日本のサラリーマンは疲れた顔をしているというのは偏見、思い込み、勘違いだろうか?
日本旅行をしたことのある海外の友達が日本のサラリーマンについて話したことがあったので、日本と海外を比較しながら僕の意見を述べたい。
さらに下記のブログ記事を読んで考えてみた。
僕の結論から言うと少なくとも「日本の電車内のサラリーマンは目が死んでいる傾向にある」と思う。
理由は3つある。
<理由その1 海外の友達からの意見>
日本旅行をしたことある海外の友達3人(フィリピン、アメリカ)に日本のサラリーマンの印象を聞いて見た。そうすると、電車内の印象は「静か」「暗い」「人が疲れているようにみえる」だった。
初めて日本旅行した友達たちなので、第一印象は自国との雰囲気を比べたはずである。
どう具体的に違うのか?
日本だと電車内は静かにしなければいけない。さらに電話はしないように言われている。
他国で電話や会話をするのは普通だ。
日本国内の電車内は静かにしなければならないという、強い責任意識が働いているのだと思う。強い意識は集中力を使う。気づかないうちに疲れが顔に出ているのかもしれない。また人によっては静かにしなければいけない、という強迫観念さえ感じるかもしれない。それは息苦しさを感じる原因の一つだろう。
<理由その2 僕の体験>
僕はシンガポール、台湾、アメリカで電車を乗ったことが何度かある。
シンガポールと台湾がけっこう前の話なのでちょっと覚えてないが、言えることはどこの国の人も携帯を見ているの人は多いは一緒だけど日本と雰囲気はやっぱり違う印象を受けた。
たぶん理由としては気候が日本と違うこともあると思うが、ものすごくパワーを感じた思い出がある。(パワーといっても、僕はパワースポットとか全く興味を持ってないので、そういうことではない。また宗教的なことでもない。)
夜外に出て見ると、サラリーマンに限らずたくさんの子供、家族と思われる集団などが外食をしている。僕はただ彼らを見ているだけだけど、ものすごく彼らから力を感じた。ガツガツしているというより、元気、イキイキしているという印象を受けた。
このイキイキしている印象が電車内の雰囲気の違いとして現れているのではないかと僕は思う。
そしてアメリカの場合、驚くことに電車内やプラットホームででダンスをしている人がいる。ダンスが終わるとお金をもらうために電車内の人たちに声をかけながら回る。さらに電車内で隣同士になった人の会話をするケースが日本より遥かに多いと思う。僕も何度か話しかけられたし、他の人もよく話している。人にはよるけどそれぞれがしたいことをしている印象だ。
中には疲れているような人もいるけど、全般的にため息が聞こえてきそうな日本の電車内の印象とは違う。
さらにお年寄りや障碍者にすぐに席を譲る。この違いは電車内の雰囲気の違いに現れていると思う。
<理由その3 海外記事>
海外の日本に対する記事はたくさんあるけど、ピックアップしたのは下記の記事。
この記事によると、日本はものすごく働く文化だと言っている。もしこの記事の通りに過剰に働くことが日本の文化だとすれば、日本のサラリーマンが死んだ魚の目に見えるのもわかる気がする。
次の参考にした記事は海外の人の日本に対するステレオタイプな記事にも見えるが、海外では見ることのできない光景だということで参考にリンクを貼った。
僕が受けるサラリーマンの印象はそのサラリーマンによって違うから、僕が日本のサラリーマンがみんな死んだ魚の目に見えるといっているわけではない。でも僕の上記の3つの理由から、少なくとも日本のサラリーマンは疲れている人が多いのではないか?ということは疑問視できるとは思う。その結果、違う感情と体や精神のコンディションの違う人から見ると、死んだ魚のような目に見えるサラリーマンがいるのだと思う。
この意味は疲れている人は相手のことをそこまで気づかえないし、相手の状態に気づきづらい。疲れてない人は相手の状態に気づきやすい。例えば、指導すべき監督が疲れていては、いいチームにならないだろう。
ゲームも同じで、疲れた状態で格闘ゲームをしても判断が鈍り負ける。感じるべきもの、見えるべきものが見えないから負けるのだ。このことと似た内容で「東大卒プロゲーマー ときど」という本で以下のように書かれていた。一部引用。
「ベストパフォーマンスを維持するには、身体を鍛えることが必須なのだ」。
僕の考えも含めて説明すると、身体を鍛え、休息しっかりとらないと判断力が鈍り、負けるということで、それはベストパフォーマンスの人が見る社会は違って見えるということだと言えると思う。
死んだ魚の目に見えるという意見は、死んだ魚同士では見えない、死んだ魚になっていないコンディションの人が見ると見えることなのだろう。イキイキした人からはパワーをもらうのは頷けると思う。自分の感情は相手が自分を見たときにどう感じるかの印象に反映されるのだ。そして一人のサラリーマンが疲れていても、死んだ魚の目に見えることは問題にしないだろう。つまり死んだ魚の目の人が多いのだ。
アニメキャラクターやゲームキャラクターが成長し輝くように、生きたぴちぴちの魚の多い社会と言われる日本になってほしい。僕がアニメや映画が好きなのは、それらからは無意識にも現実社会では感じない力を感じ、無意識にも元気づくからなのかもしれない。
そしてアニメやゲームは日本の現実の社会を生きる僕たちの憧れる生き方が反映されているのかもしれない。
参考にした本