僕は監督ヴィムベンダースについてよく分からないまま見てみた。誰なんだろう?どうすごいんだろう?何で注目されるんだろう?って思いながら見た。そして見終わって感じたのが東洋思想が含まれる映画なんじゃないかなーって思った。監督の意図は日本思想を西洋に組み入れ絵のアート作品のようなものを映画でつくり、極限状態だからこそ愛がきわだち、尊さを感じさせる映画になっていると思う。その説明と悪かった点と良かった点を一般的に言われていることと持論をもちいた独自考察と解説。
悪かった点
内容が分かりづらかったこと。ラブストーリー、スパイ、冒険、自然、テロリズムといろいろあるんだけどまとまっていないように感じる。映画としてはこういうのも有りだとは思うんだけど、エンターテイメントとしては分かりやすくないと受け入れられない映画になるんじゃないかと思う。アメリカのアマゾンでもイギリスのアマゾンではあまり良くないコメントが目立つ。さらにイギリスの信憑性の高いガーディアンでさえ評価が低い映画となっている。
ガーディアンの記事
そしてこの映画がなぜエンターテイメントとして他の映画と比べて面白くないと思われた理由は一般的なストーリールールに沿っていないからだと思う。
例えばピクサーが言うストーリーのルール、いくつか選んで簡単にいうと
・人の成長を見せる、それは試練であって挑戦。
・分かりやすい構成と目的がある。ストーリーに決まりがあって序盤、ハプニング、成長みたいない。
・主人公に弱さがある。弱いけど成長して姿に魅力を感じる
・深い感情を見せる。
・予想外の展開があって絶対に怒らないような面白いアイデアが詰まっている
・シンプルで分かりやすいストーリー
引用:6 Rules of Great Storytelling
世界の涯ての鼓動はシンプルではないし、人の成長というのがあまり描かれていない、主人公のジェームズとダニーがカップルになるための事件のようなことがインパクトのあることが描かれていなくて見ている側からすると何でこんなに中が良くなったのかわからない。視聴者の感情が置いてけぼりになっていると思う。予想外の展開も思ったほど予想外でないし申し訳ないけどアイデアが足りない結果、悪い評価が目立つんじゃないかと思えてくる。アイデアがたりていればどんな映画だって100%面白くなると思うからだ。面白くない映画、残念な映画はやっぱり残念な理由があってほとんどがアイデアが足りなかったか、手抜きか、自己満なんじゃないかと思う。またアイデアがあっても時代に合わないと面白くない。
この映画は頭が良い人じゃないと楽しめないという考えがあるけど僕はそう思わない。愛を海を通して語り遠く離れた恋人も海を通して気持ちが通じ合っているという愛の見せ方は面白いのだけど、それがストーリーのルールにほとんど沿ってないため面白い理屈を使った愛の見せ方がうまく活かされていない映画だと思った。
監督自身インタビューでどう映画にしていいか迷って映画化するのが難しい作品だと語っていることから映画ができる最後まで監督も悩み続けたのではないかと思う。監督が最後まで悩んでいては面白い映画にならないのもわかる。また僕は小説を見たわけじゃないけど監督が言うように映画化が難しい小説であるのに雇われたプロデゥーサーが30人ほどいて人が多いほど難しい小説は理解が完全にできづらくなって現場のスタッフもわかっていなかったんじゃないかと思う。いわゆるピカチュー映画のようにピカチューのカワイさが理解していない人が作ろうとすると怖い顔のピカチューになったり、ソニックの顔が全く理解していない人たちで作られてと思うことがあったり、ターンAガンダムのデザインはガ有名なデザイナーだけどガンダムを理解していない人が作ったとしか思えないデザインだったりもする。たぶん理解していない。
ちなみにハリウッドのピカチューは最初見たときは不快感があったけど今ではハリウッド式のピカチューもかわいく見えてくる。
このように映画ではみんなが理解して作るわけじゃないのでストーリーが難しく関わる人が多ければ多いほど面白く作ることはかなり難しくなるんじゃないかと思う。しかも難しい作品なのにライターが原作のJ.M. LedgardとErin Dignamという二人しかいない。これも原因だったんじゃないかと思う。
良かった点、面白いと思ったところ
ヒロインのダニーが語る内容が深いことがまず良かった。なかなかこの深さと映画の見せ方から西洋思想と東洋思想のようなものを感じた。この映画は西洋に東洋思想を取り込んだ多様性のようなものを見せていて、東洋思想を取り入れることで死んでもつづく永遠の魂、愛を見せている。
まず前知識として監督は日本のことが好きだということがある。
映画が難しく感じる理由は西洋思想に東洋思想を取り込もうとしているから表現が分かりづらくなっているのもあると思うが、西洋映画に東洋思想を取り込もうとするとやっぱり難しいんだぁって思わされた映画だった。ここでいう東洋思想とは日本のセンスのことである。
監督は1985年にTOKYO-GO というドキュメンタリーを作っていて東京、日本のセンスに興味を持っているのだと思う。またみどりの1kWhというページの記事にヴィム・ヴェンダースが美しかった・日本という写真を展示しているというのがある。監督のことを知らない僕でも監督はどうやら日本の好きのようだと思った。他には小津安二郎という昔の映画監督からも影響を受けている。
さらに世界の涯ての鼓動にはバーテンダーが日本のお酒をすすめてくるシーンがでてくる。これは映画内で日本の思想を含んだものを見せているという意味と考えてもいいんじゃないかと思う。さらにダニーは部屋の中で靴を履いていないシーンがあったのも東洋的だと思う。
そして監督はロバート。ホシシオというウィーン美術アカデミーを卒業しているアーティストに注目している記事がある。ウィーンは西洋のなかでは特別な死生観があると思う場所でそのウィーンにある美術アカデミーを卒業している特定の人に注目しているということは西洋と離れた思想に監督は注目しているのではないかと思った。しかもこのアーティストの作品を見るととても抽象的で悲しさも感じられる作品だと思う。とても印象派という感情面を見せる作品であると思うのに東洋的な作品だと思う。
出典:Numero
この思想も日本思想に通じると思う。ウィーン出身の古いアーティストといえばグスタフ・クリムトである。西洋の芸術にエジプトや日本の思想を取り込んだアーティストである。そしてこのグスタフ・クリムトの作品「接吻」は今にも底に落ちそうなギリギリな場所でキスをしていて、映画の死に近い極限の地と同じであり、「接吻」の男性が顔を隠したキスのシーンからは露骨に感情を見せないという東洋感を出しており通常西洋映画と言えばガッツリキスをするんだけど今回は映画で軽いキスで終わらせるのもこの「接吻」の男性のような感情を含む(東洋感)シーンを演出しているのだと思えてくる。
グスタフ・クリムトの作品↑
映画内の美術館のシーンの作品はフリードッヒの海辺の僧侶の世界観が映画に影響を与えている。フリードッヒは弟を事故で亡くし、本人も自殺未遂をするなど心に大きな問題を抱えた人物でなくなった弟への悲しみを表わすかのような暗い世界観があり本人の闇とも向き合うかのように人物を描いている。広大な空は無限や永遠を感じさせ一人の僧侶の孤独感を感じ、悲しみや辛さ、希望さえも感じさせてくる。これはディストピアとユートピアが合わさった作品であり、このセンスは日本のセンスにも深い関係があると思う。フリードッヒの感性は日本のアーティストも共感し影響を与えているため、海辺の僧侶には日本のセンスに似たものがあり、それは日本の寂しさと儚さと切なさと愛というセンスというものである。
フリードッヒの感性が映画には反映されているのだけど、それだけじゃなくて監督の日本好き日本思想への理解と西洋のセンスと合わせ海辺の僧侶のような世界観でありながら日本の死生観を明らかに含んでいる。もしフリードッヒの海辺の僧侶だけのセンスが反映されているなら映画はかすかな希望と大きな悲しさが溢れてくるに違いない。でもそこに日本感が加わると極限の美と永遠の美しさを際立たせることができ、海辺の僧侶の悲しい作品に極限と永遠の美しさが加わるのだと思う。それがグスタフ・クリムト「接吻」だ。
このように監督は日本のことが好き、興味をもっているということがわかった。
ネタバレしながら解説。
西洋と東洋の愛の表現では分かりやすい大胆さと静けさの中の愛というような感じでわけることが出来るのと、人へ直接伝える愛なのか心を共有しあう愛のシチュエーションなのかでわけることができると思う。それは人から感じることより自然、空気から感じる愛が東洋的だということだ。
ジェームズとダニーは会ったときからとても静かな出会いでお互いがデートをしているかのように歩いて海外に向かう。ジェームズは岩を触りまるで岩の命を感じているかのように共感する、ダニーは服を脱ぎ海と海に飛び込む。後でダニーが言う「私達はすべて水でできてる」というように、水を通して愛はつながっているという考えを示唆していると思う。言葉ではハッキリと愛を語らない二人の関係はとても静かな愛で東洋的。またダニーの水と愛というキーワードにはダニーは深く語らなくとも、人が生まれて死ぬを繰り返すという運命を海が繰り返し波打つ姿からも感じるというように僕には感じた。そして僕はそれは触ったら壊れてしまうはかないアート(エフェメラルアート)のようなもので風でなくなる砂アート、時間がすぎれば枯れるフラワーアート、命があるからはかなく美しい秋の紅葉のようにも感じられるのだ。海はいつも違う波を起こし、違う音を作ることは命の宿命のようなのだ。映画のシーンの大きな岩からは生命の力強さ、海からは儚くも美しい尊さを感じ、そういう点からただの岩と海のシーンだけど日本的な思想が含まれていると思った。
この作品が自然が美しい映画だという感想はちらほらある。しかしこれはただ美しいだけの作品ではない、目立つ大きな岩があり、ほとんどが何もないかのような空である。無と古びた、壊れかけた美しさと静けさを見せる構図である。これはわびさびのようなものだ。
そしてこの後に二人はキスをするのだけど、大胆にもキスをするシーンは西洋を表わし、西洋と東洋が交互に訪れる作品となっているように思う。洋画はだいたい熱いキスで表現しないと愛は語れない。しかし日本の思想、文化ではキスが無くとも語ることが多い。このセンスは映画内で何度も出てくる。しかもこのキスシーンは静かにキスをするため東洋感を含ませている。
ジェームズが椅子に座り普通のシーンに見えるところでもただのシーンではないと思う。壁に立て掛けられているアートがどこか寂しく悲しいアートである。光が差し込み寂しいアートと光の組み合わせは普通のシーンなのに光と闇を見せているようにも見えてくる。そして空白が大きく目立つこのアートは日本センスっぽいと思ってもいいのではないかと思う。特に似た日本のアートに尾形光琳の作品がある。
尾形光琳は海外では有名な日本アートであるので監督が知らないわけはないと思う。上の岩のシーンでも述べたことと同じなのだが、空白を使い寂しさも表現しながら、細く古い枝が伸びいつ死ぬかわからない命の儚さは繰り返す命の尊さを感じる。黄金色に輝く姿と黒色で今にも枯れそうな枝の対比は極限の中のだからこそある美しさという深い尊さからくる永遠の愛と魂を表わしている。つまりジェームズがただ座っているシーンでもこじんまりとした寂しい感じのアート見せることで空虚さを演出し、普通の空間の中にある静けさを出すために物をあまり置かず、光があえて差し込むシーンを見せることで尾形光琳のような黄金色に輝く命の尊さを見せているのではないかと思うのだ。
尾形光琳の作品↑
さらにこのシーンからはこれからダニーとジェームズが遭遇する極限状態をまるで暗示しているかのようだ。つまりこれはまさに尾形光琳のような日本の作品を映画として見せているのではないか?と思えてくる。もちろん尾形光琳とは違い両サイドに対峙させたものがないのだけど左はランプ、右は明るい窓、真ん中は木で出来た扉という構図は見方によっては尾形光琳の左右に木、真ん中に川というものを少し感じさせる。表ではフリードッヒの海辺の僧侶の西洋芸術のセンスを見せながら実は日本の美的感覚がこれでもかと入っている。
そしてグローバル朝日新聞のインタビュー記事によると「闇は、光でもって戦わなければならない。もしジハードを闇と見なし、さらなる闇でもって戦っても、成し得ない。それが私の考えだ」と監督が語っている。闇を光でもって戦うということを示すためにもこの映画のシーンはあったのかもしれない。そこに日本的尾形光琳のような光と闇というセンスを組み入れることで芸術的なシーンを演出しているのかもしれない。
また記事では監督は「すべての登場人物を先入観なく見つめ、ダークサイドにも人間性があるのだと考えるようにした」と語っている。「ジハード主義者とは何かが見えてくる。結果的に彼らに語りかけることになり、あいつらを爆撃しろ!とは言わなくなる」という監督の考えは非常に日本的だ。なぜなら西洋映画の多くは敵と正義のヒーローははっきりしていることがあるのに対して日本の映画、アニメには敵の感情も知り敵にも事情があることを視聴者は理解する。これは光と闇のバランスであり調和なのだ。監督はものすごく日本通でいわゆる古き良き日本だけど、その古さは戦前の大日本帝国時代のようなセンスさえ感じてくる。なぜかというと後で解説する大和男子につながるからだ。
映画で見せる数々の美しい自然は東洋の代表的と言っていい儚いアート(エフェメラルアート)を暗示しているようにも見えてくる。生命すべて水からできている、離れていてもお互いがつながっていられるという間接的なメッセージ。それはこの映画には東洋的死生観が含まれることを意味する。上でも少し話したがエフェメラルアートは命があるから無くなってしまうはかないアートなわけなんだけど、それは死を常に感じさせるからこそ美しいのである。この死を感じさせる美しさは東洋(日本、インド、中国など)と西洋のウィーンにしか基本的にはないのだと僕は思う。ウィーンと言えば上の画像のグスタフ・クリムトでありグスタフ・クリムトと言えば尾形光琳のセンスを取り入れた作品を残しているので監督はやっぱりグスタフ・クリムトのような世界を動画で日本思想を絡めた、現代版グスタフ・クリムトのような芸術作品を作ろうとしていたのではないかと思えてくる。明確にそんな意図が監督に無くとも色んなキーワードが一致してしまうので監督は心のどこかで考えていたんじゃないかと思う。キーワードとは、監督は日本好き、監督はウィーンのアーティストで気に入っている人がいた、世界有名日本作品の一つ尾形光琳の作品、ウィーンで日本思想を組み込んだ作品と言えばグスタグ・クリムトでありそれは尾形光琳のセンスを取り入れている、映画で見せる自然のシーンの構図などはとても日本的であり尾形光琳の作品にも似ているといったようなキーワードだ。
このシーンでもまるで尾形光琳の作品のように左右に古びた木と緑がある木のミックス、真ん中に広く広がる海、全体的に寂しい感じが出ている。とても日本的だ。
ダニーが「恋に落ちたことある?」と質問し、ジェームズは答えず話をはぐらかし突然海に行っちゃう。恋に落ちたことある?と大体にも聞くところは西洋的かな?と思いながらジェームズが話をはぐらかすと徐々にバックミュージックが大きくなり海に行く姿はとても日本的なセンスを感じる。キスやハグなどの熱い感情よりシチュエーションと音楽で愛を語るセンスは実は日本のアニメでも見ることができる。しかも海に入っていくシーンからはフリードッヒの海辺の僧侶の構図にも見え、西洋的な抽象的な悲しさと希望を見せながら、音楽と恥らいながら明確に答えを言わない二人の演出からは日本的な美しさを感じる。この演出は視聴者に二人の気持ちを想像させることで直接的に見せる愛より深い愛を感じてもらおうとしているのだと思う。西洋と東洋が合わさったシーンに監督の深い日本への愛さえ感じる。
アニメについては以下の記事で過去に書いていた。
ダニーとジェームズが離れ離れになるシーンで花ビラが風で散っている。まるで桜の花びらのように散っている描写は儚くも美しいこれからの死に直面することへの覚悟を見せているかのようだ。花が散ると描いて散花(さんげ)、花をまいて仏に供養する意味であり花が散ることから死、戦死を意味する。おそらく、少なくともジェームズだけは最後に死んだと考えたほうが映画の内容に合っていると思う。これはまるで西洋版死ぬ覚悟を決めている戦場に向かう大和男子と結婚していない妻が静かに泣いて別れるという古い日本そのものを描いているように見えてくる。しかし二人は静かにキスをしジェームズは投げキッスするので西洋思想が含まれているが静かにキスというのがポイントで西洋と日本を混合した表現になっていると思う。
二人の目での表現は目で語る東洋、口で語る西洋というようにとても日本的である。そして寂しさ悲しさという同じ気持ちを言葉で語らなくとも通じ合うという切なさを表現している。この表現は西洋の人にはなかなか分からないと思うの西洋では映画の評価が低くなったのもわかる。しかし日本思想と西洋をうまく合わせ深い愛を表現できているシーンになっていると思う。
花びらが飛び散り死を覚悟しているかのようなシーンであり背中で何かを語るのは明確な日本のセンス↓
目で語り寂しさと愛を伝える↓
キスだけど静かにキスというシーンからは西洋と東洋をミックスした表現に見える↓
ダニーは深海に行き突然電力が途切れ死の危険を感じジェームズはミサイルを打ち込まれ死んだのか死んでいないのかわからない映像になる。
ダニーの深海の部分のシーンからは生命の尊さを明らかに見せており、明らかなメッセージは西洋的。一方、ジェームズが死んだかどうかわからず徐々にダニーの顔を思い出しているかのような映像は死んでも永遠に愛は無くならない、僕たちもすべての生命は水でできていてどんなに離れていてもお互いを感じることはできる。という無言のメッセージを感じる。とても切なく日本的である。
ジェームズはミサイルを打ち込まれ、死につつあるかのように水に浮かびながらダニーを思い出す↓
エンドクレジットではバックが白、文字が黒。一般的にはバックが黒だけどそれとは反対の色、つまり西洋と東洋の反対を意味しているのではないか?ということだ。また白色は日本では美しい色であり死者が着る服の色である。綺麗な姿でお別れをする、死んでも永遠に綺麗にいるという意味もこめられていると思われる。このことからエンドクレジットは東洋思想が含まれており永遠の美しい愛と魂をを意味しており、ジェームズは死んだのではないかと思えるのだ。死ぬときにもダニーを忘れず想い続けるという尊さ深い愛を感じさせてくる。とても日本的である。原題submergenceは水没だけど潜水という意味もあり、海に潜水調査するダニーと水没して死んでいくジェームズをあらわしているのだと思う。そう考えてもジェームズは死んだと考えるのがつじつまが合うかもしれない。死んでいなくて再開できることが一番個人的にはいいんだけど、死んでも魂は繋がっているという永遠の愛を見せる作品でもしあるなら死んだと考えたほうがいいようにも思う。でも死んだとか生きていないとわからないからこそ永遠を感じるのかもしれないけど。
そして最後にセリフについてもう少し思うことがある。ダニーのセリフの数々が例え死んでも僕らの魂と愛は繋がっているんだという尊さを感じさせるんだけど、それだけじゃなくて映画が戦争を扱っていることもあり、みんな同じ人間なんだから殺しあうのなんてやめようって意味があるんだと思う。
例えば、人体の60〜90%は水で出来ている。水から生まれ、水によって生かされ、水を通して人は皆繋がっている。
みんな同じなんだから敵でも感情があり事情があり話し合えば解決できるかもしれないんだっていうことだ。フリードッヒの海辺の僧侶の絵画が悲しさ、苦しさをみせながらも大きな海からはフリードッヒの死んだ弟との魂や何かほかに繋がりを感じさせ、大きな空かは辛くてもどこか希望を感じるのと同じで、敵同士で辛くても悲しくても僕らは人間で不毛な戦いをしないで人類の愛に目を向けて顔を上げて空を見ようってことなんじゃないかなって思う。
まとめ
映画は西洋と日本の思想がいくつも絡み合っていた。海を通して二人は同じ気持ち通じ合い同じ空や自然を見てお互いのことを感じていたに違いない。死んだとしても魂は永遠に繋がっているという通じ合いたい、同じ想いを大切にするという日本的な作品で切なさを表現した映画だったと思う。西洋ではローコンテクストカルチャーという直接的な言語から来るメッセージを好み、東洋ではハイコンテクストカルチャーという非言語からのメッセージを好む傾向がある。そのためその映画もアートではあるけれどとても西洋の映画は言語的で分かりやすい論理的なものが受け入れられる傾向にある。そんな中、世界の涯ての鼓動は非言語的なメッセージが多く西洋では評価が低かったと思われる。そのためガーディアンでも評価は低かったのだろう。監督は日本のことをよく研究している人だと関心させられた映画だった。日本思想をたくさん含んでいるこの作品はまるで日本のために作ったかのように思えてくる。特に古い日本の良さを見せていて今の日本だけでなく、昔の良い時代の日本を思い出してほしいというメッセージも含まれているかもしれないし、日本人としての忘れているアイデンティティを教えてくれているようにも感じる。それだけでなく社会的なメッセージを水とアートを通して伝えていることにセンスを感じた。もうのすく分かりやすくいうと風刺っぽいのを映画で作っているとも言えるし、また自然と愛を取り扱うことで、僕には俳句のように聞えてきた。これは監督が日本のことをとても詳しく研究しているからだろうか。僕にとって人と人の争いを嫌う傾向にあるのが俳句であり日本の言語の根本的な起源だと思っている。
例えば「きみ嫁(ゆ)けり 遠き一つ の訃(ふ)に似たり」by高柳重信(たかやなぎしげのぶ)
好きな人が嫁に行ったと人づてに聞いて、もう遠くにいって会えなくなったくなってしまった人の訃報を知ったような気持ちという意味だ。ロマンチストな男性の気持ちを表わしている。
ダニーとジェームズの最後の別れはもう死んで会えなくなるかのごとく切ない別れをしている。そしてジェームズはどこか古いロマンチストな日本男児のような生き方を見せていると思う。なんか可愛くて、切なくてどこか俳句っぽく綺麗に見せていて、日本の世界っぽい。またダニーのセリフも詩的で俳句っぽいと思えなくもない。このセンスを含みながらの戦争への社会派のメッセージを深く感じる。
それと俳句だけじゃなくて日本の曲のJ-popやアニメソングは海外の曲より詩的な歌詞が多いと思うからその日本の詩的な雰囲気を監督はつかみとって映画に取り込んでいるようにも感じる。
僕はこの日本の特徴をここまで取り入れている映画があるのに驚いたし、監督のことを全く知らなかったのに日本を好きでいてくれる監督のことにとても興味をもった。そして日本のことをこんな風に見ているんだ!って知れたのは楽しかった。主に古い日本の美しさを表わしていたので、もし監督が今の日本のことも好きなら今の日本にある美しさを取りれた作品を見てみたいと思った。年齢的に難しさはあるのかもしれないけど、今というのはサブカルチャーを語らないと日本の今を語れないと思うし日本のSNSの使いかたと海外の違いに見える思想もあるだろうからネットに詳しくないと難しいかもだけど。
どういうことかというと日本のマクドナルドのCMみたいなコミカルなことだ。今の日本の思想が詰まっている。サブカルチャー・ゲームを絡めみんなで楽しむという日本独特の現代の利他的個人主義だ。そのため見た人はだいたい面白いって思う。ヴィムベンダースの考えとは全く違うけど。
マクドナルドのCM
オリンピック 安部マリオ
世界の涯ての鼓動はよく言えば芸術作品であり日本と西洋を合わせた美しい新しい作品だと感じた。反対にちょっと見方を変えると保守思考、右よりな考えが色濃く含まれている。それは映画が見せる日本の古い死生観と古い美的感覚からわかる。それもそのはず監督は小津安二郎から影響を受けている。小津安二郎のことを僕はあまりしらないけど一部のネットの情報では右よりの作品を作る人だったとか。僕は古い美的感覚だからといって悪いなんて全く思わない。古いところに良さがあり古いところから学べることが多くありまたアートは古いことだって知らないといけないと思うからだ。古いことを知ることで日本人としてのアイデンティティを知ることもできるので日本人として大人として世界でも魅力的な人になることに繋がる。このようなことを語れない考えられない人は世界では子供みたいなものだと僕は思っている。なぜなら自分の国のことも思想も日本人ってなんのかっていうのも答えられない薄っぺらい人だと思われるからだ。
日本は宗教に興味を持たない人が多いので日本の禅とかに興味がなくて全くアートがわからないと思う。この死生観は今でも世界で注目されているし、サブカルチャーでは侍、忍者というように日本的なものが好まれるわけだ。ここに日本の死生観が加わると「すごい」って世界から思われるわけだ。
もっと僕も東洋と西洋の違いを勉強しなければいけないと感じさせられた作品だった。僕が感じるアート視点から見た映画の考察だったけど監督の作品をもっと知っていればまだ違う考察ができたかもしれない。
また芸術性を高めるためにグスタフ・クリムトの東洋西洋が混在した絵画作品のようなことを映画で表現しようと試みたようにもとらえることはできるかもしれない、つまり映画版グスタフ・クリムトといった感じ。もっと細かくいうなら西洋の海辺の僧侶とか東洋の尾形光琳のような絵画の世界観を混在させて映像で作っちゃった作品。しかし一般的な西洋の人にはあまり評価されていない点からもうちょっとストーリーを面白くしてほしかったと思う。
でも芸術作品としては評価は高くてもいい映画だとは思うしもちろん社会派な作品だ。これは西洋と東洋絵画歴史の授業にも取り入れてもらいたい面白い参考映画だと思う。絵画の授業で映画?って思うかもしれない。絵画が見せる思想や哲学を動画で理解できるわけだから静止画だけより理解しやすんじゃないかと思う。そして学生に感想文かかせたら面白いだろう。
僕は世界の涯ての鼓動を芸術作品の一つとして映画を見た。この見方にについて賛否がわかれるかもしれない。人によっては見方が違うので答えは一つではない。しかしどんな映画にも芸術要素はあり、それを感じ取り考えることは絵画を見て考えるのと変わらないと思っている。特に今回の作品は監督のアーティスティックなセンスがたくさん出ていた。そういったセンスを感じたからこそアートのように考えることができたと思う。