ブスが美人になろうと努力する人は多いかもしれないがなんでただ自然に生きることを辛いと思いながら生きなければいけないのかと思うことがある。
僕もいわゆる日本のかっこいいと言われる見た目に合わせようと思っていたことろもあった。みんな同じような見た目だけどかっこいいってそういうものなのかな?と思っていた。
毎年のトレンドを追いかけるのも大変なのにそれは必要なことなんだと思っていたけど、アメリカに来ると全くそんなことはない。
みんな何着ようが気にしない、気にしてもたいして気にしていない、ブスの定義が日本ほど厳しくなくて日本だとブスになりそうな人も普通に何事もなく生きている。日本のブスは普通に生きられていないんじゃないかと思わされた。人は普通に生きる権利があるはずなのに普通に生きられないなんておかしいじゃないか。
ただ普通に生きたいだけなのに、今でさえブスやオタクなどを馬鹿にされるのが当たり前のようにある日本は本当に誰もが普通に生きられる社会なのだろうか?
後で困る可能性があるのにコンプレックスが強くなってガッツリ整形したり、流行を追っていなければ馬鹿にされたり、厳しいマナーもしっかりしないといけないと怒る人がたくさんいたり。なんでそんなに一生懸命に画一的な決まりを追いかけないといけないだろうか?
政治家は既成改革はするのに美意識や文化などの概念の既成改革はあまりされていない、むしろ悪い方向にアップデートされて年々厳しくなっているんじゃないのかと思うことさえ思う。
美意識のアップデートといえば韓国や中国の文化がたくさん入ってきて彼ら彼女たちの美意識やマナーも入ってきて日本人に影響を与えている。ファッション雑誌のビジネスを否定するわけではないが韓国や中国の画一的な美意識は成熟した民主主義の先進国としては全面的には肯定できないんじゃないだろうか。
どんな髪型だろうと服装だろうと、どんな趣味があろうと別にいいと言えることが当たり前なんじゃないかと思う。日本のゲームオタクのアメリカのクラスメイトはマリオの柄のTシャツを着ていたりするけど、日本だったらそんなTシャツを来たら馬鹿にする人はいると思う。別に好きなんだから何でもいいんじゃないの?って思うのに。
何でもある程度のルールは必要だけどあまりにも強い画一的な美意識やルールは民主主義的だろうか?全体主義や悪く言えば独裁的、ファシズムにも考えは近くなるんじゃないかと思う。
日本は成熟してないんだ、と決めるのは簡単だけど成熟した民主主義のアジアのリーダー国だと思うから普通に生きることぐらい普通にできる社会にしてもらいたいと思う。
発展途上国の人と話しても日本はすごいと思っている人はたくさんいるけど、日本の悪いところもあってアジアのリーダー国と自信を持てるかというと、どこか躊躇している気持ちもある。その一例が見た目の問題なのだ。
見た目を気にする問題は物理的な人の見た目や厳しすぎるマナーだけでなく性格にも影響を与えると思う。真面目に善人でないといけない、善人を演じなければいけないという気持ちからユーモアやなんでもない冗談やちょっとふざけた話しも言えない空気さえある。特に政治家や年齢の高い人は変なことを冗談でもしないししている人をあまり良く思わないだろう。
僕は変というのは大切だと思う。なんでも面白いもの笑えるものには何か変なことがあって「それおかしい、あははは」ってなる。それ頭おかしいでしょ、変人でしょ、狂ってるでしょ?っていうことにも面白さがあるのに誰でもそんな一面はあるはずなのに真面目なことしか受け入れないのは本当に良い社会なのだろうか?だから日本人はおもしろくない人多いって外国で言われてたりするわけだと思う。日本のコンテンツは面白いものが多いのに人が残念。見た目がじゃなくてその考え方が残念。もちろんアメリカにはポリコレのせいでユーモアも言えなくなっている部分はあるけど。
普通に生きたいだけなのにブスが生きようと本人に合わない美人の基準に合わせて結局後で疲れて落ち込んじゃう。ブスをブスというのも何を持ってブスなのかという話もあるけどあくまで日本の基準でのブスの話だ。もっと気楽にみんな生きられたらいいのに、みんな自分で自分の首を絞めているように真面目に何も文句を言わず厳しいマナーや見た目を守っている。
アメリカだと笑顔はマナーだけど笑顔のないビリー・アイリッシュもそういう人だと受けいれる土台はあるのに日本だとちょっとマナーが変なだけでものすごく文句を言ったりする。
約束の時間に1分遅れたっていいと思うのになんでそれを怒るのか、1分ぐらい遅れることを怒ることが日本人の魅力を下げているのが分からないのだろうか。
こういうこというと1分も遅れるのはいけない、っていう人はいるかもしれないけどそれがおかしいと思う。そんな過度な厳しさが生きづらくさせているんだと思う。
世界中の人が普通に生きてるように普通に生きたいだけなのに日本では厳しい基準を普通と思っている人が多い。
普通な自由を知らない人は普通に自由に生きることを知らないんじゃないかと思う。
普通に自由に生きようとしなければ普通の自由では生きられない。例えば退職して第二の人生を楽しむと高年齢になって意気込んでも、今まで何も自由に好きなことをしてこなかった人が突然自由に好きなことができるかというとできないはずだ。体も動かなくなっているはずなので出来ることは若い頃と違い少なくなっている。
これと同じように普通に自由に生きることをしなければ普通なんてわからないと思う。日本にだけいると流行を追うのが普通と思う人が多いだろけど、それは普通を知らないのだ。自由を知らないからルールのがんじがらめが普通と思ったり、不細工やオタクを馬鹿にしたり誰も自由に生きることべきだと気づけない。
普通の自由を知らない人ばかりの先輩や年配やトップだとしたら、そりゃ世の中普通でなくなるし、ついていけない人が出るのも自然だと思う。
この状態に道徳があると言えるだろうか?押し付けているだけじゃないだろうか?個性の破壊をしているかのような厳しい画一的な美意識が思考の欠如をもたらしたり、まるでロボットのように従順な人間を作り出しているんじゃないかと思い、どこか危険性も感じるし人間らしさの欠如も感じてしまう。普通な自由について知っている人が増えれば生きやすい社会になるんじゃないかと思う。
そんなこというとアメリカのほうが普通じゃない、アメリカは暴動もあって銃の乱射もある狂った世界じゃないかと思う人もいるかもしれない。でもアメリカは世界の中でもダントツに自由な国なのは間違いないので悪いことも貧困も含めて自由だということだ。それは生きるのが厳しい一面もあるからもちろん全面的にアメリカが良いとは思わないが、色んなことが日本の場合は厳しすぎるんじゃないかと思う。他国のいいところを取り入れればいいのに商品は取り入れても良い概念はあんまり取り入れられていないのかな、って思う。韓国の見た目を極端に意識する悪い概念はビジネスを通して取り入れつつあるのにアメリカの見た目を気にしない自由さは取り入れられていない。そんなことしたらビジネスにならないからかもしれないけど。
だからビジネスしか考えない経済発展しか考えない社会はおかしいんじゃないかと思う。