二重人格の話と聞いて期待したのは殺人やらエクソシストみたいな憑依系の展開だったんだけど、内容は全く違った。
僕にとってスリラーやホラーでもなく現代社会の問題を多重人格のジョナサンに投影した社会派な映画だった。
さらっと短くネタバレ。
最初ジョナサンとジョンは多重人格で時間が来れば入れ替わり二人はうまいこと共存している。ビデオを通して二人の一日の出来事をシェアする。
二人はものすごい近い関係であり隠し事はしない約束なのに、エレナという女性がきっかけで歯車が狂いだす。
ジョンもジョナサンも同じ体でお互いが好き隠し事をしない約束なのに隠し事をしてしまって嫉妬がうまれジョンはジョナサンの時間に現れて自殺をしようと試みる。一人の女性関係だけでお互いの愛が欠け親しいもう一人の自分を傷つけようとしだす。
ジョンのジョナサンへの行動はエスカレートしていき会社のデスクはめゃめちゃにされ自宅の部屋もめゃくちゃ、ジョナサンの時間の間にジョンがでてきて何度も自殺をしようとするがジョナサンがぎりぎりのところででてきて自殺は止められる。
しかしドクターからジョナサンはジョンの滞在時間が変わりジョナサンの時間を侵食しようとしている、そしてジョンがジョナサンを乗っ取りジョナサンが死ぬことを知る。
そして気づくとジョナサンはタクシーにいた。ジョンが勝手にタクシーに乗っていたのだ。タクシーから降りて砂浜に座るジョナサン。それを心配するドライバー。
ジョナサンはタクシーの運転手にジョンにさよならって伝えほしいと伝え涙を流す。僕たちは幸せだったという。
ジョンにあらわれジョナサンがさよなら、そして僕達は幸せだったと言っていたことを聞く。
そしてジョンがタクシーに乗っているシーンで映画は終了となる。
とても近い存在と共存することには楽しさもあるだろうけど難しさもある。仲が良くても嫉妬が生まれれば疎遠になったりケンカの元になったりすることがある。現代社会は嫉妬が非常に多い世の中だと思う。フェイスブックでは自慢がたくさん見せられていたり、インスタグラムでは嘘も良く見せるためにみんな頑張って綺麗に写真を撮ろうとしている。現代の人間関係はとても嫉妬や愛に飢えた時代なんじゃないかと思うからこそ、ジョナサンの見せる関係性の維持の難しさと僕達の現代の問題が重なってくる。精神的に大人にならないと嫉妬により人を落とし込めたり大きな話では殺害したりという事件につながってしまう。ジョンは自殺をしようとするけどそれはジョナサンとともに死ぬことを意味する。ジョナサンをみち連れにしたんくなくとも自分本位の気持ちで人を殺してまう現実に現代社会にも見ることの残酷さがある。生きる、仕事、お金、結婚、彼女彼氏などはすべて椅子取りゲームのようでうまくとれない人は脱落、取れた人は生き残る。近すぎる存在は時には息苦しくもなるものだと思うからこそ潤滑油のようなものが世の中には必要なんだと思わされた。
仲がいいはずだったジョンとジョナサンは隠し事が禁止。でももしジョンが完璧にエレナのことを隠せていたらジョナサンが死ぬこともなかっただろう。親しい仲だからと言って隠し事はなしというのは相手を傷つけることにもつながることがあるということだ。親しい仲だから文句もいい放題や礼儀がなくてもいいというわけではなく相手を気遣わなければならないという親しい仲にも礼儀ありという教えにもこの映画は見えてくる。現代に欠けている考えだと思う。
この映画は現代社会の社会の縮図なのだ。
アメリカと中国では貧富の格差が広がり貧困層はいい気がしなく社会に問題を起こす。貧富の差を改善するのは難しいのだからなんでも公開、見せびらかすのはよくないんじゃないかと思う。世の中のみんなが精神的に大人な人ばかりではない。一億層中流社会という考えが日本には昔あったと思うけど、それが可能だったのはインターネットが発展していなかったからだと思う。貧困な家庭も貧困と思わないで生活基準を徐々にでも上げることで今のような嫉妬から来る犯罪というのは少なかったのでないかとたぶんだけど思う。これはある意味、貧困な過程への配慮であると思える。例えば日本には制服があるけど制服っていらない、子供はとくに嫉妬しやすいと思うからこそ制服はいらないトラブルを抑制する効果もあるだろう。僕は情報を国で操作する中国のような考えがいいとは思わないけど、精神に合った情報を見ないとよくない方向にいっちゃうと思う。それを防止するのが例が映画のレーティングシステムだと思う。国が出来ないなら親が子供の情報を管理したり、大人なら自分自身で感情をコントロールできるようにぶれない考えは重要になってくるだろう。
インターネットは人の気持ちをものすごく近づけた。それは素晴らしいことではあるけど使う人の気持ちがついていけないほどテクノロジーは発展している。新しいテクノロジーが仕事を奪うことがあるように新しいテクノロジーは人の本質を見失わしたり心も奪っていくんだと思う。
それとジョナサンとジョンは二重人格というのを隠しながら生活をしている。それが生きるのを難しくしていると思う。嫉妬が生まれることは隠す必要はあると思うけど、問題となること、不利なことは社会を改善するためにも表にださないといけないと思う。二人が社会に隠すことがもしなければ周りはサポートする人が増えてジョンの嫉妬も減ったかもしれない。
それにジョナサンが死ななければならなくなったのはかわいそうだった。ジョンが精神的に大人になっていないればこんな結末にはなっていなかったかもしれない。大人の感情と子供の感情を両立させることは難しいということもこの映画では見えてくる。よく学生から社会人として働きだすと学生の友達と話が合わなくなってくるという話がある。話が合わなくなると親しい仲だったとしても疎遠になりえるのは現実だと思う。ジョンとジョナサンに気持ちの不一致がなければ嘘をついたとしても自殺に追いこもうとするほどジョナサンとジョンは悪い関係にならなかったのでないかと思う。同じ体でも人格の違う二人は他人なのだ。ジョナサンとジョンがもし違う宗教観が違ったり片方が男性じゃなくて中身が女性になってしまっていたらもっと共存は難しかったかもしれない。
仏教には三毒というのがあり、愚痴、怒り、欲望というこの三つの人の根本的な感情をコントロールすることで人生は幸せにもなり、コントロールできないと感情は荒れて殺人にもつながるというもの。二重人格のジョナサンとジョンはこの三毒をどうコントロールするかを試される環境に置かれていたと考えられる。これは決して宗教だけの話ではなく私生活に密接な考えだ。身近なところで食べすぎると太るし病気になるというように宗教観は感情をコントロールする考えがある。アメリカで宗教観とお掃除をあわせた近藤麻理恵のコンマリメソッドが人気なのも掃除という嫌なことでも宗教観を通してお掃除を人生に大切なものにしてしまうロジックが現代のアメリカの人々が飢えている欠けている感情があるんだと思う。
この映画には社会派な一面もありながら純愛な一面も含まれている。それは触れ合うこともできない直接話すこともできないそれでも二人は大好きな存在なのだ。僕はこの純愛をただの純愛映画とは思えなかった。僕達はインターネットを使ってる。会ったこともない人、ネットを通してしか話したことない人、直接電話で話したこともない人というのは実際にどんな人もいると思う。仲が良ければ良いほどジョンとジョナサンの関係に近いと僕は思ったのだ。特に僕はアメリカにいてアメリカ時間で日本の人とやりとりしようと思うとジョンとジョナサンのように時間がきたら僕は熟睡、起きたらメッセージを見るという状況が当たり前にある。とくに国をまたいでの遠距離恋愛というのは難しく会えない、時間が合わずに直接話せない状況では約束が二人であったとしても守られないことなんて普通にある。世界では国際恋愛というのはどんどん加速していると思う。多くの人が留学し、英語で会話できるのは当然、仕事も国をまたいで転職し続けるというのも当たり前、そして遠距離恋愛の愛を育むには現代社会にはあまりにも誘惑が多い。国際結婚、国際恋愛には死を連想させる出来事を乗り越えてきた人は普通の恋愛より多いと思う。アメリカ人の彼氏があまり連絡くれなくなって日本にいる彼女は鬱になりつつあったり、分かれるんだったら自殺をほのめかしたり、遠い近い存在の人との恋愛は難しい。国をまたいだ恋愛では特にどんな人もジョンとジョナサンのように葛藤することだろう。もし僕がジョナサンとジョンのような多重人格者だったとして映画と同じような状況だったとしたら僕はジョナサンとジョンの恋愛に文句もいいたくもないし嫉妬もしたくない。会えないのだからお互いが好きなように恋愛すればいいと思う。それが相手のこと考えた愛だと思う。そして周りの人には人格のことは隠さない。なぜなら国際恋愛のように会えないなら連絡をとらなくなりて終わりにはジョナサンとジョンはできず自殺されたら僕も死んじゃう。同じ船にのっている共同体なんだからお互いがむちゃな気持ちをもたず理解しあわないといけないと思うのだ。地球は一個なんだ。だからこそ環境問題を考えるしみんな巻き添えで死にたくない。
映画ジョナサンはどう現代社会をうまく生きればいいのかという社会問題を考えさせる社会派な映画であり愛ってなんだろうって考えさせられる映画だと思った。
ちなみに僕はアンセルではなくかわいい女の子が同じ状況で葛藤するのを見てみたい。