというのは僕はわかるような気がする。おそらく悲しみのどん底を知っているものだけがわかる悲しい死を喜びに変える心の救済なんだと思う。そのためミッドサマーはおとぎ話という名の乙女心が組み合わさったロマン主義のような詩小説のような映画であり、心の深い悲しみを愛に昇華する救済映画なのだ。美しいけど悲しすぎて、僕は男だから涙を流したくないけど心が泣いてしまいそうだった。流されるようにでしか居場所を求められない自分を見失いかけている苦しい気持ちのダニと同じような経験がもし監督にあったなら、同じように流され洗脳されたような世界でも見失っていたものを見つけて幸せ(浄化)としないと過去の自己セラピーとしては成立しないんじゃないかと僕は思う。
ダニの気持ちをもう一つ説明するとたぶん最後の笑顔は何をやっても離れられないほど依存している愛の苦しみを喜びに昇華した極地に近いんだと思う。そこが今回の映画の悪魔的な美しさでもある。この苦しみの先にある最高の境地とは仏教のニルヴァーナという永遠を感じるものなんじゃないかなって思う。それは悟りの境地というもので、今回は悪魔的な境地と考えてもいいかもしれない。狂気の悟りの境地。狂気であっても苦しさの先に境地があるのが聖人でも悪人でも同じなんじゃないかと思うし、現代でサイコパスと言われるぐらい狂った死でも歴史上はそれは聖人となるのはよくある話だ。いずれにしても解放された喜びなんじゃないかな。でもダニは監督と一緒で境地まで行っても心の傷が深すぎてまたぶり返して繰り返すかもだけど。日本の映画を監督は大好きだから、仏教のようなことも分かるんじゃないかな。とりあえずこんな抽象で悲愴感のある雰囲気は僕は好きだ。

面白いことにダニを演じたフローレンス・ピューと監督の最後のダニの映画の解釈に違いがあるのだ。英語記事のインタビューを短く要約すると


フローレンス・ピュー「(燃えた建物の中には)彼女の人生の愛が含まれているのはとても面白い。彼女は花火のようなものを見ているんです。ダニは何が起こっているのかわかっていないし、ただ本当に火が燃え上がり幸せなんです。これが私がダニの気持ちになって演じようとしたことです。もしダニがクリスチャンが建物にいること知っていたら私はダニを支持しないと思います。誰もダニを邪悪な人とは思わないと思います。私はダニを悪魔になったとは思いたくなかったんです。」

アリ・アスター監督「フローレンス・ピューの意見は尊重するけど賛成できません。ダニは彼が燃えていることをしっています。でもたぶん彼女が正気を失っていることを証明するシーンはあります。」


しかしこの英語のインタビューだけでは正気を失うということに誤解があるかもしれないので他のインタビューからも引用しておこう。
端的にいうとアリアスター監督がいうには


「エンディングはセラピー効果をもたらし、治療的なカタルシスがあっていい気分なのにそれと同じくらい引き裂かれるような破壊的。清められたはずなのに何か病気が潜んでいる」


とある。

このことから正気がなくなった狂ったものを見せつつもカタルシスがあり、でも同じくらい苦しみがある。それは矛盾しているように聞えるけど、好きだけど嫌いなほど殺したみたいなもので、悟りの境地みたいな点にいるのに闇が深すぎて闇がまたいつでも飲み込んできそうな感じ。この感覚がわからないのが典型的な異文化をしらないアメリカ人。フローレンス・ピューはかわいいイギリス人みたいなんだけど、たぶんこの東洋の宗教や思想をなかなか想像できないんじゃないかなって思う。これは僕の体験談としても言えるけど、アメリカ人のクラスメイトが日本の昔のアートを一緒に学んでどう思ったかを話したときに多くの人の意見が、技術が低いから平面なアートなんだとか、なんで死がいつもあるのかわからないとか、広い視点がないんじゃないかとか、言う人がいたんだ。僕は本当にアメリカ人って監督みたいな人もいれば全く違う様々いるんだなって思った。
おそらく西洋の視点だけだとキリスト教徒の善悪だけの視点で見て邪悪なものとだけでとらえてしまいがちだと思う。
だから僕がフリードッヒの作品をみて悲壮感や希望も感じ死んだ弟に生きる喜びを教えてもらって感謝もしているかもしれないのに、フリードッヒの壮絶な苦しみは消えないことをわからないアメリカ人がたくさん入るんだろうなぁと思ったのだった。幸せなのに不幸なの?って。正気でない深い悲しみを心に抱える人が正気でない喜びを感じても悲しみは永遠に終わらないことが想像できないのだ、心の底の悲しさと恐怖の本当の悪魔は決して死なないことを。

話を映画に戻してさらにエンディングの曲のThe Sun Ain’t Gonna Shine(太陽はもう輝かない) の歌詞も寂しくて絶望を感じているけど相手を求めている必要としている歌である。ダニそのものであり、ダニはクリスチャンが死んでもクリスチャンのことが好きでずっと心に残り寂しいと思い続けるのかもしれないと思わされる。だからたぶんまた浄化しないといけないから同じこと繰り返していくんだ、監督がセラピーとして何度も映画を取らないと不安になりそうと思うのと同じように。ダメンズ好きになる人はまたダメンズと付き合ってなかなか幸せになれず、人生で寂しさを感じながらも愛を求め自分の居場所を求め続けるのと似ていると思う。それは浄化と言っても克服できるわけではにということなんだ。

歌が絶望だけど寂しくて相手を求める内容のことから、好きな人を殺してしまってもしかしたら薬がきれた後に絶望は残るかもしれないけど、ダメンズのクリスチャンを選んだってことなんだ。だからそれって本当にいいの?って思うけど、この人で本当にいいの?っていう感情はダニが最後に見せた笑顔に嬉しくなるけど、「後戻りできないことして本当にいいのかな?」と少し不安が起こり、また幸せになったあとまた不幸が襲ってくると思うダニの繰り返されるかわいそうな運命のようなものに恐怖を少しだけ感じるのだ。永遠にホルガの村とダニの心の中にクリスチャンが残るかもしれないし、もしかしたら全く違う考えでクリスチャンとの依存関係が解放されて次にいけるでも死んだクリスチャンは心に残って好きなんだという気持ちを含んだ笑顔かもしれないけど。恋は盲目だなぁ 笑
このあたりも西洋の視点ではクリスチャンが死んでもダニの心のに永遠に生きるという発想はなかなか出来ないんじゃないかと僕は思う。西洋だともっと物理的で死は自然、自然は美しいがときには残酷でダニはクリスチャンときっぱり別れたんだと考えるかもしれない。そう考えても面白いけど、たぶんきっぱり別れたわけじゃないんだ、少女が死ぬ予定のクマにキスする絵のように死んでも好き、心に残るつまり魂は残るじゃないかと。それがホルガの輪廻転生の考えと仏教の輪廻転生と永遠の魂なんじゃないかなと。キリスト教には輪廻転生は無いと思う。ただ上でも触れたがクリスチャンはキリストの慈愛の精神で自分を犠牲して死ぬと考えると西洋と東洋が組み合わさった死生観があると思う。

監督がインタビュー


「家族からは誰も逃れられない、それは僕にとって聖域であり罠にもなる」


というようなことを言っているので逃れられないこと、逃げることのできない人生にある恐怖みたいなものを表現しようとしているんだと思う。まさにダニの彼氏への依存による彼氏しか見えないもう逃げられない愛と今回のテーマは重なっている。

ダニのような依存している人がもし自殺を考えたら依存している人と一緒に死のうって言いそうで怖い 笑
そんなダニには薬物中毒で自殺未遂を繰り返し愛に溺れた太宰治の「人間失格」をすすめたい 笑
人間失格ってホラー映画にしたらミッドサマーみたいになるのかなーって思ったりもした。

The Sun Ain’t Gonna Shine(太陽はもう輝かない)↓

R.I.P. Scott Walker: The Walker Brothers – The Sun Ain't Gonna Shine Anymore

そして死と愛と希望の複雑な感情表現がなんか日本っぽいなぁと感じるのだ。
そもそも舞台が北欧というのも北欧と日本には共通点があるのもそうだし。日本に共通ということで言えば監督はインタビューで映画を見終わった後に「あれ?もしかしてポジティブな映画じゃなかった?」と思うような二面性を込めているらしい。二面性は日本っぽい要素の一つである。二面性があるからといってこの映画はダニが幸せになり、監督にとってのセラピー映画というのは実は間違いなんだというふうには思わない。なぜならあくまでセラピーではあるけどホラー映画の要素も考え、園監督の作品に影響されていることを考えるとわざとネガティブなことも含めたんだと思えてくる。それはアリ・アスター監督がダークコメディが好きと他のインタビューでも言っているのでそのユーモアを入れてきたんだろうと思う。結局のところハッピーエンドでもバッドエンドでもダニの願いを叶えるファンタジーなんだ。
家族を失い家族を得て終わる。ダニが不足しているもの、それは愛と密接なの死と家族で、それらを村の集団が提供して終わるお話なのだ。
そして日本のアートが見せる二面性は死と愛が含まれていることが多いことからもダニの笑顔からも日本っぽいセンスを感じたのだった。深くてどこか怖くてでも愛があって崇高で美しいものだと思う。

こういう感情の後にツイッターとかの大喜利みると気持ちのギャップがありすぎて爆笑したけどね 笑
それが今回の監督がした理解を超えたときにギャップがありすぎて起きる笑いと似ているんじゃないかなと思う。理解できないときに起こる笑いだけじゃなくて、理解ができていてもしっかりギャップを認識することができればちょっと離れた視点から笑えるのだ。

監督のアリ・アスターはジョーダンピールと比べられたりするけど全く違うジャンルのホラーを作っていると思える。ジョーダンビールが政治に不満があって監督の怒りを含めているのに対してアリ・アスターは理屈を超えてもうちょっと抽象的で内面の悲しさ、優しさ、恨みではない嫌いだけど今でも好きという愛のようなものを表わしている。どちらも面白いがアリ・アスターの作品の理解はジョーダンピールのようにパズルを組み合わせて考えることが難しい部分があり新しい感覚のホラーだなと思った。僕がパズルを組み合わせてもしっくりこないと感じたのは僕たちの理解を超えた悲しみがあって、複雑な感情である常軌を逸したダニの愛に気づくかどうかが大切だったんだと思った。そこに涙がでそうなほど体が震えてくるのだ。監督が映画で本人の心のセラピーとしたように世の中には漫画でセラピーを表現する人がいたり絵画で表現する人もいる。

似たもので漫画血の轍(血のわだち)があり、作者も本人のセラピーのためにも描いている作品らしい。内容も尋常でない愛が怖くて興味深くて面白い 笑
好きな母親の狂気から逃れられない、でも嫌いになれなくて主人公は逃げることのできない共存関係に辛くて泣いているのにどこか嬉しそうに見えるのは好きなママに許されることの恐怖を感じているはずなのに解放感と喜びからくるねじ曲がった愛によるものなのだ。かなりあぶない話ではある、でもそこが心が揺さぶられそうなほど面白いのだ 笑
「ほんと僕ってバカ・・・ありがとう」って複雑な感情で入り乱れた声が聞えそうだ。


作者の見せる感情が見る人の理解を超えた話だからこそ怖くなり文学性さえ感じてくる。ミッドサマーも同じようなもので見る人の理解を超えちゃっているから、芸術やら文学やら今までに無いホラーと言われるわけだ。今までの映画ってこんなに感情を表現した映画は少なかったんだと思う。感情表現は普通なのに分かりやすい怖さばかり求めて、そんな怖さに飽き飽きしてきた人があいまいさや複雑さの含まれる日本映画のような怖さを求めてきている、日本英が回帰している時代なんじゃないかなと勝手に思ったりもする。それが中国よりの映画に飽き飽きして中国べったりのハリウッドホラーに飽きた世界の観衆の気持ちの表れなんじゃないかなって思う。監督自身もアメリカ人の中では珍しいシャイだしインタビューの答えもなんかあいまいだし日本人にいてもおかしくないような感じ。

もう一つのセラピーの可能性

ここまでがダニに共感しようとして僕が感じたことだ。
次が監督はもう一つ別の自己セラピーを含んでいるということ。
その例は上でも少しいった太宰治の人間失格に似た答えがあると思う。
太宰治は笑われることを恐怖する故にあえて道化になって笑われてしまいたいと思っている。笑いのツボには恐怖があるのだのは確かだけど、恐怖だけでなく悲しみもあるのだ。
太宰治はお金持ちの家に生まれながらも自分らしさと小さい頃ら抑えていきて周りにあわし心にぽっかり愛やアイデンティティが欠け道化師を演じないといけなかったのだ。そうなった先にあるのが人間失格の主人公の葉蔵。なぜ生きていなければならないのかわからない、人間を理解できず人間を恐怖し人間を捨て人間失格となる。
それは他者からの愛情の欠落により心にはずっと足りない形成したかった何かを抱えている。
それがないと本当の意味では安定して生きることができず破滅的、狂気の人生を送るようになる。それが人間失格で見せていることだと僕は思うのだ。

これを浄化するたぶん本人が怖くて隠していることをあえて出して笑われることで浄化するんじゃないかと思う。笑われるほど強くなると太宰治は言うように。
でも最後の最後まで人間失格の葉蔵はピエロとして人間失格としていき続けても自分を出し切っていないのだから浄化なんて根本的にはされないんだと僕は思ったのだった。心の奥底にあるぽっかり欠落した愛情を埋めるためには本心を出さないといけないんじゃないかと思うのと、長い間ピエロになりきり自分の本心さえも気づけなくなっていたんじゃないかと人間失格からは思う。

怖くて言いたくないということには根拠がある。監督へのインタビューで監督は
自分の作品について語りたくない監督が


「地雷原を歩いているような気分になる。後で自分の言ったことを後悔しないだろうか、私の発言がどう解釈されるのだろうかと不安になる。ほかの人の作品について話すほうが、はるかに楽だ。」


と答えているのだ。自分の考えを言うとどう思われるか恐怖するのは人間失格の作品みたいな話に見える。

本心を怖くて笑われるピエロを演じて隠してしまいたいほどのものとはなんなのか?
そのヒントは監督の過去のショートフィルムThe Strange Thing About the Johnsonsにある。子供が父親の写真で興奮する、近親相姦による家族の崩壊の作品。ホラーとして作っているがたぶん何か隠したいものを何か面白いだろうなぁと思うやり方で笑ってもらってホラーで表現しているだけなんだろうと思う。これは監督が近親相姦があるかないかは別の話だと思いたいが、ミッドサマーでも近親相姦があり、監督の亡くなった弟ってもしかして何かあったんじゃないか?と監督には申し訳ないけど疑ってしまうのは僕だけではないだろう。少なくとも愛が捻じ曲がっていることでとんでもない何かあったんじゃないかと思わされる・・・・。監督の闇が深すぎる 笑

インタビューで二つ気になることを監督は言っている


・食卓では家族の前で家族のフリをしないといけない。

・家族や家族の崩壊といったテーマに関しては、自分の経験から来ているという自覚があり、脚本にするときは、それらを意識的に隠すようにします。なぜなら自分の人生に関わってきた人たちがそれを見たら、絶対に憤慨するような描き方をするから。


出来るだけ隠して笑って誤魔化さないと怒られるんじゃないかとビクビクしているのかもしれないし、フリをして自分に嘘をついてピエロみたいに生きてきたのかもしれない。

映画はいくつか滑稽なシーンがある裸で走って笑えるのとか、全部道化師を演じている気持ちなんじゃないかと思うと妙に納得してしまう。
そのヒントが最後に燃やされる人達がかぶる帽子がピエロの帽子。帽子をかぶっているのはマークで何も考えていないピエロみたいなやつという意味だろう。監督も考えていなかったコントロールされていたという意味と、インタビュー通り怖くて自分を隠していて、それがピエロを演じていたんだという気持ちの表れにも感じ取れる。ピエロだったかもしれない監督の昔の気持ちを捨てるかのようにピエロの帽子をかぶったまま燃やされる。

監督はインタビュー


「すべての登場人物の中に監督の一部がいる」


と語っている。

監督のいいたくない闇と決別するかのごとく燃やされるんだ。

でもアリ・アスター監督は狂気と思われるようなことを笑われることで自分の狂気と同化して気持ちが少しスッキリするかもしれない。それでも闇を抱え続けると思ってしまうのは、映画で笑ってもらうけど結局笑うことはみんな気持ちをわかっていないという裏返し、さらに恐怖し本心を理解してもらえなければ一時的に浄化があっても何も解決しないのだ。でもピエロが自分の気持ちの自己防衛のためのもので、もし気持ちを見破られ笑われることがあれば恐怖のどん底に落ちるはずである。難しい心だ 笑
監督はホルガみたいに共感されることで救われることがあるのを知っているから共感をテーマにできて、それでも共感されても癒されない人がいることも知っている。それが監督自身だろうから。

なので僕は心の中で悲しくても理解してもらいたいけど笑ってもらいたいという捻じ曲がった気持ちに、僕は少し笑いながらも心はどこか泣いているのだった。人間失格を読んだ時だって笑いながらも主人公の苦しみを感じどこか泣いているのだ。
本人がしっかり隠さずに生きて周りが分かってあげることが一番の解決なんだけどそれは怖くてできないんだ。だから他の人からみたら奇妙だけど笑って泣いてあげれば少しは心を開くかなって思ったりする。
たぶん夜が開けたら怖いんだよ、絶望のあまり壊れそうなんだよ。でも明けない夜明けに絶望はないのかもしれないけど孤独で悲しいはずなんだ。だから夜明けにビクビクして傷ついた心を泣いて笑って抱きしめるような優しさで包めたらいいなぁと思うのだ。

人間失格の葉蔵がもしいたら、そんなあまりにも奇妙な冷笑でもない笑い泣きを見て気になって「なんで笑っているのに泣いているの?」と聞くかもしれない。「だって・・・怖くてつらいことを言えない気持ちを笑いで隠そうとしていることがわかるから・・・寂しくて悲しくて心が震えているのがわかるから・・・口で言っても信じてもらえないとわかるから君の絶望を感じて正気を失ったように笑って泣いているんだよ、ミッドサマーのホルガ村の人より狂気的にね!!!」、葉蔵は一瞬ビクつきでも複雑な気持ちになり、でもドン底には落ちずに驚くかもしれない。「(この人の泣き方、笑い方は尋常じゃない。切なさと苦しさが正気じゃない笑いと涙が溢れている。)狂っている、同じなんだ・・・わかっているんだ。」って思ってもらえばいいなぁ。完ぺき主義に拘らずたまには狂った音や色があってもいい、だって機械じゃないし人間なんだから。まぁそういう笑いは想像の範囲と心だけにとどめておいて実際にはしないだろうけど。面白い 笑

でも心がすでにピエロになっているならもう人間には戻れないのかもしれないけどね、それが人間失格。コワー 笑
人間失格をまた読みたくなった 笑
ミッドサマーって文学的だなあ。

社会的なメッセージ

でもやっぱり監督がアメリカ人だからかアメリカ映画らしい社会問題も含めているように思える。

僕の考察と妄想が長いので簡単にまとめてみると


・アメリカの貧困格差
・西洋と東洋の常識の違い(キリスト教、死生観、愛の形の違いなど)
・個人主義と共同体の価値(共感の大切さ)
・白人至上主義
・ホロコースト
・ジェンダー問題
・フェミニズム
・過度なポリコレ


アメリカは世界の中でも貧困格差が広がっている国で宗教なんてお金と密接に絡み合っていて宗教心なんてあってないようなもの。お金が大切な社会なのである。そんな社会とは正反対のホルガの村はアメリカの社会にいる人たちにはカルトと見えてしまう。だけどホルガの人は監督がいうように伝統を大切にしていて、現代でなくなりつつあるものを持ち合わせているような人たちなのだ。僕だってホルガの村の人が人を殺すことを受け入れられない、でもここで示されているのは、お金ばかりで心の無い社会が今あってみんな大切な何かを忘れているんじゃないかというメッセージさえ僕は感じたのだ。お金だけが大切な社会には人としての悲しみや喜びにも気づきづらい、その結果、気づいたときには現代のように貧困が広がっているのである。喜びや悲しみに気づきやすい環境は宗教のように資本主義から少し離れた場所で気づきやすいと僕は思う。だからダニの周りの女性たちはダニの心の奥底の悲しみに敏感に共感して一緒に泣くのである。お金だけではなく、歴史があるホルガの村で村をバカにしておしっこまでして、撮影禁止と言われているのに村の大切なものをこっそり見ようとしちゃうんだから殺されることになるのは無理のない話しだ。現代のアメリカ人には忘れていることがたくさんあるんだなぁって思えた。だからこそダニにとってはホルガの村はユートピアで、僕たちがホルガをカルト村と思うのは、すでに僕たちは大切な何かを忘れているのかもしれないと思ったりもして、少し考えさせられた。日本だって西洋と全く違う文化と風習で昔はカルトと思われていたはずだ。まるで日本を切腹する野蛮な人たちの国だといいながら攻めてきた外国人が日本を開国させ宗教を広げようとしたという話を思い出したりもした。
それに今のアメリカを見ると銃事件が多く細かな犯罪は日本と比べられないぐらい多すぎる。どっちが野蛮なのか 笑

そもそもホルガの村は僕にとっては日本っぽい。まず、ホルガの村には桜の木のようなものがある。飛び降りた人が死ねなくて顔をつぶす、とかは日本の切腹して首を切り落とすとか、ホルガの村の人は礼儀正しいし伝統があるのも日本っぽい。山のような高いところから飛び降りるのは山に捨てるうば捨て山みたいなものだし、死生観が西洋ではない雰囲気は東洋と考えてもいいだろうしそれは東洋の中でも日本じゃないのかなと思う。閉鎖的な村は日本ではあったはずだし、日本は鎖国が長かった国で西洋からするとホルガの村みたいな世界だと思う。これを見て変だよカルトだよと思えたら、ちょっと止まって考えてみると面白いんじゃないかと思う。

出典:IMDb

もちろん宗教ってやばい!っていう側面はあるものの、監督の本心を考えると宗教を否定している人ではなさそうだから悪い意味じゃないのかなと思えてしまうのだ。もちろん僕らを混乱させ不安にさせようとはしているけどそこが本心じゃないんじゃないかと思ってしまう。辛いときに人は洗脳されるという教訓の映画ではなくて、僕たちが拝金主義になりつつある世の中で、アメリカに欠けて失いかけている思想をホルガを通して見せて、そこがアメリカ人の監督にとってアメリカに無いもので憧れるロマンなんだよっていうメッセージに僕は受け取ったのだった。アメリカから見る異文化というのは、白人社会だけど考えが違う北欧や東洋、日本みたなことなんだと思う。リベラルと保守で説明すると一般にはホラー映画はリベラル寄りのわかりやすい怖さがあるけど保守寄りなのはもっと奥深いように思うのだ。監督が普通とは違う映画を作りたいということは、今のリベラル寄りホラーとは違う、それは保守寄りホラーを結果として作ったんじゃないかなと僕は思ってしまう。監督のインタビューには伝統やら歴史やらの言葉がでてくるので、そこを重要視することは保守な考えを大切にしていると考えるのは自然だと思う。そしてクリスチャンという名前はキリスト教徒の意味とかぶるのでクリスチャンが死ぬのも今の上辺だけになりつつあるアメリカのキリスト教徒に大切なことを取り戻してほしいという想いもあるんじゃないかと思えるし、ミッドサマーは多様性のようなグローバリズムを感じさせながらも実は過去の伝統や歴史への回帰なんだ。映画を見ただけではなかなかこのあたりは気づかないだろう。多様性といいながら監督のような人は受け入れられていない嘘っぱちの現実があるのかもしれない。あと監督は今までよくあるハリウッドホラー映画を通して今の映画会社と観客の関係に疑問を持っている。つまり言い過ぎかもいしれないけど映画業界が中国べったりだから中国批判のようなものがある可能性もある。

インタビューで監督は


「ハリウッド映画を見て家族が一つになるのを見てこれは自分とは違う」と思った


らしい。
今までの分かりやすいステレオタイプのホラーやドラマなんて全く心に届いてないんだ。例えるならマーベルヒーローズを見て、ヒーローが戦うのは面白いけど正義が勝つばかりで当たり前の価値観を見て何が面白いんだろうと感じるのと似ているかもしれない。

それに監督はユダヤ人の家庭の子らしいので監督の作品には無意識にでもホロコーストをされたユダヤ人の悲惨さを訴えかけるかのようなメッセージがあると思う。僕らがホルガ村をカルト、悪と決め付けてしまうのはホロコーストと何が違うのだろうかと。キリスト教徒が見ると善悪から物事を見てしまいがちで、だから善悪だけでないホルガ村が怖くなるし現代の日本人も善悪で考え勝ちな人が多くて怖くなっちゃうんじゃないかと思う。ユダヤ人視点だとキリストのような悪魔や神聖とか霊はあまり意味がないと思ったほうがいいんじゃないかと思う。ユダヤ人にも無宗教の人やユダヤ教徒の人もいて監督はどちらなのかは分からないけど英語のインタビューで、要約すると


「僕にとって本当に神聖なものはないんだ。ヘレディタリーでは悪魔を使いたくなかった理由は僕はユダヤ人なので悪魔に敬意を払ったりすることはないからね」


というようなことを言っている。つまり神聖というスピリチュアルより現実そのものを信じているということではないだろうか。ユダヤ人でなくても現代の宗教観が薄くなったアメリカ人なら悪魔を信じていない人はいると思うけどそれでも多くのアメリカ人は悪魔を信じていると思う。だからユダヤ人だから敬意を払わないというのは他のアメリカ人よりも悪魔とか信じていないんだよっていうことなんだと思う。悪魔を信じているアメリカ人には悪魔的な狂気なのに悪魔が出てこなくて混乱してとても怖かったに違いない。

このことから普通に多文化を尊重する気持ちで見るとホルガの村は異文化なだけで悪魔的なことは実はなくて、よくある歴史にあった宗教を信仰している人達なのだ。僕たちは多様性を受け入れられない気持ちを実は持っているのかもしれない。周りがメンヘラと言って偏見だけで逃げていることはホロコーストの構造と似ていると思えて考えさせられるのだ。もちろんホルガ村の死生観を受け入れるのは難しいし外部からの男だったら殺されそうになるんだったら僕は幸せにはなれないから受け入れられない 笑

さらにホルガ村を悪い視点で見る場合は白人至上主義は潜んでいるかもしれない。ホルガ村は白人しかいないので有色人種は必ず殺されるのかもしれないと思えるから。それはアメリカにもあることで白人に支配されている政治、映画は有色人種のことをあまり気にしていないし黒人は簡単にアメリカでは殺される。まるで有色人種が死んでも気にしないかのようにも思うのだ。それがホルガ村。極端にいうとアメリカの白人至上主義ってカルトと何が違うの?と。白人にとっては白人だけのホルガの村はユートピアでそのユートピアを乱す外部の人を殺すのと現代のアメリカの問題は同じようにも思う。ホルガ村のこの二面性で、見る人を混乱させるのはそこも監督の言っていた「みんなが不安になってくれればいいな」ということなのだろうか。ホロコーストとは結果として集団の妄想のような話で集団の妄想がデモを信じて外国人に怯え人間関係や社会生活を破壊し人を野蛮にしていまう。ダニが冷静だったのい対して他の人はヒステリックになり怯え、現代の論理的思考では理解できないホルガを軽蔑するのは危険性は先祖代々からある人間の本能のようなもの。ただ論理的ではなくただ非論理だけでなく色んな視点から合理的に考えていかないといけないんじゃないか、それが国家がある以上必要な健全なナショナリズムなんじゃないかというメッセージを僕は受け取ったのだ。

出典:IMDb

そしてホルガの村は女性が強い社会であるからジェンダー問題は含まれている。
監督はインタビューで気になることを言っている。要約すると、


・僕は適当にこまかせないし、じっくり話し合いたい人で涙もろくてそのせいか女性と気が合う。ミッドサマーは本能的に自分の思いを女性キャラへ投影したんだ

・僕はダニーよりガンガン人前で泣くんです。


このことから想像の範囲だけどおそらく監督は彼氏がいたんじゃないかなと僕は思う。見た目は男だけど心は女性に近いんだよって言っているようにも聞えるしだから女性の立場で映画を作れたんじゃないかなと。アメリカ社会はまだまだこの問題を抱えていて、やっと自分を分かってもらえると思って付き合っていた同性の彼氏が全く気持ちを分かってくれなかったら普通のカップルが想像する以上に苦しい気持ちになるじゃないかなと思う。偏見じゃなくてアメリカでは監督の雰囲気のような男性は彼女じゃなくて彼氏と付き合っていることが多いと僕は感じることが多い。もちろん彼氏じゃなくて彼女だということもあるだろうけどその場合は女性のような立場を受け入れてくれる女性なんだと思う。アメリカでは強い女性が多くて強い男性を求めることが多いと思うのでアメリカ人からして女性のような男性を好きになる女性はけっこう珍しい女性なんじゃないかな。見た目は男性でも心は女性と見た目は女性でも心は男性の組み合わせかな?
だからなのか、日本映画の宗教と女性の強さを見せ付けてきた「神々の深き欲望」も監督の好きな作品とのこと。神々の深き欲望を見てみるとミッドサマーは西洋の仮面を被った日本映画に見えてくる。いや西洋と東洋の思想の同化した作品と言っていいのかもしれない。映画の構成としては「神々の深き欲望」が近代文明に搾取されていく伝統を守る人達で、ミッドサマーは伝統を守る人達が近代の人を殺す話しだ。西洋と東洋の同化というのはグスタフ・クリムトのアート作品に似ているかもしれない、ものすごく長くなるのでここでは深く説明しないけど僕はグスタフ・クリムトの中の好きな作品についてちょっと書いたことがあるので気になるる人は見てみるといいだろう。グスタフ・クリムトの一部の作品は西洋と日本の同化しており、ミッドサマーにも入ているんじゃないかと思うのだ。西洋と東洋の愛の共有、異なる愛の理解でそれが多様性ということなんじゃないかということだ。
グスタフ・クリムトの作品から見えるさまざまな考察
とするとやっぱり日本の永遠の愛と極限の中、死に近いところの愛がミッドサマーにはあるかもしれない。そして神々の深き欲望が人間の生と死の自由に宗教は必要なんだということを見せているようにミッドサマーも同じようなこと見せているだろう。日本と西洋が融合したような映画には「世界の涯ての鼓動」という映画のレビューを書いたことがある。何も分からずみると眠くなるだろう 笑
日本を感じ、人類の歴史を感じるからかホルガが身近に感じてくる自分もいて僕にはカルトと狂っている村とか嘘つきの集団とかには見えなかった。むしろ野蛮さより民主的で尊ささえある。

また性に関して言えばフェミニズムが入っているかもしれない。クリスチャンは裸で走り回るが一般的な映画は女性が裸に近い状態で走り回ることが多いと思う。また女性がレ○プされることは多いから今回はクリスチャンがレ○プされるのだろう。服も絵や色も綺麗でかわいいものが女性的。日本への憧れのある監督が過去の日本が持っていた母系社会をキリスト教の父系社会よりリスペクトしているのだろうか?監督に女性の側面がもし強くさらに強くなれないならなら父系社会では息苦しく感じ大昔の母系社会に憧れを持っても不思議ではない。ミッドサマーをみて男性目線で怖いと言う感想も多いが、女性男性のどちらの目線でも楽しめがするものの今までの映画の目線は男性中心だったということだろう。ある意味男性への仕返し映画だ。今まで女をバカにしやがって、クマに詰め込むぞ、みたいな 笑
クマ詰められてかわいいって思われるクリスチャンは男として恥ずかしいだろう。そんな格好で死んだら固定観念の男の威厳って何も無い 笑
性交シーンでも笑えるけど男性が望んだ性交なんてない、気持ち悪いと思うだろうでもこれが現実なんだ。クリスチャンが愛を持ってないように女性側だって愛をもたない、恥ずかしいのはクリスチャン。もっと男側に気持ち悪くなってもらわないと困るんだよねー、みたいな 笑
監督のすごいサディスティックな部分と悲しい部分を感じる。
だから男性がクリスチャンの裸を見て笑ったら自分たちがバカにされているのがわからないということである。クリスチャンはよくこんな状況でヤレるなぁというのは男性優位な見方でレ○プされていることに気づいていない思考なのだ。やられているのはどっちだと。男の僕は悲しいけどダニーに共感する 笑
でもなかなかそんな映画ないから良い映画だと思う。
映画を見終わったカップルがクリスチャンを完全擁護しようものならケンカになっちゃうかもしれない。もっと気持ちわかるべきじゃないの?とか 笑

ミッドサマーは共感できることへの重要性を見せ付けた作品だとも言える。韓国の貧困問題を見せるパラサイトでは貧困層と富裕層の間に共感するという感情が抜けているように見えることが貧困を加速しているように僕は見える。それは経済成長だけを目指した社会には共感が抜けてしまうのだということ。中国排除に向かう世の中の決断は共感なんて興味が無い人が多い中国のやり方をあらためて共感できるものにしていこうとしているんじゃないかとさえ思うのだ。またアート教育が今後重要視される可能性があることからも共感は重要なものになっていくだろう。アメリカの異文化が混ざり合う多様社会では同じ共感できるものが一つでもないと話がまとまらないように言葉が伝わらなくても多様社会を望むのならば共感は必要になってくるのだ。でも個人主義のアメリカは共感ができない人が増えて貧困が加速しているんだろうと思えてくる。西洋社会とは違う北欧の話であり日本にも興味を強く持っている監督が見せるものは西洋の価値観だけで見ること、つまり上でいう白人至上主義のような話とアメリカが過度に嫌う全体主義への批判もあるのではないかと思う。なんでも決め付けるのではなく今否定している中にも正しいことはあるんだと、色んな人がいるように心は様々あるんだ。ホルガを悪に見ることは本当にいけないことなのか?そう言われているようである。間違った価値観により少数派が差別されたり傷ついていることがわからない、個人主義だけが素晴らしいというが実は幻想なんじゃないかと思えてくるのだった。それが現在のアメリカの社会主義を支持するサンダース人気とそれを嫌う絶対個人主義かつアメリカファーストのトランプだろう。僕はトランプを支持するけど全部を支持できるわけではない。今までの個人主義は結果として放置、無責任がたくさん含まれていたわけで今まででのやり方の個人主義でいいのか?というと違うと思うからだ。だからこそ共感が必要で監督は日本などの伝統や歴史にロマンを感じていると言っていように、少なくともホルガには監督のロマンも含まれているだろう。今までの個人主義が人の理解を狭めてきたと思うと社会的少数派であるはずの監督は傷ついて生きてきたんだろうなぁと思ってしまう。この個人主義VS共同体はまるで紀元前にあった伝説の都市カルタゴをすべて邪悪だと言う人と全部が邪悪ではないと言う人に分かれるのとも似ている。カルタゴは幼い子供を生贄にするのだけどそれを軍国主義が残るが個人主義が生まれてきていた古代ギリシャはカルトだといい邪教扱いし消し去ろうとするのだ。普通子供を生贄にすることはおかしな話だけど、古代には様々な愛の形があり簡単にすべてが悪だといえないのだ。しかもカルタゴは貿易国家で日本の現状に似ていて僕はカルタゴの消滅が他人事には思えない。キリストがキリストの愛のために聖戦をしイスラムと戦い、イスラムがイスラムの信じる愛のためにキリスト教徒と殺しあった歴史があるように。

だけど僕らが忘れている西洋的の愛だけじゃなく多様な愛や伝統があるんじゃないかなと思わされる。過度なポリコレという欺瞞に怒っているのも映画Usのジョーダンピール監督だろうし、何でも西洋視点で差別やら人権などと口を出してきたのが今までの世の中なのだ。その結果どうなったか、勝手に戦争を始めるアメリカ、歴史を捏造される日本があったわけだ。映画のジョシュがナチスに関する本を持っているようにジョシュがホルガをナチスのようなものだと思っている可能性はある。しかしその価値観はの多くは西洋のものであり社会的多数派の考えが現れている。ナチスを肯定しているということではなく、ここではなんでも一つの視点だけで否定するのはおかしくないか?ということなんだと僕はとらえている。それが社会の少数派の監督が生きて感じたことなんじゃないかなと。僕たちは個人で生きているようで実は生きていない。先祖があって僕らがいて、伝統や文化を大切にしないで生きる人が多くなった現代で、一人で生きているんだ個人主義だという幻想を抱く傲慢な人に僕らはなっているんじゃないかという意味があるかもしれないと僕は思った。そんなことを考えているとミッドサマーは奥が深すぎて話がつきない 笑

アメリカ社会の共感ということでふと思ったのが、ホルガ村の共感する方法だ。
ホルガ村の共感は薄っぺらくて本当に理解していないような共感の何がいいんだろう?と思う人もいるかもしれない。しかしそれは間違っているのだ。
日本で生活が長くアメリカで教育を受けると気づくことがある。それは薄っぺらくても褒める人がアメリカには多いということ。あまり褒められたことのない日本人にはそんな薄っぺらい褒め言葉も嬉しくてやる気がでたりするものなのだ。これと同じような話でダニはものすごく絶望か抱えてそれをただ分かってくれる人達がいたらうれしいはずなのだ。これは分かりやすい理屈だけのロジカルシンキングでは分からないかもしれない。表面でもいいから理解しようと努力もできない共感もできないとホルガ村に行ったら即効殺されちゃうかも 笑

そしてホルガの村の人たちがただ薄っぺらい共感をしているのかどうかというのは本当のところ謎だ。なぜなら狭いコミュニティーのホルガ村は同じような生き方をしてきた人ばかりで気持ちの変化がわかりやすく、気持ちに敏感になって絶望さえも感じ取り共感したかもしれないと思うのだ。例えていうと日本の以心伝心である。現在多様な価値観がある日本で以心伝心は難しくなっているだろうけどそれでも日本は他国に比べて以心伝心がある国だと思う。以心伝心は高コンテクストな会話と言っていい。高コンテクストとは、言葉だけでなく様々なことから意味を理解する能力が高いということなのだ。音、細かな表情、息使い、動き、声の大きさや些細な声の違いなど様々だ。アメリカはコンテクストが低い社会なので分かりやすい社会ではある。どちらの社会も良し悪しがありどっちがいいかは答えは人によるのだ。
それに気持ちは伝染するため気持ちを共感しやすい人としづらい人がいてしやすい人だっている。なのでホルガ村の人は共感しやすい人でかつ、もしかしたら特に昔の日本のような高コンテクス社会でダニの様々なことから絶望を共感できたんじゃないかと思ったりもするし、最後に燃えるシーンでのホルガの人の叫びは西洋の理屈を越えた理解があるんじゃないかなと思う。もちろん完全には理解できないだろう、でもおそらく僕らの理解を超えた共感がされているんじゃないかと思う。さらにホルガの人は楽器ができ子供は自由に遊び、牛、ヤギ、犬と共存し、野菜を育てている様子や、子供と大人の飲み物を変えてまるで大人にはアルコール、子供は水と子供のことを考えた行動ができているようで心が狭い人たちではないようだ。特に子供が笑顔で遊んでいるシーンもあり全く考えていないわけではなさそうで小さい村なのに知的で高度な文化を持っているように見える。

まぁ好きなように考えるしかないと思う。映画が共感もテーマにしているのでただ共感されるだけって素晴らしいよね?っていう意味かもしれないけど、ホルガって監督の気持ちを表わしていると思うのも監督は泣きやすいって言っている。
ホルガの人には深く理解している人もいたかもしれないし、自己満足の理解の人もいたかもしれなしそれでも感情的に一緒に泣いてもらえるっていいことじゃないの?本当は分かってなかったとしてもわかっているって思えるぐらいの気持ちがあってもいいんじゃないの?という意味かもしれない。アートを見てもどう感じるかは人それぞれで本当に理解して感動しているなんて誰もわからなくて、でもわかってくれるわかってもらえるということが大切だと思うのと似ているかもしれない。死んだ人だって本当に理解してもらおうとは思ってなくて分かってくれる感情があることで報われるんじゃないかなって思う。何も感じてもらえなくなることが一番本人にとって怖くて寂しくて悲しいことなのかなと。日本っぽいホルガに親近感を感じるから人間味がある人達なんだと思いたいだけなのかな?と思ったりしたい部分もある。

ここで一つ疑問なのがアメリカは褒めてくれる人がいて幸せになれるのになんで高コンテクスト社会の共感をダニは求めたんだろうということ。
それは監督がマイノリティだったからじゃないかと思う。アメリカ人にしてはものすごく心配症で発言は少なく完璧主義で見た目も細く男らしさを求められるアメリカでは心の問題を抱えたんじゃないかと僕は思う。発言が求められさらに周りが男らしさに対して褒めるのに本人はあまり褒められずいじめられたかもしれない。誰も気持ちなんて理解してくれないんだと。そうなるとアメリカの低コンテクスト社会より高コンテクスト社会のホルガのような場所をいいなぁと思う気持ちが生まれても不思議じゃないと思う。
僕も低コンテクストの分かりやすいホラーより高コンテクストのホラーのほうが考えることがあって楽しい。

つまりこの映画を後で考えてみても、もしヤバイと思う人が多いというのは社会に何か見えていない問題が起きているんだと思ったりもできる。それは多くのホラー映画は僕らが気づいていない社会問題を反映しているからだ。逆にホルガに行きたいと思った人が多ければ西洋社会の思想がしみわたっている現代の社会の歪みを感じているのかもしれない。その意味は僕らはみんな同じと思いながらすでに心は分断されているということだ。僕らがヤバイのか監督が狂った変人でヤバイ人なのか。僕には監督は人より悲しみを感じて人より社会の問題を見つめて人より人間の本質を見ているように思えてくる。人より生きることを頑張らなくてはいけなかったかもしれない、人より辛い環境があっただけかもしれない、普通の人には理解できないことをやりとげたり見せ付ける人のことを人は狂人というのだ。

気持ち悪かったところ

顔がぐちゃぐちゃなシーンが何度か出てきて気持ち悪かった 笑
ぐちゃぐちゃになるシーンをそんなにゆっくりみたことないからそこは嫌だった 笑
怖く見せているわけではないのはこれが一般に恐怖を楽しむ映画じゃなくて監督の心の中そのものだと思うからだ。だけど衝撃的。それに最後に内蔵を出されて吊るされている人の顔は目がくりぬかれていて顔をしっかり見ることになるから、見せ方は怖くはないけど記憶に残る 笑
例えば目がくりぬかれているゾンビとか見ても記憶に残らないのにそれとは今回違うんだよなぁ。
血が出てないだけマシだったけど不安にさせるような音が苦手な僕にはもうダニの気持ちになっているかのように気持ち悪くなったり頭がフラフラしてきたりした 笑
僕は船酔いもしやすいので画面がぐるっとなったりぐにゃぐにゃと現実にないことを見るとめまいを起こしやすいというのもあるかもしれない。船酔いをした人は分かると思うけどダニと同じで何もかもがぐにゃぐにゃぐるぐるなったりしてもう意識がもうろうとしてくる。だからなのかますますダニのバッドとリップを想像できて共感できたのかもしれない。船酔いすると不安にさせる不協和音は船酔いを悪化させるんじゃないかと僕は思うから酔い止めがもしかしたら必要だったかも・・・あぶない 笑
鬱やバッドトリップのダニの視点をうまく音と映像で表現していて、その模索はすごいと言えるがメンタルがちょっと強くないと気持ち悪くなったり辛いかも。ここは僕が映画館で見なくてよかったな、と思ったところ。内容は面白いのに映像から来る刺激に共感しすぎると途中で映像を止めて落ちついてから見直すというのを最初はした。だから最初はダニの気持ちの前になんか気持ち悪くて不思議な感情になった部分はあったと思う。それに加えてグロシーンだともう頭クラクラだ 笑
でも二度目三度目を見直しているとちょっと慣れてきてダニの愛に飢えている悲しい気持ちに共感できるようになったと思う。それでも音が気になるから音を落としてみたりしたけど。音は本能に刺激してくるからけっこう気持ち悪いんだよね 笑
二度目から食べながら見たのも不協和音を軽減できてよかったかもだし、気持ちに余裕が出来たからかホラー展開のあるあるを考えながら見れたり、ホルガ村の習慣はこんな人達なんだと無駄に怖くなくなってきたのもあって心に余裕が出てきたのはあったかもしれない。
気持ちに余裕が無いと目からも音からも倫理からもぐるんぐるんにされるからすごいことになるよね 笑
そんなこと考えていたらダニは目が回って気持ち悪くなってまともな思考ができなくなっているはずなのに気持ち悪さよりも死という強い悲しみと受け入れないといけない葛藤があったから、逆にその気持ちのおかげでパニックより考えさせられる心の余裕が少なくともあったから他の人がパニックになっているのにダニだけ驚くけど落ち着いていて自分を見つめるよういなってホルガの村で生き残れたのかなって思った。あまりにも強い感情が働くと船酔いも吹っ飛ぶのかな?恐怖で酔いが冷めるみたいに哀しみがバッドトリップを一瞬でも消しちゃったのかな。

あと食べながら見たりしたから不協和音が和らいだ部分はあると思う。

だからこの映画は良かったけど気持ちが本当に落ち込んでいる人や共感しやすい人やホラー映画を見慣れていない人はすごく苦しくなったりするんじゃないかなって思う。だからネタバレを見てから映画を見たほうが僕は落ち着くかなー。

ちなみに監督が頭をぐちゃぐちゃにしたり切ったりするシーンを多用する理由は英語の記事のインタビューで語っている。要約すると


「僕のユーモアです。頭の損傷についてとても満足しています。これは僕の小さい頃の抑制したトラウマがあってそれを仕事に常に取り入れているだけです。」


このことから子供の頃にあったトラウマによって様々なことを抑制してストレスを抱えていて、子供の頃のトラウマを浄化させるかのごとく「もうこんなトラウマとはさよならだ」と頭をぐちゃぐちゃにしているのかと思った。

頭をぐちゃぐちゃにされたの見せられたら僕もトラウマだよ 笑

またスウェーデンから批判が来るんじゃないかと思う人もいるだろうが、スェーデン語は分からないので機械翻訳でだが、一応スウェーデンメディアのAFTONBLADETがホルガにいて「ほぼすべてコミカルな田舎でスウェーデンの伝統を思い起こされる絵画や小屋があります」と完全には悪いことは言っていない。
他のスウェーデンメディアDagens Nyheterは「スウェーデンファンタジーの面白いホラー」とも言ってる。

そしてスウェーデンメディアのGoteborgs-Postenでは疑問をはっきり「スウェーデンの伝統を曲げて世界に発することはいいのか?スウェーデンを同質で少しおかしな人と強調するのはいいのですか?この答えははっきり大丈夫だと言える」
とはっきり疑問に答えている。
「」
またスウェーデンの公共ラジオのSwdish public sevice radioでは「環境や服は好きだし映画の中でうまくスウェーデン語も使えてます。」と評価している。

このことからミッドサマーは多くの人が楽しんで興味深く見たのだと思う。スウェーデン人は心が広いなぁと思った。

結局・・・

結局、映画を一言でいうとセラピー映画であるし、おとぎ話である。ドラマでありサスペンスでありスリラー。恐怖と恋が紙一重のように、愛には攻撃性があり愛と恐怖も紙一重だ。依存しすぎた先の失恋による心の傷を癒すための心の拠り所を見つける映画であり、好きだからこその殺人だったのだ。乙女心は分からない。いや乙女でもダニみたいな状態の気持ちは分からないだろう。殺したいほど好きなんて普通ではないのだから。だからこそ映画にしても面白いんだろうけど。監督の乙女心に恐怖した映画だった 笑
監督の心が解放される日がくるといいけどそうしたらもうこんな映画作れないんだろうなぁ。
逃れられない恐怖という人間の本質に向き合った鋭い洞察力を見せつけてきた作品だったと思う。世界中が見たくないもしくは知らない、無意識にでも見ないようにしている本質に気づき見せられる監督のセンスは間違いなく世界トップの人物だろう。

今年のハロウィンはクマの着ぐるみが日本で流行らないかなー 笑
クリスチャンには悪いけどちょっとクマがかわいいし。

ここまで考えたけどオタクっぽく言えばやっぱりミッドサマーを見る僕の気持ちは魔法少女の絶望と願いと自己犠牲と愛によるすべての悲劇が昇華し神話になる話に思ったりするのだ。ダニの好きなのに好きな人を殺さないと苦しんでしまう。苦しい選択だ。魔法少女が世界を崩壊するような敵と向かいあい戦わないといけないようにダニの世界が崩壊するダニの心との戦いにむきあわないといけないんだ。願いは笑顔になり届いたんだ。悲劇のヒロインって嫌いじゃない。悲劇のヒロインと思うと共感しやすいと思う。メンヘラは「私、可哀想」って思う悲劇のヒロインだ。ダニは普通のメンヘラではなく病的だけど、それでも愛と苦しみに希望を見出して笑顔になるのは嬉しい。でも良く言えば盲目にさせる恋のいじわると彼女の愛だけを求めほかの見返りを求めない純粋さに彼女を応援してしまう僕がいるのだった。ダニの心は一人ぼっちで寂しい、でもせめて監督の心の中を見せるダニだけでも幸せになってもらいたい、それが監督の幸せでもあるんだと思う。ダニ(監督)の死んでしまうような苦しみを沈める鎮魂映画なんだ。でもこの苦しみは終わらないし監督がずっと過去の苦しみに縛られているようにダニはまた苦しむはずだから、ダニがもしいるなら「わたしってほんとバカ・・・」ってちょっと笑顔で涙を流しながら言うかもしれない。ペレにすべて仕組まれていたかもしれない、でもダニは選ばれし適格者だったのだ。消えていく仲間たちはダニの不安を増大させる。病んでいく心は自我を崩壊させ闇落ちさせていく。天使になりたかった選ばれし少女ダニは魔法少女メイクーンという堕天使になり神話になるのだ。ダニの新しい人生はここから始まる。

紀元前XXXX年

「ダニ・・・君は自分を責めすぎている、優しすぎるだけなんだ。悲しみや憎しみはなくならない救いの無い世界に一人で答えを失って絶望した君がいることは忘れない。君が選んだ幸せが悪魔になるための契約だったしても、ただただ純粋な心で愛を求め闇の中をさまよい続けて見つけた場所なんだ。悪魔に魂を売るほど君が守りたかった愛があるんだから君のことを間違っているんなんで僕はいえない!!」

「・・・分かっているんだ、僕はもう邪悪だって。でも希望を信じた君をもう泣かせたくないんだ、笑顔でいてほしいんだ。神に逆らうことが世界の倫理に反して無意味でバカげて狂っていることだったとしても、君を邪魔するなら悪魔になってでも倒してみせる、愛を守ってみせる!」

「願いを叶えた代償が悪魔・・・もう人の心さえないのか・・・僕のことがわからなくなったんだね・・・でもいいんだ。何も伝わらなくても分かってもらえなくても。ただあなたを守りたい・・・。僕は知っているんだ。君の魂が壊れるほどつらくて悪魔になる選択をしたけど、それって誰もできない選択をして強くて勇気があることなのかを。その強さと儚さに僕は泣いて震えそうだよ。地獄でも天国でも、一人は怖くて寂しいよね・・・。だから一緒に行くよ・・・ダニ。」

伝説の失われた古代の地、ホルガ。苦しみの果てに愛のために王女メイクーンという堕天使になった、儚い切ないダニのおとぎ話という神話。

ダニーーーー(´つヮ⊂)ウォォ

みたいな 笑
英雄伝説も不条理なカタルシスがあるけど一般的にはそこをあまり気づかないしそこをあまり見せないのかもしれない。人類の歴史が不条理の連続だったように神話も不条理だらけのはずなのだ。でもそこがロマンだから世界中の人がアニメを見ていて聖地巡礼とかするわけで。だからアリ・アスター監督がアメリカに無い日本の文化や思想にロマンを感じるのは英雄伝説とも似ているのかなと思ったりした。邪悪な不条理のカタルシスって悲しいときに悲しい曲を聴くようなもので悲しさを受け入れて喜びに変えるプロセスなんだと思う。悲しさと悲しさを共感させることが重要で深い理由は必要なくて、それはホルガの人が薄っぺらい共感だと思われるのと同じ理屈なんじゃないかなって思う。本当に理解してもらっていない共感なんて嘘、不誠実と思うかもしれないけど不誠実でも悲しいときに悲しんでもらうことが喜びになるんだと思う。それをもしかしたら不条理で不誠実な共感、邪悪な共感というかもしれない、でもそれでいいんだ。それが人間なんだと僕は映画から学んだ。でもだから表面的に共感することの何がいいの?という理論に流されるときもあるかもしれない、でもそのときはミッドサマーを思い出して考えたい。悲しさを共感できていないんだ、僕の何か大切なもの、ロマンや伝統、歴史を裏切っている気がすると。もちろん気持ちの度合いによってバカにしているとか、わかっていないって思われることはあるけどそれでも必死の気持ちがあれば相手も分かってくれるし心を開いてくれるじゃないかなって思う。気持ちって伝わるんだよね。だからロジカルシンキングばかりしている人とか政治家が町おこしに農業体験とかいいだして、いいんだけどもっとロマンがあることすればいいのにって思う。聖地巡礼とか何かストーリーを提供してロマンを共有できることをするとか。ストーリーがないとロマンないし。ミッドサマーから町おこしまで話が広がりすぎた 笑

今回映画のエンディングの曲は失恋ソングだけどキリスト教の悲しみと希望の入り混じり残酷なことでも喜びに昇華させるという曲に僕はアニメのエリフェンリートのオープニング曲を思い出した。映画のエンディング曲より悲しいけど綺麗な曲である。主人公の状況は純粋でかつかわいそうでありながらとんでもない残虐性もあり、それを受け入れ浄化するかのように僕には聞える。
ちなみにエリフェンリートのオープニングに出てくる黄金色の絵はグスタフ・クリムトというアーティストの作品でそれにアニメを融合させたパロディになっている。

Abertura Elfen Lied- legendada em português

最初からダニとクリスチャンはペレではなく妹から狙われていた説 でもそれは妹の姉想いの愛の導きかもしれない

よくペレが全部仕組んだという話がある。ペレを良く思えばペレの宗教を知ってもらうことでダニの心が癒されるとただ思っているだけで騙そうなんて思っていなくて最初から仕組んでいないと思うこともできる。悪く考えると仕組んだようにも見えるのだ。何が妹の仕組んだことなのかということ徐々に説明していこう。

次の仮説から妹が真犯人説を言いたい。


・ダニはホルガ村を受け入れやすい心の準備があった
・クリスチャンはホルガに行く前から犠牲者になることが決まっていた
・妹の死に隠されていること、それはヘレディタリー妹の継承。すべては妹の予定通り


ダニはホルガ村を受け入れやすい心の準備があった

ダニの家庭にはホルガ村のような花柄や色の模様があり、母親はホルガ村の人と同じような白い服を着ているように見える。そして両親が死ぬ前の睡眠中のシーンに花の冠のようなもの置かれている。このことからダニーはホルガを受け入れやすい気持ちはある可能性はある。もしかしてこれはペレの仕業なのだろうか?自然に考えると外部のものが部屋の内装まで変えることはできないだろう。つまり妹や母親がホルガの宗教を信仰していた可能性がある。ペレに洗脳されているという可能性もあるが、妹の死がダニーを導いたという路線で考えたほうがいいのでは?というのが妹の死に不思議なことが隠されているからだ。

クリスチャンはホルガに行く前から犠牲者になることが決まっていた

ホルガ村には誰もが行けるわけではなく選ばれた人しかいけない。選ばれた部外者と性交をしていたとすると最初からペレ自身は悪意がなく犠牲者にすることを画策していたのかもしれないと思えたりする。
さらに村ではしらばくしてペレの妹が静にクリスチャンたちを見ているシーンがある。そのあとにクリスチャンは性交するマヤに選ばれるかのように突然蹴りを入れられる。これはペレが妹マヤのためにクリスチャンを村に呼びたくてクリスチャンは犠牲者として最初から選ばれていたか、マヤがクリスチャンを見たときに犠牲者として狙いを定めたと思えるがそれでも邪悪でない一応普通なクリスチャンが死ぬ理由が薄すぎる。しかし前作ヘレディタリーと同じであれば村に来る前から決まっていたという流れが正解といえなくもない。すべて妹の予定通りであれば、すべて決まっていたという世界にしないといけない理由が映画にはあり自然に思えるものがある。

クリスチャン達を見つめるマヤ↓

出典:IMDb

気のせいかクリスチャンもマヤを見ているようにも見える↓


マヤの不自然な蹴り↓

一応ホルガは非人道的ではないという視点なのでクルスチャンの意向を確認するために老人が話す。クリスチャンが死ぬことになるとは隠しているとしたら最悪だけどそれが村の習慣で当たり前ならかわいそうだけどしょうがいない。これも妹の用意したことだろうか?

ヘレディタリー妹の継承。すべては妹の予定通り

ここまでならダニの妹と家族の死もペレのせいなのだろうか?と思うのは普通だろう。しかし実はダニの死んだ部屋のカーテンの模様はスウェーデン人アーティストで自殺したアヴィーチー(Avicii)のロゴにそっくり。これを完璧主義者の監督がたまたま使ったとは考えづらい。
ミッドサマーは2019年7月3日に公開されアヴィーチーはwikipediaによると2018年4月20日に亡くなっている。

アヴィーチー(Avicii)のロゴ↓

アヴィーチー↓

そして妹の顔はホルガ村の木々にも現れていることは多くの人が知っているだろう。まるで呪いが続いているかのようであるが、妹が見守っているとも言える。監督は前作通りならたぶん呪いや悪魔とかを使っているようで使っていないはず。


そして最後のヒントがダニは幻想で死んだ両親と妹をメイクーンになったあと見ることになる。これはもうダニはホルガが自分の求める家族だと思ったという意味だろう。
ちなみに父親の目がおかしくなっていてちょっと怖い 笑
もしこれがヘレディタリーと同じであれば死んだ人の継承ということなので、精神疾患は呪いのように継承されヘレディタリーの死んだおばあさんの予定通りの世界が展開される。つまり精神が弱っているダニの家族がいて、妹が死んだ後に妹の思惑通りペレに妹の野望を達成させるためにダニに近づいてダニたちをコントロールしホルガに誘い込んだということかもしれない。この場合は妹がホルガのことを知っていた何か関わりがあったということである。
それが部屋の壁の花模様や花の王冠があったことからも筋が通るのである。
それでも妹の予定通り路線とは別にそれでもやっぱりペレがすべて仕組んだのか?という路線もあるがホルガ村でダニが幻覚で家族と出会ったり、妹の顔が悪魔か呪いのように森に出ていたりすることを考慮すると妹にコントロールされているんだよ、といった映画のメッセージはのほうが強い気がする。
そしてアヴィーチーのロゴのことも考慮する死を喜びに昇華している映画からは死んだアヴィーチーが報われる意味があっても不自然じゃない。アヴィーチーもダニーを導いているようである。監督がアヴィーチーのファンかどうかはわからないが映画製作をしてスウェーデンについて調べている中でアヴィーチーのこと知ってアヴィーチーは完璧主義で繊細な感情の持ち主らしく精神疾患で自殺して世界中のファンが震撼したのだ。監督も精神疾患から自殺という映画を作っているのと繊細と完璧主義も共通する部分があるからアヴィーチーに自分を重ねて泣いたんじゃないかと思った。監督は泣きやすいって言っているから。可能性だけどありえる話だと思う。死で始まり死で終わることが喜びへの昇華ならアヴィーチーは天国にいけたのかな?と思ったりもする。ちなみに名前はAviciiはサンスクリッド語のAvici(無間地獄)らしく、仏教の最も苦しい地獄の場所。ダニーの妹の死んだ気持ちやダニーの絶望感が壮絶なものだったんだと思わされる。

妹と母と父のシーン↓


比較のため生きている時の家族↓

なぜコントロールされた世界でダニが生きるのが幸せなのか?

実は妹が導いた話でコントロールされているという不安を残し自由の無さの恐怖を感じるが、ダニーとっての本当の自由はコントロールされた世界なんじゃないかと思う理由には監督のインタビューと無我の境地という視点で考えるとちょっとそんな気がしてくる。


「ダニーは狂気に堕ちた者だけが味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」


自殺まで考えたと思うダニが絶望のどん底、狂気に堕ち、死を喜びに昇華する不条理で美しいカタルシスだ。でもそれだけじゃなくてダニはコントロールされていることを知らず生きていく、それは完全な自己のない逃れられない共依存関係で考え方によっては無我の境地。無我の境地は社会や思想、周りに影響されて変わっていく自己ではなく「自分がない」というもの。すべての人は「自分」に縛られていて思い通りにならなくて苦しむ。無我の境地に行くとジェンダー問題、過度なポリコレ、白人至上主義などなどで悩まされることはないだろう。現在の問題は解決してしまうのだ。自由であってコントロールされていることを知らないダニにとっては本当の意味で自分がない悩みがない無我の境地で天国なのかもしれない。自己の確立を要求され、嘘でも自己肯定感を高く求められ個人の自由がすべてすばらしいという現代社会、特にアメリカ人には日本人より自由を感じず怖かったに違いない。明るくて普通に見えるのに心の底では自己肯定感がとんでもなく低い人ほど努力していたり静で冷静だったり、相手のことを考えて優しくなったり。それって監督なのかも・・・。美人に自己肯定感が低い人が意外と多い気がするのも相手のことを考えている周りのことを考えているからなのではと思えてくる。自己肯定感が無駄に高いアメリカ人がテキトウな人が多いのも無駄に自己肯定感の高さを求めることは本当にすべて大切なことなのか?という意味にもとらえられるかもしれない。
まぁそんなことを考えながらたぶんメッセージとしては過度な個人主義を見つめなおしては?という意味なのかな?と思う。ただどの宗教も運命論ではないけど、宗教には教えに沿って天国や地獄に行くというレールが一応あるわけだからミッドサマー全体はこれが宗教、信仰で悪魔の聖書かもしれないけどすべて決まっているんだと言ってるようにも見える。

そして監督はピエロを演じてきた人生があったと仮定すると、自分を誤魔化し自己から遠ざかることをし続け、それでも監督の気持ちをしらなくても周りは幸せだから何も気にしないことが幸せなんじゃないかという思いに到達してしまったのだろうか?まるで修行僧のようにピエロを演じて崇高な悟りの境地にでも辿り着いたかのようだ。だから監督を投影しているダニにも現代倫理がなじまないだろうから妹が導いて幸せのコントロールされる世界を提供をしたのかな?と思ったりもする。
面白いことに幸せがあるかもしれないと思いながらもしかしたらダニはコントロールされたことを知ったら悲しくてむなしさを感じるかもしれないと思ったりもする。監督は不安にさせるのが本当うまい 笑
だけど僕にはこの空虚・悲しさそして壮絶な絶望さえ美しいと感じてくる。

「シャボン玉がとばずに消えて、生まれすぐに壊れて消える。」

空虚である。
でも死を感じ生を感じディストピアでありながらもユートピアを感じる。たぶん日本の思想、アニメみたいなものだ。無意味なアニメと批判されたとしてもディストピアとユートピアの入り混じった美しさやロマンを感じるしそれから人類の歴史さえ感じる。エヴァンゲリオンやまどマギなのである。
無意味さを全力で愛せるなんて儚くて創造的な破壊があって人間らしくて無常で美しい。日本の美みたいだ。ロボットのように決められたレールの上を走るように決められた音符を狂ったように人間らしく奏でて最後は無になるみたいだ。パッと咲いてパッと散っている。ピアニストのフジコへミングが「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」と言ったのを思い出した。

そんな美しさも感じさせられながらも監督はたぶんずっと闇を抱えていると思う。誰もわかってくれないしピエロでいいやという気持ちと誰にも言いたくない気持ちを隠したままでは辛い気持ちは残るはずでずっと幸せになれないはずだ。
監督の心がギリギリのところを行ったりきたりしているからなのか恐怖と笑いというギリギリの表現がうまい。ただシンプルに魂が破壊されるほどの絶望を知っているわけでなくその絶望から解放されるかされないかギリギリのところを知っている。例えて言えば、やろうと思えば岸に上がれるのに溺れるか溺れないかのギリギリのところであっぷあっぷしていつも死と直面している。死を直面しているから魅力的な納得できるみんなが恐怖する映画を作れているのかもしれないけど永遠に完全には癒されない、永遠に完全には喜び昇華しきれない闇を抱えて生きるようで悲しすぎる。
仮に現代社会やキリスト社会で言うと問題視されることがあったとしたら、ホルガが東洋思想があって、知的障害でも大切にされている近代文明から離れた村の土着信仰を描いた映画「神々の深き欲望」に監督が惹かれているのもわかる気がする。

狂いでしか救われない世界があるんだと僕はミッドサマーから感じてくる。現代社会は狂いを受け入れる成熟度はどこにもない。京アニ事件のように臭いものは蓋が一般的なのだ。ミッドサマーが今までにない映画だったように、おかしな話だけど狂いが崇高な芸術、文学、画期的な学問、豊かな想像力を生むことはあると思う。社会が受け入れないなら自分で切り開いていくのみというようにミッドサマーで狂いの芸術と文学を見せつけてきたようである。

監督が求める癒しの場所は映画であったり、精神病で自殺した心が繊細でもあっと思うアヴィーチーのような狂っていると思われる人なのかもしれない。死にたくても死ねないほどの絶望は死に直面することで癒され狂っていると言われるような心境なのだろうか。それがホルガ村の女性たちとダニの悲しみの共感にあるようにも思うし、表面だけの共感でもダニは少しでも自分の絶望感を共感してもらえて嬉しかったに違いない。

参考にした本

ミッドサマーがカルトかどうかを考えるのが楽しかったので「カルトと宗教の違い ミッドサマーはカルトではない」という記事を作った。

映画ミッドサマーから考えさせられた社会問題

フローレンス・ピューが面白かわいい!
参照:IMDb

友達に言われたこと

友達にミッドサマーが良かったとか言うと人格を疑うよーって言う人がいるけど、僕は全くそう思わない。僕は監督のように変わった人だというわけではなく監督とは同じだと全く思わないし、同じだなんておもったら監督に申し訳ないとさえ思う。例えて言うなら好きな気持ちを追いかけないと何が好きなのかわからない趣味さえないという状態になるのがわかるだろうか?感情はできるかぎり触れていないと枯れるのだ。悲しさや喜びに頻繁にアートや映画など通して触れるとその気持ちに敏感になるんじゃないかなって思う。でも人の気持ちを深く理解することはときどきあぶないとは僕は思う。例えば鬱の人の気持ちを理解すれば鬱になるということをきいたことがないだろうか?自殺者の気持ちを考えれば自殺する可能性がでたり、共感とはときどきあぶないことにつながるのだ。だけど何で僕がそれでも共感したいと思うのか、それは僕は共感しても相手に飲み込まれない自信とアートから学んだ経験があるからなんじゃないかと思う。例えばアートの多くはプロパガンダが含まれていてそのメッセージにただ共感してしまうと相手の思想に飲み込まれてしまう。それがプロパガンダアートなんだと僕は思う。だけどプロパガンダと知れたり、知識があったり、知識がなくてもまずは一歩ひいて考えてみることで相手に飲み込まれないように自分をコントロールできると思っている。でもほとんどの人がプロパガンダアートに気づかないで信じてしまうんだけど。歴史の勉強も同じく。例えるとコロナウイルスのいるところに防具服をつけないで近づいちゃうようなものかな。だから僕は鬱の友達と話しても、自殺願望の友達と話しても僕が相手の領域に入っているようで入っていないから鬱にも自殺願望もないんだと思う。それはバリアではないから理解することから逃げているわけではないんだ。でも自分のペースで理解できない状態になると相手に飲み込まれる恐れはあるだろうから危険ではあるかもね。笑
飲み込まれてダニの気持ちにもなれない場合は一生戻れない地獄に簡単に落ちそうだし、飲み込まれてダニの気持ちになれたら僕が想像できないほどのカタルシスだろう。でもまた浄化を繰り返すだろうから本当の意味で幸せにはなれないかもしれない。
あぶないけど深く知ることほど怖くて面白い 笑

でも好奇心だけでなくフリードッヒの海辺の僧侶(修道士)のようにもう無いものを求めてさまよわないといけない気持ちは誰でもあると思う。それは大切にしなければいけないもので想いつづけても答えがでない少し苦しいものだと思う。色んな例えがあるけど、過去の日本のために戦争で死んでいった人達や僕なら優しかった寿命で亡くなったおばあちゃん。生きているかどうかもわからない連絡が取れなくなった自殺願望のあった友達。それだけじゃないかもだけどなんか共感するんだ。悲しいし寂しいなぁって。変なことは言っていないと思うけど、その気持ちに敏感かどうかなんじゃないかなー。それがロジカルシンキングでは分かりづらいアートの気づかないことに気づく、自分を見つめる心と心の対話なんじゃないかなーって思う。
そうはいってもやっぱりダニみたいな心に傷があるんじゃないの、と思うかもしれない。だいたい精神に問題がある人って自分で問題があるなんて言わないしって。それは自分でもわからない。客観的に見つめるには時には自分だけで自分自身を見つめるのではなく他の人の印象も必要になるだろうから。一応友達には変なふうに思われたことはないけど 笑
なんかハマりすぎていっぱい考察してしまったかも 笑

ミッドサマーにカタルシスを感じながらもどこか不安が残る。そこについて自己分析を再度してみると、見えて僕の深層心理と男性の置かれている社会問題の苦しみについての記事メンヘラで何がいけないの?

映画に出てきた気になるアート

ダニが悲しんでクリスチャンと寄り添っているシーンで出てきたアート。

左側のアートはフランティセック・クプカ(Frantisek Kupka)のThe First Step
つまり「最初の一歩」だ。
抽象画を作成した人らしく抽象画は見る人によって大きくとらえる意味がことなる絵だ。
僕にはタイトルが「The First Step」ということで、最初は何でも未知の場所、二つの月があることから別世界、パラレルワールドという二つの存在の意味もあるんじゃないかと思った。
もしくは人には二つの側面があるんだ、一つは正の側面、もう一つは負の側面。負の側面は誰でも拒絶したいので認識されていない場合があり、でもこの負の側面がある限り人は心に病を持ち最後には傷つくということ。これは常識だと思うことでも実は負の側面が隠れていて、負の側面に気づかない限り僕たちはどんどん傷ついていく、ダニのようにということかもしれない。暗い月のように傷つく心を癒す最初の一歩は表面で輝いている月だけを見るのではなく愛を持って接するということなのではないだろうか。さらに左側のスタンドライトの上下から光が出て二面性を表わしているかのようだ。村上春樹の「1Q84」にも月が二つでここで説明したことに似ているように思う。

また別世界、パラレルワールドととらえる場合でも映画には合っている。映画では上下さかさまになるし、キリスト教と異教徒の話になってくるからだ。

もう一つの右側のアートはムーパンという人が作成した作品 A Yeren is Leaping Forward(野人は飛躍している)のようだ。ムーパンは映画の最初のオープニングの左右に開く絵も作成した人らしい。人間の頭を持つ小さな犬が赤ちゃんを抱いた女性を追いかけているように見える。さらに女性の爪は長く人間なのか鬼なのかわからない。漢字では「野人熟女」と書いている。監督はたぶん野人熟女という名前には意味を感じていないと思うけど絵では意味を感じているだろう。まるでダニが追いかけられ追い詰められ逃れられない場所に行き心は体が引き裂かれそうになるほど傷つくことを暗示しているかのようだ。現代の倫理感では普通の人間のすることではないことをしてしまうダニに、鋭い爪からはダニの最後の決断は現代の倫理感で言えば鬼や悪魔にでもなるかのような意味があるかもしれない。また西洋アートでないことも西洋と東洋の対比だと言えるだろう。

たとえ結末が不条理のカタルシス、悪魔のような話であってもダニにとっては幸せでしかないはずだ。それにしても不気味なアートだ 笑

そしてスタンドライトは下側だけが明るくなっていることから上の二つの月と同じような意味があると思う。今はまだ明るいでも徐々に暗い側面が姿を現すといった感じ。
グーグルは女性の体に厳しいと思うのでグーグルポリシー違反のことを考えて一応モザイクをつけた。モザイクがなくてもアートだしエロくないし、むしろモンスターみたいにも見えなくもないけどね。

出典:MuPan

もう一つ気になるのが中央上に飾られている絵

こちらもMu PanのMu Pan’s Dinoasshole Chapter 8 という作品で巨大な恐竜が見境無く殺し、小さい恐竜も巨大な恐竜を引き裂こうとしている。上のMuPanの作品と同じようなことが言えるかもしれない。これから間違いなくこれからダニとクリスチャンの間に起こる破滅的な展開と、ダニの体を引き裂くような心の苦しみと味方は誰もいない絶望に向かっていくような意味があるように見える。誰も味方がいないのはダニだけではない。結果的にクリスチャンも味方がいなくなるのだ。最後に噛み殺したのはダニなのである。しかしそれでも混乱している世界には誰が間違っているという判断は難しいのである。殺しあっているのに誰も悪くないなんていったらおかしいだろうけど、人類の歴史は異文化、異宗教の違う愛を守るための戦いだったのだからこの絵は本質を見せ付けているようにも思えてくる。それにしてもこのMuPanという台湾人はすごい絵ばかり描くなぁ。

撮影場所

海外サイトRedditにハンガリーの撮影された場所をグーグルマップで特定している記事があった。2ヶ月しか期間がなくセットは全部作ったらしい。

出典:Reddit

引用されているgoogle mapは冬で真っ白で本当に撮影場所なのかわからないけど一応撮影場所らしい。空港の近くなのでハンガリーに行ったら是非とも記念に撮影したい 笑

Google Map

イザベラ・グリル

性行為をする女性はイザベラ・グリルというスウェーデンの駆け出しの女優らしい。駆け出しでもショートビデオとかにメインとして出ていたりスウェーデンのホラー映画Svartklubbにヒロインで出ているっぽい。スウェーデンでは有名なのかな?これからアメリカ映画にもたくさん出てくる可能性を秘めた女優だろう。
日本ではモザイクがたくさん入っているらしいがモザイクをかけてなくてもエロくないしモザイクがないほうが不気味さがあるかもしれない。たぶんみんな滑稽に見えて笑うシーンなんだよね 笑
クルスチャンのチ○コはデカイし赤いたぶん血がついている。
神聖な儀式なんだけどみんな歌いだしちゃうし、異文化って理解を超えていてなかなか受け入れられないものだ。ダニにとって吐いて呼吸困難になるぐらい絶望だけどね。
性行為をなんでもエロいと思うのは勘違いで、例えば日本のエロも西洋では芸術として扱われるものがあるように西洋の感覚と日本の感覚は違うのだ。だからおそらく西洋の人は性交に芸術性を感じる人が今回いると思う。

ショートビデオMORD! MORD! MORD!
ちょっと気持ち悪いけどシュールな動画だ 笑

スウェーデンのホラー映画Svartklubb

ミッドサマーとは関係ないけど歌手のケイティ・ペリーがメイクイーンみたいになっているMVがある。

Katy Perry – Never Worn White (Official)

またラトビア?のTautumeitas(タウトゥメイタス)女性グループ。

Raganu naktisという曲を歌って踊っている様子はホルガ村のようだ 笑
Raganu naktisはリトアニア語で魔女の夜という意味らしい。

Tautumeitas – Raganu Nakts
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