【感想・ネタバレ】ボーダー 二つの世界 トロールのことを知れる新しいタイプのトロール映画

現実にあるおとぎ話でマイノリティが映画のテーマ。主人公ティーナとティーナに顔が似ているヴォーレはトロール。映画は北欧神話からアイデアを得ているようで北欧神話を少し調べてみるとトロールは変身できる妖精のようだ。巨人で怖いようなトロールのイメージがあるのに北欧には色々なトロールがいるようで映画のようなトロールもいるというのだと思えてそこは良かった。他の映画では殺されることが多いトロールなのにこの映画ではトロールの生き方を見せてくる。裸で森の中を二人のトロールが走り回るのも裸で湖で泳ぐのもトロールだからなのだ。動物を愛し動物がいることさえもすぐに察してしまう。こんなトロール今までにみたことがないので新しいトロール映画だと思う。鼻がきくためその能力を活かして税関職員として生きるトロールのティーナと人間社会が嫌いなトロールのヴォーレのマイノリティな愛の物語。ちなみに北欧の妖精ムーミンもトロールである。

裸で森の中を走り周り裸で湖で泳ぐトロールの二人

出典:IMDb

鹿が道路を渡りたくて木々に隠れていることを気づき車を止めるティナ。

キノコ狩りをするトロール

出典:IMDb

ポスターからも分かるようにトロールは動物に囲まれ自然に囲まれて生活している。人間よりも動物を愛し動物を理解している妖精なのだ。

トロールは光に弱いらしくティーナのこめかみにある傷は光によって傷ができたようなのでトロールだということを言っている。トロールが光に弱いなんて僕は知らなかった。ネットを調べてみると光に当たると石になるらしい。

北欧にはトロールの顔に似た石が実際にたくさんあるようで映画のポスターでも石がになっているポスターが使われている。

北欧ではトロールが人間の赤ちゃんとトロールの赤ちゃんをすり返ることがあると信じている人がいるようで映画でも人間社会、人間を憎むヴォーレが人間の子供をすり返ることをティーナに放す。驚いたことにティーナは女性かと思えば男性でヴォーレが女性なのだ。ティーナとヴォーレのセッ○スではティーナの股間からトロールのチ○ポが生えてくる。トロールのチ○コをはっきり見たことは僕は今まで一度もなかったので驚いた 笑
どんな映画でもトロールのチン○は作られていない気がする。ニョキニョキと伸びるポ○チンはムーミンのニョロニョロにも見えたり見えなかったり。ニョロニョロの手のようなものはなかったけど。

そして最後は「ぐあああああ」と雄叫び?みたいなことを言ってセッ○スが終わる。それにトロールの出産も初めてみた。ヴォーレは出産した後に気絶してしまう。
ヴォーレが人間の赤ちゃんをすり返るために産んだ赤ちゃんは実は赤ちゃんでなく赤ちゃんに見えるトロールの未受精卵。未受精卵は長生きできないので取り替えられた赤ちゃんは死んでしまうことになる。

ヴォーレによってティーナは人間に嘘をつかれていることを知り父親と思っていた人も父親でなく本当の両親は死んでいることを知り、ティーナは染色体の異常で変な顔になったと思っていたがそれも違うことをヴォーレから知る。そしてティーナが自分がトロールだったことを知り葛藤が生まれる。

ボーダーというタイトルの通り、人間社会には人間の知らない一面が実はあってそのボーダーを気づけない人がたくさんいるということを映画では言っていると思う。アメリカの映画でも盲点を気づけないことを皮肉っている映画ブラインドスポッティングや映画Usというのはある。しかし映画ボーダーがアメリカの映画と違うのは北欧の閉鎖社会にある人同士の見えていない境界をおとぎ話を通して見せていると思う点だ。日本人の僕にはわからない感覚が北欧にはあるようでネットを調べていると北欧ではトロールは存在すると思う人もいるらしくキリスト教に影響を受ける前から北欧神話が存在しトロールなどの妖精は人間社会に重要な要素をもっていると考えている人がいるみたいだ。映画は監督の経験が元になっていることを英語記事では語られている。監督がイラン出身で北欧に移民して苦労があったことがを見ていてわかってくる。たぶん北欧の人がなかなか想像しない監督のアイデンティティに対して誰も本当のことなんて見ていないと監督が疎外感を感じ、幸福で自由な国の北欧のイメージとは違い悪いことも良いことも透明すぎる北欧が監督を生きづらくさせたのかもしれない。僕が聞いた話しだと北欧ではビジネスをしてお金を稼ぐことをあまり良いと思わない人も多くいて自由があるようで自由が無い、そのため北欧スタイルの自由と透明性が合わない人は苦しいと思う人もいるかもしれないらしい。映画が見せる閉塞感は北欧にある透明性と疎外感と不自由さが組みこまれているのだと思う。

ヴォーレがティーナにいう「僕たち生き方は難しい、大変なんだ。」そしてティーナが「でもそれって綺麗だよ」というのは監督の言いたいことが反映されている思う。一面だけじゃなくて見えないところにはいろいろなことが隠されている。北欧で生きようとした監督はイランで入るときの監督とは違う見られ方生き方があり閉鎖的な北欧ではそれが見えないんじゃないかと思ったのだと思う。そのため原作に沿っていたとしても監督の北欧の苦しさもティーナに投影してるんだと思う。居場所がないと葛藤するティーナ、北欧で居場所がないと葛藤する監督しかもイランでも検閲が激しく居場所がないとしたんだと思う。

記事によると監督はアウシュビッツの生存者プリモ・レヴィの言葉を引用している。
「モンスターは存在する、でも彼らはものすごく少なくて本当に危険だ。もっと危険なのは”一般の人”という機能で質問をすることなく行動し信じる準備ができる。」

つまり固定観念、普通という思い込みが真実を見えなくさせているということだと思う。普通は想像力を欠如させ表面しか見えない人になってしまう。空想さえもしない人が多い世の中では映画ボーダーのように神話トロールを現実のものと見ることは出来ないだろう。想像力がある国には新しいものが生まれていると思う。iPhoneだってインターネットだってアマゾンだってアメリカから生まれているしヨーローッパのアートや映画は同じような作品が多いアメリカ映画より面白いものが生まれていると思うし昔に日本だって想像力は豊かだったんじゃないかと思う。ドラえもんやアトム、ガンダムなどはとてもクリエイティブなものだと思うからだ。普通の人は空想しないというのではなく空想できる心の余裕とクエイティブさを身ににつけほうがいいのかもしれない。効率ばかり求めている効率バブルな現代では大切なものが見えなくなっていきがちで盲点を叫ぶ時代って現代社会がピークなんじゃないかなと思う。効率主義と平和に甘えた環境がますます物事を見えなくしお金のことしか考えない人が多くなる。古代ローマでさえ平和が続いたせいで自分のお金のことしか考えない人がふえ腐敗し滅んでいくことになる。歴史は繰り返すのだ。

「みんなちがって、みんないい」、そんなことは分かっているしかしみんな違うことを受け入れて国がまとまることが難しいのだ。分かっていてもやらないできない人、会社は多い。フィリピンは英語ができるようになった国だけど英語ができるできないによる貧困格差は広がりまとまりがある社会ではないと思う、アメリカは多様性がある国だけど言語レベルによる格差が広く、収入格差にも繋がっていく。まとまりがある国ではない。多様性だけどまとまることができない国では問題を多く抱えてしまうのだ。そこにも想像力が必要になってくると思う。

そして監督はインタビュー

「私たちのアイデンティティがしっかりしているとは思わないし、私は一人でなく3人4人いて、デンマークにいるときはデンマークバージョンになるしイランにいるときはイランバーションになる。それらは混ざっていなくて平行であって、このアイデンティティは現代の状態なんだ」

と言っている。

世の中一面しかみられない人はたくさんいる。いろんな人種がいるアメリカでさえ黒人、白人とわけて韓国人、中国人、日本人をまとめてアジア人といって違いもわからない人はたくさんいる。日本人にも田舎と都会の両方で長期間住んだ場合はそれぞれのアイデンティティがあって日本人にもいろいろいるというのが見えない人は日本人にもいる。これは現代の問題だし知識や経験が必要になり誰しもが考えられることではないと思う。なぜなら中国に行ったことない人が中国人それぞれの細かな違いはわからないと思うし、同じ日本人でも日本国籍の韓国人がいたり多様な一面に気づかない人は多い。さらにアメリカでは表だけじゃなくて裏もあるというけど裏だけじゃなくて右も左もあるんだという部分が見えない人が多いと感じることから監督がいうアイデンティティはいくつもあるというのは納得がいく。特に西洋の感覚であれば善と悪と分けがちなのでそれだけじゃないというのが見えない人は多いんじゃないかとも思う。
それに一面しか見られないことの原因に現代では情報が多すぎて少数派の意見が隠れてしまうというのもあるかもしれない。大多数の意見は強いため少数派だった人でさえ大多数のほうに流されたりする。AKB48が地下アイドルとして始まり、テレビアイドルに負けないようにしていたと思えば結局人気がでるとテレビアイドルみたいになってしまうように昔の気持ちさえも変えられてしまう人達が多いと一面しか考えられないようになってしまいがちなのかもしれない。
また現代でクリエイティブシンキングが重要と言われているようにロジカルシンキングだけでは一面しか見えないというのと映画のコンセプトは似ている。映画に筋が通っていないと納得できないと思うだけでなく想像力が必要なのかもしれない。

結論からいうと映画ボーダーは個人的にはあまり面白くなかった。北欧神話の設定はいいんだけど中二病的な話が好きなため現実世界にトロールがいるという設定なのにあまりファンタジーを感じさせない映画はつまらなく感じてきた。監督はファンタジーを作りたいわけでもないし現実社会に非現実と思うことが存在するという魔術的リアリズムを見せたいというのもインタビューから分かってくるが、僕にとってはトロールは現実にいるものとは思えないしファンタジーでしかない。トロールが現実にいるんだという北欧の気持ちのバイアスがかかっていると思うので僕はトロールと聞くともっと中二病的なファンタジーを見たかった。現実は現実を見せないことで現実が見えてくることがある。風刺などは誇張表現で普通ではありえないものを見せることで現実味がででくる。それを監督のやりたかったことで言えば魔術的リアリズムではあると思うのだけど、ファンタジーを取り除いてしまえば現実味が逆に薄まってしまうんじゃないかなと思うのだ。現実には様々なファンタジーがあり神話や伝説やお化けを信じる人もいるようにファンタジー要素は現実に必要不可欠だと思うのだ。だから今回の作品は現実味に欠けたと個人的に感じた。裸で走り回る衝撃シーンはあるけどどこか殺風景というか人間の想像をくすぐるものをあまり感じなかった。

テーマである見えている世界だけでなく実は別の世界があるんだよ、というコンセプトはいいんだけどそのような話は当たり前すぎて世の中に多すぎるのでひねりをいれてほしかった。監督は英語記事によると

「ぼくのエリ 200歳の少女、で有名な作者の作品をベースにしていて自分主義的な部分と神話を組み合わせた深い物語りであり、愛と美と道徳の中に新しい領域を作り人間とモンスターであるということは何が違うのかを考えさせることを見せていて、映画はおとぎ話と言え、神話や民間伝承のメタファーは非常に単純であふれたもの、それにもかかわらず鋭い人間の問題を見ることができる」

と言っているが僕にとっておとぎ話とはもっと残酷さがあり恐怖があり人間の悪魔的な部分や大人が忘れている何かをに気づかせてくれるものだと思う。だからこそ大人がおとぎ話を見ても考えさせられるところがあり、おとぎ話がずっと語られ続けられる理由だと思うのだ。おとぎ話はそのまま映画にすると面白くないことが多く現代に合った構成にしないといけないと思うのにそれが映画ボーダーは薄いんじゃないかなって思う。例えはジブリの借りぐらしのアリエッティは1950年代の小説が元になっているけど現代風に作り直されている。神話や宗教は難しいといってもファイナルファンタジーはたくさん現代風に神話と宗教を含めて作り直している。しかし映画ボーダーはただの見えているだけがすべてじゃないというテーマの暗いおとぎ話で終わっているように思う。つまりエンタメ要素をあまり考えていないんじゃないかと思うのだ。なんで「ぼくのエリ 200歳の少女」が面白かったかというと、社会で見捨てられている人の愛と怒りが渦巻き、見た目がかわいい子供がヴァンパイアという設定で中二病でも楽しめ、怖い部分もあるのに切なく、まさかホモ要素も含めているとはと驚かされLGBTで騒ぐ現実社会に突き刺さる壮絶な生き方を描いたおとぎ話という名の神話であり伝説のようなものなわけだ。北欧の閉塞感もありホラー要素もあり少年少女の恋愛物語。「ぼくのエリ 200歳の少女」は北欧が見せる新しい視点のヴァンパイアというエンタメ要素があったから社会的なメッセージがあっても面白かったのだ。僕エリでは重要なシーンにぼかしがあったが、ぼかしがあろうが無かろうが内容が面白かった。それが映画ボーダーには欠けていると感じる。トロールはかわいい顔していないのが北欧神話だけどあえてそこはそのステレオタイプのような境界線から抜け出してかわいい顔のトロールがいてもいいんじゃないかと思ったりもした。かわいい顔を期待している視聴者が多いからかわいくない設定にしたんじゃなくてたぶんトロールの神話通りのかわいくない顔にしたんじゃないかなって勝手に思っている。エンタメ要素のを含むトロールではかわいい顔をしていることが多い、例えばドリームワークスのトロールズはかわいいしムーミンもかわいい。

もちろん僕エリとボーダーには共通点がある。北欧の閉塞感、現実と幻想をつなぎ合わせ人の思い込みを覆す内容という点だ。しかし僕エリは文学的といより見て楽しいものだった、一方ボーダーは文学作品が好きな監督の世界観が現れていると思うので僕エリよりファンタジーでなく現実を見せている。

映画ボーダーにはキツネとコミュニケーションを取ろうとするティーナの姿がある。キツネからティーナに近づき話したそうにするのだ。そこには現代の人が忘れかけている自然の住人のキツネと気持ちを共有できるトロルの神秘性があるのかもしれない。しかし僕ら日本人には「ごんキツネ」という話がありキツネとだって気持ちは共有できると西洋の人よりも思っている人はいるんじゃないかと思う。その結果が温泉猿などを誕生させてしまった日本なのだ。自然と人間社会との共存させようとするのが日本で、人間社会に無理にでも合そうとするのは西洋のペットの世界を見るとわかってきて、日本のペットの世界とは違うと僕は思っているのだ。人間社会に無理に合わさず共存させようとするのが日本社会であり、たぶんそのため僕はティーナがキツネと気持ちを共有できるからと言ってあまり神秘性を感じなかったのだ。それに綺麗な森がたくさん出てくる映画ボーダーだけど、自然から離れ文明社会に身を置く人間と自然との対立のような意味もあるかもしれないけど、そうはいってもそれだったらもののけ姫のほうが面白いと思ってしまう。しかもジブリのトトロは北欧のトロールがモデルとかいう話があったりするから本当かは知らないけど、日本だと自然と調和した世界観はそこまで驚かずに受け入れてしまうんじゃないかと思う。そういうこともあってたぶん日本は自然万物に神々が宿り人格化させてしまう日本独特の宗教観があるのでそこまで映画ボーダーの自然との繋がりにすごい!と思えなかったのだ。北欧の人にとっては日本がボーダーであり神秘なのかもしれない。

また監督はインタビューでシュールレアリズムに興味があるとも言っている。シュールレアリズムとはどういうものかというと下記のようなアートの世界。

現実にないような別の世界を見せるアート。過去のルールや制限をとっぱらって新しい次元でアートを作った作品だ。監督が見せたかった見えているものだけがすべてではないというのと意味合いはあっているんだけどシュールレアリズムのほうが見た目も面白く現代でも通じるアートであるからエンタメ要素も含まれていると思う。シュールレアリズムが好きならそういう超現実を取り入れた既成概念を取り払ったエンタメを作ってほしかった。なんで映画アスが面白かったのかという理由の一つに今までにない既成概念を越えたホラー作品だと言えるからだと思うし、「ぼくのエリ 200歳の少女」も今までになくホラーも含んだ社会性があるエンタメ作品だったからだ。だから僕エリが面白かったからレビューに僕エリが楽しめた人は映画ボーダーも楽しめるだろうというのを信じたらガッカリするかもしれない。僕エリの監督と映画ボーダーの監督は違うのだから見せ方が変わるのは当然。僕エリを楽しめたから今回も楽しめるだろうという思っている人は僕エリを見ていないのか、楽しみ方が違っている人なのかなんじゃないかと思う。映画Summer of 84でもストレンジャーシングスが楽しめた人は楽しめたに違いないと評価したレビューサイトはいくつもあったが、最初の雰囲気を除いてストレンジャーシングスとSummer of 84は違っていた。映画ボーダーは監督がたぶんエンタメを求めていないんだと思う。だからよくある映画じゃなくてかなりのマニア向けの作品になっていると思う。

映画ボーダーは芸術性が高いんだと思う人もいるかもしれない。アートとして見た目の芸術はポスターなどを見ても良いと思うんだけど面白いかどうかというのは話が違うと思う。

監督の好きな魔術的リアリズムとは伝説や神話などを現実にあるものとして表現することで監督が好きな魔術的リアリズムの有名な作者ガブリエル・ガルシア=マルケス(Gabriel García Márquez)の有名な本「百年の孤独」では

「しばらくそのまま。これから、神の無限のお力の明らかな証拠をお目にかける」
そう言ってから、ミサの手伝いをした少年に一杯の湯気の立った濃いチョコレートを持ってこさせ、息もつかずに飲み干した。そのあと、袖口から取り出したハンカチで唇をぬぐい、腕を水平に突きだして目を閉じた。すると、ニカノル神父の体が地面から十二センチほど浮きあがった。この方法は説得的だった。」

といった現実ではありえないことがおこりファンタジーにも見えるけどファンタジーじゃない現実として書かれている。超常現象を通してリアリズムでは表現しきれなかった感情や感覚を見せる。現実を表現するには神などの信仰心をもってこないと表現しきれないとも言えるようなロジカルだけではないんだというテクニックなんじゃないかと思う。信仰に厚い人の例だと幻想的なことは現実に起こりえると思うからである。非現実を見せるシュールレアリズムではない。それはアニメで言えば顔が歪んだり、目が点になったり現実にはないことが起こり現実よりも現実的な感情を伝えているのと似ている。そのようなテクニックが映画ボーダーであればよかったのだけどトロルが現実にいるという話だけではリアリズムでは表現しきれないトロルがいるかもしれないという話だけでは感情を揺さぶるようなことにはならないんじゃないかと思った。トロルがいる時点で非現実な話ではあるのだけどトロルがいることで感情表現に使われているかというとそうでもない。魔術的リアリズムは現実を見せることだけではできなかった感情を揺さぶるテクニックなんだと思うからそういう感情を揺さぶられる何かがほしかった、明らかな超常現象を持ってきて感情表現をするのに使うとか。

映画のコンセプトは面白いんだけどもっと「あっ!」と驚くものが欲しかった。普通の性別、人種という考えは一面しか見ていないステレオタイプの考えだ、というのはいいんだけど、どこかスウェーデンの閉鎖的な考えが見え隠れしているように感じてくる。閉鎖的な北欧で宗教離れが進んでいるらしいけどアメリカで宗教離れが進んでいるのとは大きく違うんじゃないかと思う。宗教が人に見せていた神の声が聞える、神に遭遇したなどという魔術的リアリズムを感じなくなった人が多くなるとすると映画ボーダーは神話さえも信じなくなってきた社会に特に北欧に対して非現実は存在している、昔の北欧の人達のほとんどが宗教を信仰していたようにというメッセージもあるのかもしれない。アメリカではすでに性別を越えた人たちは存在していて見た目は女性でも心は男性、男性になりたくてなったけど心は女性がいいと思う人、女性の格好をしたゲイの男性かと思えばただの女装おじさんでそれを受け止める社会、ちょっと前まで女性だと思っていたら突然男性になってくる人、自分の体をキャンパスにしてモンスターのような見た目に改造したアートを作ってしまう人、結婚を動物とした人、悪魔を信じている人、男性でも女性でもないと思っているサードジェンダーで日本で言えばXジェンダー、複数の異性と性的関係を持つことをよしとするポリアモリー達、神を信じている人や男性から女性になったけどチ○ポは取りたくない人などいろいろな人がいるから性別を越えても非人間でもアメリカだとあえりそうと思ってしまうし宗教関係の映画は未だにアメリカでは物議が起きる。そのうち悪魔と結婚した人とか悪魔になった人とか言う人が出てくるかもしれない 笑
今までの善悪なんてすぐに壊れるのがぶっとんだアメリカなのだ。

そのためアメリカは理屈や理屈を越えて見えないことや知らないことあるという考えを受け入れる土台はあるのだと思う。何がいいたいかというと映画ボーダーは物足りなさを感じたのだ。なので映画ボーダーを見て僕のものの見方がかなり広がったかというと「うーん」と悩んでしまう。もっとぶっ飛んだ話だったら面白かったんだけど思ったより普通。例えていうなら昔の映画を見るとあまり刺激がなく普通に見えるようなもので、映画ボーダーのような境界を見せても胸につきささらなかったりするんだと思う。異質で見たことなくて今まで気づかなかったことに気づくというわけではないのだ。たぶん日本が同質社会で北欧も独特な同質社会だと思うので同質社会からすると映画ボーダーは面白い視点だと思うけど、アメリカと比べると映画ボーダーの異質を表現しようとする表現方法が物足りなかったんだと個人的に思っている。もちろん上で説明したように一応、動物が身近にあるのが日本だというのも動物と仲良くなれるからといって興味深く見れるわけでもなかった。映画Usや映画ジョーカーのようなアメリカの現実にあるボーダーを見せるアメリカの作品に比べても映画ボーダーはパッとしない。せっかくならナウシカみたいに生き物達を味方にして動物と人間の対立とかになればアニメみたいだけど面白かったのかなぁって思ったりもする。アメリカのカラスもリスもよーく人間を見ていて人が気づかないだけで僕たちは動物達に観察されていると僕は感じるど、ナウシカやもののけ姫好きの僕にとっては自然と人間の対立はボーダーを見せるだけより面白いテーマだ。だから映画見た人の価値感によってすごいと思うかどうか変わると思う。あともっと北欧神話と北欧のことを知っていれば楽しかったのかもしれないけど。そんなアメリカでも黒人と白人問題などの人種差別は未だに盲点だらけだけど。
ちなみにアメリカだけかわからないけどキリスト教の神はベジタリアンだ!と考える人もいてそんなこと考えたことがない日本人が多いと思うので日本人には映画ボーダーの見えていることだけが正解ではないというメッセージは突き刺さる人はいるのかもしれない。

監督の過去のいくつかあるショートビデオを見てみるとSFでもなくファンタジーでもない作品でドキュメンタリーのような現実にある一面を見せている。そしていくつかのショートビデオを見ていると男女の関わり、絡みから何かを伝えたいのかなと思えてくる。トロールのセッ○スとポ○チンをどうしても表現したかったんだと思えてくる。そこに生き物の神秘が生き物の本質があるとでもいいたいのだろうか。そうだったとしてもあまり面白いものではない。

Shelleyという出産ホラー映画も作っていてトレーラーを見ただけだと音は怖いけどそこまで怖く感じなかった。デンマークの静かな部分が反映されているからか物足りなさが僕にはある。出産ホラー、トロールの出産、キスシーンがメインの短編映画のように僕につきささるものがあまりない。監督は視聴者のことを考えて作っているのか謎なのだ。本人の表現したことのために映画を作っているようにも見えて映画が好きの作品にはなかなか見えてこない。僕の気のせいだろうか?

監督の見せる多様性は見たら衝撃を受けるチ○ポと出産映画という珍しい映画だけにチン(珍)映画だったけど人が見たくもないもの、慣れている世界観だけでは多様性ではないだから見たくもないものかもしれないけどこれが現実であり多様性なのだというのはわかる。僕エリだって慣れ親しんだ要素があったから面白かった。ヴァンパイア、かわいいキャストなどなどのエンタメ要素。
ボーダーは全く慣れ親しんでいないトロールのいちもつを見せ付けてくる。それを多様性というがしかし、多様性には見なくいい、慣れしたしんだもののほうがいいという人を受け入れる考えも多様性なのだ。不思議なのがそんなこと言わなくてもなんでも受け入れる嫌なことももと言えば犯罪者も、不法移民もどんな人も受け入れることが多様性なんだよっていうのカリフォルニアにいたらわかってくるが、監督はイランの多様性のない文化に嫌気がさしているようなのでイランに対しての皮肉を込めた作品としてはボーダーは良いと思うけど、イランがどれだけ検閲があるのか北欧がどれだけ狭い世界なのかというのが身近に感じないから僕が監督の置かれている状況になかなか共感できなく、さらにエンタメ要素があまりないと本当にただの「ふーん」で終わっちゃっている気がする。

話にきいたところ北欧で現地の言葉が話せない場合はあまり相手にされないことが少なからずあるらしい。イランから移住した監督が体験した北欧の疎外感とイランのキスさえも検閲対象になる表現できない苦しさが映画ボーダーにはある。しかし僕はファンタジーを現実として見せ付けるよりファンタジーとして見るほうが好きだ。

監督がインタビューでいう「日本のゴジラが好き、ハリウッド映画のゴジラはただの怪獣映画になっている」
ここで思ったのが海外でシンゴジラが人気がなかったようにゴジラは日本人にとって受け入れやすいサブカルで生まれた民話のような話で親しみがあるわけだ。それと同じく北欧の人にもトロルは親しみがあり古くから信じてきた神話である。そういう部分を理解しないとゴジラもトロルも楽しめないじゃないかなと思う。僕は北欧のことをあまりしらないからなぁ。

境界を見せ付けてくる映画ボーダーからは僕はそこまで見せ付けなくてもいいんじゃないかなーと思うところもあった。例えば原作では見せていないものを映画で見せ付けてくることで想像で楽しめた部分がなくなりつまらなくなると思う。例えばホラー映画黒い家は僕にとって面白くない映画だった。しかし原作は面白いのだ。見せ付けないことで想像のほう恐ろしく、深くただ見せ付けてきた映画よりも恐怖するのである。
もちろん尺がなくて映画では足りない部分があるのかもしれないけど、原作で話を面白くするために説明されることがいくつも抜けているのだ。

人それぞれ想像は違い受け取り方が違う多様性に映像で見せつけることで人それぞれのイメージを抱けなくなる。その多様性が止まることは何なのかというと、宗教の信仰で言えば信仰心を傷つけることになる。なぜなら信仰により生まれる様々な神秘は見る現実には起こらないことが多く、想像による各個人の経験から神秘体験をするのだ。その想像からかけ離れたものを見せると反感や人を傷つけることになるのだ。信仰心なんていう慣れ親しんだ世界をぶち壊し、これが現実だ!と見せ付けることはできる。でもそれは信仰心を否定してケンカしているのと変わらない。多様性は否定する人も含めての多様性だけど慣れ親しんだ信仰心を持つ人も含めて受け入れるのが多様性なのだ。もし否定や破壊する人ばかりだと多様性はなくなっていくと思うし文化さえなくなってしまう。信仰心じゃなくて好きな趣味趣向でもいい。それらの趣味趣向の世界観と合わないものを見せ付けることで多様性を見せ人との境界を知らしめることはできる、でもそれは本当に文学的で人の心に突き刺すような話だったのだろうか?と思うのだ。想像力ほど多様性な世界はないと僕は思っているし想像力ほど人の心に突き刺すものはないと思っている。人間が持つ能力の一つなのだ。映像ですべて見せることも多様性だけどそこには限界がある。限界のあることとしての多様性だって受け入れることはできるだろう、しかし限界を感じた後に人はむなしさや悲しみや閉塞感を感じると思う。行きつく先は絶望なのだ。表現の自由が規制され神秘やファンタジーを規制され政府が必要とした現実しか描けなかった戦争時にうまれたのが政府に反抗する気持ちも含め夢を描いた作品があった。それは監督がシュールレアリズムなのだ。表現できないことにいつの時代のアーティスト達は絶望し政府に反抗するために表現をし続けた。現実しか見せないことの先にはいつか現実だけを見せようとするだけでは現実を表現できないということに気づくと思うが、それを感じないのか興味がないのか、監督は現実を見せられなくて現実にこだわらないといけないと強く感じさせたイランの文化という環境があったからこそ今回のボーダーのような作品になったのだと思えてくる。トロールの話は現実なのだ!と無理がある話だけど現実を見せることに飢えている監督の強い気持ちを感じる。そこはものすごく評価したいところだ。

面白いことに中世の芸術家に現実を見せつけようと奮闘した人がいる。過去の信仰が厚い時代と現代は大きく違い中世の時代は信仰の世界以外を想像して絵に書き出すことも許されなかった。有名な人でカラヴァッジオという人の作品だ。彼は当事、力を持っていてたキリスト教の考えとは反対するような絵を描いていたためなかなかキリスト教に認めてもらえなかった。下記の作品は教会に認められているもののカラヴァッジオの宗教嫌いがテクニックに表れている。倒れたパウロが手をのばしキリストの声を聞いたシーンである。しかし周りの馬や人に何も伝わっておらず奇跡なんて起こっていない状態を見せている。天使もキリストも描かれておらず神秘に溢れた作風より現実を見せる作品を描いたのだ。けっして面白い神秘的な世界でなく色使いとか光の具合やレオナルドダビンチのへ尊敬が溢れているという点が面白い点だ。

このように検閲が激しく現実を見せ付けることさえできない時代には現実を見せつけたいといいう欲求が高まるのだと思う。これは監督の現実をみせたいという欲求に似ている。イランの自由を締め付けられる環境を知っている監督は見せ付けることで自由という多様性を見せる欲求にかられているかもしれない、でも日本や日本より自由がいきすぎているアメリカの世界だと自由すぎることは不幸を増やしているという見方はでき、なんでも見せつけることはよくないと知っている人は多い。自殺の増加、銃乱射の増加、教育格差は広がりそこに想像力があるのかと疑いたくなるのだ。自由すぎて想像力が欠けた世界がアメリカなんじゃないかなと思えてくる。もちろんすべてのみんなが当てはまるわけではない。自由すぎて想像力がないから差別はなくならず、銃規制もできず、自己中心的な人が増えていくのだと思う。想像が人に恐怖を与え震え上がらせときには幸せにしクリエイティブな世界を作りそれがエンターテイメントを作ると思う。これらの視点からボーダーを見ると物足りなく感じてつまらないのだ。カラヴァッジオのように数々のテクニックから権力者への皮肉が込められているのがあると気づければ楽しめるんだけど、単調な光加減は現実っぽいしワクワクさせてこないのも現実的なのかもしれないが、監督の好きなシュールレアリズムの作品をリスペクトしたようなテクニックが使われているかというと僕にはわからなかった。監督へのインタビュー記事によると監督はルイス・ブニュエル、シャンタル・アケルマン、ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィの作品に惹かれているとのこと。僕はこれらの監督の作品を見たことないけど色々調べてみるとルイス・ブニュエルは夢の世界を見せるシュールレアリズム映画を作った監督、シャンタル・アケルマンは映画に色々な意味を持たせ、アートや宗教など様々な事柄を現代に重ね合わせて実験的な試みをしてきた人らしく、またジュゼッペ・パトローニ・グリッフィはエロと愛とセッ○スと闇、同性愛を見せた作品といった感じだろうか。
僕はインタビュー見てから映画を見たからか、監督が興味がある影響を受けているという作者のような特徴も映画に見せていると少し期待したのだけどそういうのはあまりなかった。

ルイス・ブニュエルの作品例

シャンタル・アケルマンの作品例

ジュゼッペ・パトローニ・グリッフィの作品例

映画ボーダーにはルイス・ブニュエルの手首出たり蟻が突然出たりといった摩訶不思議なシュールレアリズムはないしシャンタル・アケルマンのフェミニストやらメッセージ性の強い作品という点では股間の描写は意味はあるだろうけど惹き込まれるほどでもなかったしジュゼッペ・パトローニ・グリッフィのエロという点ではトロールのセッ○スは描かれていたがそこにエロを感じるかというとそうでもない。同性愛というメッセージはないけど多様性という点ではそいうものも考えさえられるが他の監督へのリスペクトより皮肉を込めてイランで規制になりそうなチ○ポを見せつけてこれでどうだ!とイランにうんざりしている監督のメッセージにも見える。でもなんか「ふーん」で終わっちゃうのは僕が検閲のひどい社会を知らないからかもしれないけど、そんな社会への皮肉より僕エリみたいな衝撃が欲しかった。

多様な人がこれからは多くなると言われる日本ではスウェーデンのような独自の幸せと独自の閉じた世界感に共感した人も多いのかもしれない。境界に気づかない人が多いというのは多様でないからというのは一つの理由だ。例えばアメリカでは多様な人が多いせいか境界をはっきりと分けたがる、分けている人が多いと思う。どこの国から先祖が来たのかに強く拘り多様であればあるほどいろんな情報に埋もれてしまうので、逆に明確にしていきたいという気持ちが起きるんじゃないかと思う。それが行き過ぎて分断を生んじゃっているんじゃないかと思うのもアメリカの問題だと思う。バランスは重要なのだ。

さらに詩的な文学映画かと思えばそうでもない。詩的な魔術的リアリズムやシュールレリアリズムを見せ付けてこないし、東洋的な詩的センスがあるかというとそうでもない。北欧のことがわからないからなのかな、現実として見せ付けてこられたからか詩的な部分を感じ取れなかった。

詩的と言えばタイプの違う詩的な映画として二つ例にあげると「エンドレス・ポエトリー」や日本の詩的センスを見せる「世界の涯鼓動」などがある。それらと比べてもどう詩的としてとらえればいいのかわからなかったのが映画ボーダーだった。

裸で森を走り回り湖で泳いでもそれは現実であり不思議なものでないという見方をしなければいけない。なぜならファンタジーだけど監督は現実を見せようとしているからだ。つまり僕にとってノンフィクション、トロルのドキュメンタリー映画みたいな感覚なのだ。不思議なものととらえられなかったら美しい詩的なものとは感じられなくなり奥深さが薄れていく。
ポスターは綺麗で詩的な雰囲気もあるのだけど映画ではこのポスターみたいなシーンは出てこない。石になっているティーナということだと思うけどこのあたりの説明もないのでどう解釈していいのかわからなかった。ティーナは石になって死ぬのだろうか?原作で石になるって動けなくなるのだろうか?それとも北欧にある数々の岩がトロルに似ているということでトロールはいるというただのメッセージだろうか?

実験映画としたら面白いことだけど。まぁここまでいろいろつまらなかったと不満をいいながらも、ここまで考えさせられたことは意外とよかったのかもしれない。

それと人間の見た目で裸で走り回るトロールには驚いたしトロールのことを知れるのはよかったけど、ふと思ったのがトロールは裸で走り回るのがトロールのセ○クスに含まれているのならドリームワークスのトロールたちも裸で走り回るの?ドラクエのトロールも走り回るの?と思ったりした。いやいやトロールにはいろんなタイプがいてムーミンみたいな大人しいトロールもいるから裸で走りまわるトロールばかりじゃないのかもしれないけど新しい視点だ。そもそもムーミンは裸だけど。ドラクエのトロールやドリームワークスのトロールたちがもしいたら、アメリカなら素直に受け入れてしまうんだろうなぁと思ってしまう。ぼくのエリ 200歳の少女が新しいヴァンパイアを見せたことと同じく新しいトロールを見れたのは良かった。だからこの映画は難しいとか芸術的とかいうよりたぶん北欧の人はトロールを信じている人もいるからトロールはいるんだ!というメッセージを楽しめたんじゃないかなーって思ったりもする。つまりムーミンは本当にいるんだから、いないなんて言っている人は間違っている!というメッセージにも見えるのだ。ムーミンっているんだよ?というのは可愛いけど。悪魔を信じる人はたくさんいるのにムーミンは信じられないのは、信仰と貧困から悪魔を信じる人は世界にいるけど、神話のトロールはローマ神話より一般的な信仰とかけ離れていて現実離れしすぎているようでどうしても信じられないという壁ができてしまう 笑
ムーミン実写版として見るとちょっと面白く感じるけど。

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