カルトと宗教の違い ミッドサマーはカルトではない

映画ミッドサマーはアリ・アスター監督が英語記事で映画で見せるものは「カルトではない」とはっきり言っているため、いったいカルトと宗教の違いとはなんだろう?と思いちょっと考えてみることにした。
ここではあえて監督の答えを尊重してカルトではないという立場で独断で考えていくのと、そもそもホルガはコミューンで宗教団体ではないと思うが、一応分かりやすく区別するために「宗教」とは「カルト」で分けて考える。

まずミッドサマーを見て何をカルトと思われるかというと

・ペレのような勧誘はカルト

・カルトに染まり自分が無くなる

・ホルガの人が死んでいく

といった感じだろうか。

ペレのような勧誘はカルト?

ミッドサマーを見てカルト団体の洗脳のようだということに僕はとても疑問なのはキリスト教でも他の宗教でも似たようなことはしているはずだからであるだ。
例えばミッドサマーに出てくるペレがホルガ村に優しく誘うのもカルトによくあることと言えるだろうけど、キリスト教も英語を学ぶことをキッカケにキリスト教を広げることはよくあることである。しかもペレもキリスト教徒も強制したりしつこく勧誘するわけでもないのでカルト団体がなんとか引き込もうとするのとは違う。
ペレがカルトを隠して勧誘したように見えるのはカルトと思われる要素ではある。
しかしこれは想像でしかないが、ダニーの家にはホルガのような花の王冠があったり花の壁紙が張られているので死んだ妹がホルガの宗教を信仰していた可能性がある。
へレディタリーと同じなら最初から「決まっていた」という話なので妹が生きている間にペレがダニーをホルガにダニーの幸せのために誘うような計画をしていたんじゃないかと勝手に思う。隠しておかないと来ないと思ったかもしれない。騙すのはいけないけど妹がすべてダニーの心を見抜いてダニーはホルガで幸せになれることを知っていたなら騙してでもホルガに呼ぶ計画をした可能性もある。嘘だってときには必要というのは分かると思うし、ただ単純な悪意のない勧誘ではなく妹がダニーのことを考えた末の悪意のない騙しだったらカルトだと決め付けるのは難しい。

それとほとんどの人はキリスト教をカルトとは言わないが初期キリスト教はカルトとされていた歴史があるしイスラム教も中世ではカルトと言われた歴史がありカルトと宗教は似ている部分はたくさんあるのである。

カルトに染まり自分が無くなる?

ホルガ村は自己がないということで自由なんてないんじゃないかと思うかもしれない。それでもホルガ村には現代の心の問題になっている様々なことから解放されている世界ではある。例えば色々できる社会には自分を何かの枠にたくさんはめて考えている。男だったらこう、女だったらこう、こうなりたい、あーなりたいと妬み、苦しみ心の問題が起こっている。これが自己でこの自己がないのがホルガなのだ。何かが欲しい、何かになりたいと自由がなくなる変わりに考えない自由を提供しているのがホルガだ。
これを怖いと言う人もいるのもわかるけどそれを望む人もいるのだ。その両方にも対応できるのが本当の多様社会なんじゃないかと思うけどバランスを保つのは難しいんだと思う。

カルトと宗教の違いは信者を奴隷のように扱いお金や搾取し奴隷のように働かせ人生を搾取する宗教がカルトだと思う。
信者が嫌がることを強制するのは普通はしないと思うしそんなことをしたら社会からも批判されるだろう。むしろ現代のブラック企業は奴隷のように働かせ人生を搾取しているのでカルトのような一面はあるといっても間違ってはないんじゃないかと思う。だから日本の奴隷のように働いている死ぬ過労死という言葉が英語にもなるぐらい驚かれたわけである。どんな信仰心で働いているのか?奴隷なのか?と思う人はいかもしれない。

人生を搾取されないということで、信仰をしていても別の宗教に変える自由はありそれを拒むことは社会は許さないはずだ。カルトはなかなか信者をやめさせないだろうから社会的にもおかしいことをしているのである。
でもホルガには宗教を変更する自由はおそらくない。なぜなら完全にダニは自己をなくしているからである。完全に自己をなくしている人だけが残っているのがホルガだろうからみんな幸せなんじゃないかと思う。でももし自己がある人がいるとホルガの人がやめさせるかどうかはわからないので、もしやめさせなければ社会から批判されるけど世界はホルガを知らないから殺されても見つからないだろうけど。でもホルガは天国のように映画は見せているので、そんな事件が起きるような自己が残る人はいないんだと思ったほうが自然かなと思う。すべて妹の予定通りならダニーの人生の幸せもコントロールされたもので本当に自己がないということになる。

ホルガの人が死んでいくのはカルト?

カルトか宗教かの違いは頭がおかしいと思われたり危険なことかもしれないけど重要なことだと思うので言うが

「極端な話し、誰かのために命をかけることができるのか?」

ということである。

あくまで極端に話しているので実際に信仰していても命までは・・・という人はたくさんいる。
もっと優しく言い換えると、かわいそうな人に優しく接し自分ができる範囲で自分の何かを犠牲にしてでも助けようと行動できる、多少危険があっても人を助けようと動ける、ということだと思う。例えばお金は少し払って困っている人を助ける、時間を少し犠牲にして人を助ける、プライドを少し犠牲にしても人を助けるといったようなことだ。

命をかけていることをホルガの例で言えば、燃えて死ぬ人や飛び降りて死ぬ人がいる。狭いホルガでは食べ物も限られているかもしれないし生きるには多くの人がいすぎると困るはずである。そのためお年寄りは次の世代に命をつないでいくために自ら飛び降りるわけである。現代では間違っている考えであるけど歴史を見れば人類は存続のために行ってきたわけでカルトだと簡単に切り捨ててしまうことは、本当は誰も言えないのである。

現在では禁止はされているはずだけど1963年6月11日、ベトナムの仏教徒のティック・クアン・ドックは国内で抑圧される仏教徒の現状に不満があり政府の抗議のため焼身自殺をしたのだ。残った仲間のために命をかけるほど信仰している姿からは悲しくても強くて誰も彼の死を否定できない。誰でもできることではないのは知っているし、それでも命をかけるほどの信仰心がないのがカルトなのだ。
禁止されているからといって今後同じことが起きないとは誰もいえず現在でもこの死生観は残っていると思う。この例からもホルガの残った人を考えた前向きの死生観はカルトではないと言えるだろう。

さらにコロナウイルスで世界が萎縮していくなか記事によるとローマ教皇は信者に

「われわれの司祭らが外へ出て病める者に会いに行き…医療従事者やボランティアらの任務に付き添う勇気を持つよう、主と司祭らのために祈りましょう」

と言っている。

つまり危険があるのは知っている死ぬかもしれないのに感染者と会う勇気と優しさを持ち何かできることをしていこう、と言っているのである。パニックに陥ったとき信者が世界をどのように助ける行動ができるのかが本当の宗教かどうかを決めるのだ。これがキリスト教の慈愛の精神なのだ。

なぜカルトと昔に言われてきたキリスト教徒が正式な宗教として認められたか?その理由が信者が命をかけてキリストの慈愛の精神をもってどんな辛さや危険にも立ち向かい死んでいくからである。そんなに命をかけてまで信仰する人達をカルトと言えなくなるのはわかる話だと思う。人類の最大の死を生んだ黒死病でも助けようとしたキリスト教徒が多くいたらしく、信仰を強く信じ自分の犠牲をしてでまで人を助けようとする人たちにカルトとは言えない。

それだけではない。今は聞かなくなった香港の命がかかっていた暴動もキリスト教徒が多く関わっていると言われている。カルトではそんなことはしないしできないと思えてくる。
あまり詳しくは分からないけどオウム真理教のポアという殺人について言え、まずポアは間違った話でカルトでしかない。色々記事を見ると「断るとポアされる」らしいのでその強制力は社会的に許される宗教ではない。また「悪人を殺して成仏させれらるからそれは悪くない」というのも全く愛のない話である。複数の宗教の愛の視点からしても考えづらい。キリストではどんなに悪いことをしても許す、弱い者を優しくすることが慈愛だと思うし、仏教でも似たもので慈悲。他人を幸福を考えないと本当の幸せはないという愛なわけで。社会的にも信仰心としても人を恐怖に陥れるような自分勝手な攻撃のポアはおかしい。奴隷と何が違うんだろうと思う。しかもまともな宗教は美しさがあるのにオウムにはない、なんで信仰していた人がたくさんいたのか僕は不思議だ。オウムは仏教はベースの考えからは、きちんとベースの愛を知らないと屁理屈、間違った解釈になるんだと思える。だから宗教に無関心だとカルトに騙されるんだなぁと、ミッドサマーのカルト、カルトじゃない現象からは思えてくる。

そしてホルガの90年に一度は嘘で人を洗脳して殺しているからカルトだというのも一般的な宗教さえ知らない人が多いということだ。
聖書は科学の視点から言えば嘘である。人が死んで生き返るとか普通に考えればないように宗教でもカルトでも嘘はあるのだ。しかしそれを嘘とは言わないのがカルトと宗教の違いでありその大きな違いは命をかけてまで守ってきて社会規範と比較しても受け入れられるものだったからは関係しているだろう。それは神学や宗教学と哲学の視点から見ると簡単に否定できないものだと思う。それを意味がわからないというのはそれだけ頭の中が見えるもの、数字などしか信じられず現代への弊害と思われるロジカルシンキングだけに偏っているんだと思う。世界を見渡せば宗教を信仰している人が多いことからも世界は見えることだけ信じれる論理的思考だけではないのはわかると思う。もちろん現代の倫理ではまずいこともあるけどホルガのほうはとても民主的だと思えるし、むしろホルガは古代であれば他の宗教に攻撃されて消されそうなくらい攻撃性が低いように思う。伝説のホルガになりそう。

人に優しくできなくなってきているのは今の日本で起こっていることだと思う。アメリカも出来なくなっているけどまだ信仰心がある人が多くいて助けることなんてたくさんある。アメリカはひどい競争とお金に追われて人に優しくする余裕が無い人や興味が無い人、お金しか考えていない人がいて、それらを偽者のキリスト教徒というキリスト教徒の人がいるぐらい信仰心が徐々に薄れてきているんだと思う。僕にはお金信仰している人と宗教の愛を信仰している人を比べてどちらがカルトなんだろうって思ってしまう。お金は重要だけどそれでたくさんの人が働いても満足のいくお金がなくて貧困になって社会がおかしくなって銃の乱射もある社会はカルトの信者を搾取するのと何が違うんだろうって思う。そんな世界ならホルガを良く思う人がいても不思議ではない。

ダニーの彼氏のクリスチャンは実は神聖な人?

クリスチャンという名前は知っているようにキリスト教徒の意味ではある。それだけではなく日本には外から来た人を受け入れる信仰があり、異界からやってくる神は人の姿をしているというのがある。
ホルガの人が誠意をもっておもてなしをしたのは異界の人を誠意を持ってお迎えしもてなしすことで人々が幸せで豊かになると思っている可能性は日本の古い言い伝えやら物語りからもわかる。この点からホルガの未来は日本のおもてなしを作る習慣があるのだ。

さらに神聖な儀式のホルガ式性行為を受け入れるようにお願いされたクリスチャンは神聖なものを受け入れられるぐらい特別な存在として思われているだろう。
そして他のアメリカ人がホルガを否定したから罰を受ける意味で殺されるけど、クリスチャンははっきりとは否定してないのでホルガの罰ではなくおそらく神聖な意味で燃やされているのだと思う。ここも普通ではありえないのはわかる、だからと言ってホルガを悪くいう理由にはならない。生贄ではあるけどクリスチャンはど真ん中に置かれ特別扱いされているのがわかる。ホルガの人も一緒に燃やされるのも彼らが信じる喜ばしい輪廻転生に関わっているだろう。古代には本当に生贄になることを志願して行く人がいたわけで、それらすべての宗教を殉教するからと言って全部カルトなんだとは言わない。現代では殉教は禁止されているけど昔はキリスト教でもあったことなのだ。

クリスチャンは神か聖人のような位置づけだったんじゃないかと思う。クリスチャンには悪いけど 笑
クリスチャンは自分から志願されたわけじゃないけど、映画は監督目線のセラピーと失恋映画のテーマが含まれているので映画から離れたところから見て燃やされても仕方がないと思うしかない 笑

個人的に思うのはカルトはまともなアートがない

反対の意見はいるだろうけど僕には新興宗教はまともなアートがないと思っている。まともなアートとは美意識が伝わり思想があり信仰しているものがわかるものだと思う。

キリスト教を見ると歴史が長いのもあってたくさんのアートがありキリストの世界を描いたものはスピリチュアルもあればリアルな絵や偶像など様々あり、どれも慈愛の精神の思想が含まれていることが多いと思う。信仰とアートは密接なのだ。
アートは建築物もそうでそこに思想を反映した美的センスがあるのが世界三大宗教だと思う。カルトだと建物にセンスを感じなかったりする。あぶないと言われている新興宗教の建物はネットでも見るとだいたいセンスが無い。パッと見すごそうでも建物から見える思想がバラバラに見えたりすると何も信じてないんだなぁと思えてくる。どこかで見たような見た目を真似したものとか、バカにしているのかな?というぐらいである。
突っ込んだらきちんと建物の意味、思想を答えて人を動かせるぐらいのことを言えなくて薄っぺらさが見えてくるだろう。
アートセンスが良いとは現代の社会からも良いと認められるはずなので社会的にセンスがあるものかどうかは判断材料になるんじゃないかと思う。

例を出せば漫画「カルト宗教信じてました」ではエホバが出てくる。作者がエホバを洗脳カルトというのでエホバの建物をネットで見てみるとやっぱり魅力的でない。ここでは載せないが見ると分かってくる。信仰を説明されてもアート、美的センスがないと気づくと怪しいと思うのはあながち間違いではないと思えてくる。カルトをやる人はカルト内でないと生きられない周りが見えなくなっている人がいるから、そうならないため動じることのない美的センスが必要なのだ。美的センスは人の人生設計やさまざまなグランドデザインに関わる。計画を作るとはデザインすることでデザインセンスがないとできないことが多いんじゃないかと思う。

だからこの漫画の中でカルトをやめてこれからどうやっていいかわからなかくなってくるというコマがある。

ホルガを見るとさまざまなアートがあり美意識を感じる。壁、服、ダンス、礼儀、行動さえも美意識があり強い信仰心を感じる。美意識がないものに人が惹かれ信仰したいとなかなか思えず信仰しているとしたら何か強制力が働いているのか暴力や脅しで信仰させられているんじゃなかと僕は思えるのだ。美意識はアートだけでなく姿勢、思考、生き方にも表れるはずだから美意識がない場所って人のことを考えていない椅子の配置だったり色だったりして、そこに優しさ、愛を感じないのである。何も考えなくていい楽園ホルガはすでに人生設計されているようなもので、運命というデザインに沿って生きているのかもしれない。しかし宗教は運命論に沿っているところがあるのでホルガをカルトだとは言えないのだ。例えば最後は神が答えをだしてくれると考える人はたくさんいると思う。それはカルトではなく信仰としては普通のこと。頭が固いだけのエリートでは騙される人はいるのかもしれない。

どことは言わないが芸術を武器にカルトに誘い込むとするところもあるが芸術の薄っぺらさにを感じいい加減な信仰心が根元にあると思う。それとホルガは全く違って英語記事を少し参考にするとホルガは何世紀も昔からあるスウェーデン人による神秘的なグループで、映画でホルガがあるヘルシングランド地方に向かうが、実際にヘルシングランドにはホルガと同じような自然をモチーフにしたアートがあって北欧にで長く行われたきた自然主義に密接する祈りと生活スタイルが映画でもあるわけだ。ホルガの生き方も自然に溶け込んでいるように見えるし、食べ物には人肉が出たとしても間違っている間違っていないは置いといて、自然崇拝している生き方として一本筋が通るのだ。ホルガとは違うだろうけどホルガみたいな信仰があった結果、今の北欧社会に自然の中で生きる妖精トロールを信じている人がいるわけだ。監督はスウェーデンを調べつくしたらしいので、ホルガであった自然主義と人のあり方は現代でも行き続けていると思ってもあながちおかしいものではないと思う。長い歴史がある洗礼された芸術にははっきり深い信仰、意味があるのでカルトの薄っぺらい芸術と一緒にはできない。さらに完全公式ホームページにはルーンの聖書ルビ・ラダーを書き続けることができるのは汚れが無い近親相姦で生まれて障害を抱えたルビンのみと固く信じているらしいので、「固く」とまで言われるといい加減なことが多いカルトと同じではないだろうと思えてくる。

信者には頭がいい人もいれば悪い人もいる。誰でもわかりやすいようにしないと信仰なんてしないわけで、キリスト教でもイスラム教でも仏教でもわかりやすいアートはたくさんあるのだ。カルトのわかりづらいアートを見せて、それを信仰を表わしている、とかもしいうなら騙しているのかな?と思われてもしょうがない。
なのでカルトか宗教の判断は愛を感じるどうかだ。それには美的センスはたぶん必要でそのセンスがなければカルトでもないものをカルトと呼んだりするんだと思う。

僕はアメリカでは仏教を信仰しているというけど基本特別に何か一つを信仰しているものがあるわけではない。勧誘されても断っているし特別一つを信仰したくない。なぜならどれも愛があって好きで一つだけの信仰が今まで問題を生んでいると思っているからだ。中途半端かもしれないけど無宗教という人が多い日本なら可能だろう。中途半端でも複数の愛を理解するからどれも戦わせたくないのだ。日本人が世界から平和的な立場を求めらることがあるのも、建前上は仏教としても様々な神がいる多神教を認めていて一つの宗教だけに良くしないからだと思う。それがすごいことだと思うしこれからの世界の多様性の社会には必要な感性なんじゃないかと思う。たぶん一つだけの信仰をやめるなんて世界の人はなかなかできないだろうけど。でも結婚相手がキリスト教とかじゃないとダメというならそのときは考えるかもだけど。

ものすごく苦しんで宗教にも精通していたドストエフスキーは「美こそ世界を救う」と信念を持っている。美は真理であり善であり聖であり美は神の一面なのだと。だから世界中の宗教アートは美と関わりあるんだと思う。

なぜアニメが世界で愛されるか、それはアニメには世界の薄れている愛の信仰というのがあるからだと思う。アニメでは人のために自分を犠牲にし愛を持って接することはたくさんある。そこに世界中の人がロマンを感じるぐらい心に欠けているものをアニメで補強していると言ってもいいかもしれない。そしてミッドサマーをわざわざおとぎ話として監督が作ったのはおとぎ話のほうがロマンがあって愛を感じるからじゃないかと思う。現代の倫理では、ねじまがっているホルガでも愛に溢れている映画なのである、そして愛のない宗教はカルトなんじゃないかと思う。

多様社会としてホルガ村は受け入れられるべきか?

ホルガは受け入れられるだろう。
仏教が焼身自殺を禁止になるようにホルガ村の人が死ぬ儀式は禁止になるだろう。変わった性交は神聖儀式として残るだろう。
しかしホルガ村が社会から抹殺されそうと感じたなら、たくさんの人が飛び降り社会に訴え死んでいくかもしれない。
実際に現在もカルトは世界中に日本を含めてあるわけで、そのカルトが社会とともに存続するなら社会が否定することを受け入れなければならない。そうしないとお互いの信仰を守る戦いが始まり血の海になるのだ。それがキリストとイスラムの聖戦でありカルトのオウム真理教の持つカルトの信仰と国際社会が持つ愛の戦いのようなものだと思う。
多様社会はできるだけお互いが理解しようと向き合い共感が求められる社会だと思う。差別し臭いものに蓋では何も解決しないのである。ホルガ受け入れるには完全にすべてを受け入れるわけではなく社会を乱さないことを受け入れさえ社会も狂ったものに寄り添い狂ったものに共感し狂ったものを受け入れられるようにしてこそ、たぶん現在より成熟した社会なんだと思う。社会を乱し分断させ混乱させるようなカルトは受け入れられない。

可能性としてはスウェーデンがまず自国の伝統として保護する意味でホルガを受けれようとするだろう。スウェーデンが受け入れる条件を飲み込めない場合、アメリカが次の候補だろう。アメリカは様々な信仰心をもつ人を受け入れているし、飛び降りなどを禁止にしても近親相姦まで禁止にするかは難しい。おそらく禁止だろうがアメリカは記事によるとカルト宗教ファミリー・インターナショナル(昔の名前は神の子供たち)というのがいて近親相姦も許されているらしい。世界中からは非難されているもののアメリカに存在しているということはホルガも受け入れられる可能性はある。

しかしホルガをこのカルトのファミリー・インターナショナルと同じだと僕は思わない。喜びのために軽々しくなんでもかんでも性交をするヒッピーのような自由さは信仰心を薄めると思う。ホルガは喜びのためというより神聖なものとして扱っており自由にしているというわけでもない。西洋社会は近親相姦によりレイプされが奴隷にされている!と叫びそうなのはいつものことだが、それは扱い方によるといえ、完全にアウトという判断は難しい。

次に受け入れるのが日本だろう。日本の古代には記事によると近親相姦と神々とのつながりもあったようだし、日本の性コンテンツは近親相姦ものが普通に売られたりしているのでホルガを受け入れやすい環境はあるかもしれない。もちろん社会ではタブーでしたくもないしするべきではないがホルガが近親相姦は禁止にするぐらいなら飛び降りる、燃えて死ぬというなら、そこまでの意気込みがあるなら受け入れないとはいえないだろう。

ミッドサマーは古代から続いていた人間の営みと神話の連続性を見せ先祖の大切さを教えられた映画だった。そして悲しみや思いやりに無関心な人が多くなりつつある世界に大きな疑問を突きつけ作品だ。様々な暴力による世界の社会構造が破壊がたくさん起きていることへのアリ・アスター監督の願いを込めた鎮魂歌のようだ。

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