昔バイトの初日、店長がこう言ってきた。
「最近の若いやつは使えないやつが多い。小学生の運動会では過剰に平等というのが叫ばれて、順位付けを嫌いみんなでゴールすることさえある。その過剰な平等の結果、競争意識のない使えないやつになるんだ。負け組みになるのではなく勝ち組になる必要がる」
僕は当時この人頭いい!って思ったけど、今考え直してみると全然賛同できなくて頭いいとも思えない。
勝ち組負け組みを考える上で、店長が僕に言った運動会を通して考えて見た。
Yahoo知恵袋による運動会をやる意味を簡単にまとめると、
”協力し合い助け合い、多少競争させることで負けないように努力し自分の成長を実感し、やれば出来るというのを子供達に学ばせる”
という意味があるのだと思う。
競争させることは頑張れる人をつくり助け合える人をつくる、それは社会に出たときの勝ち組になる要素だから教える必要があるということなのだと思う。
すごく良く聞こえるが、結論からいうと、この誰でも頑張り成長できるというのは神話でしかない。
なぜなら、それは強い者の考え方で弱い者を無視した考え方だからだ。
働けど働けど苦しいと感じる人がいるのはなぜなのか?を考えてないのだ。
競争は人によっては運動嫌いを助長する
過剰な平等や競争は意味ないとは思う。
競争は蹴り落とすことが重要だということを学ばせる。
大切なことは子供が助け合いを学び、さらに運動を好きになること。
運動会によって助け合いを学ばせるなら、マラソンでこけたクラスメイトを子供たちが助けにいくことを、パン食い競争でなかなか食べられないクラスメイトを助けてあげることなど教えて必要があるのではないだろうか。今は偏った平等、競争意識教育がされていると感じる。
僕はそもそも運動会が好きではないが。
偏った団体行動を学ばせること、はいじめの原因にもなる
「子どもに貧困を押しつける国・日本」
という本によると、ちょっとまとめると
現代の日本は人並みのおしゃれが出来ないとか人と違うというだけで、取り残された感があり、その結果として友人とのつながりが切れたり、いじめや差別が生まれる可能性がある。
とようなことが書かれている。
これは偏った協調性は自分が周りと違うことから、恥ずかしさや屈辱感を抱かせる。
偏った協調性は違うことを良しとしない、結果として自分が悪いといった自尊心の欠如といったことになり、自殺を助長させているのではないか?と思ってしまう。
それは地域社会のために良くないことだろう。
人と違うことは当たり前ということを運動会で教えないといけないのではないか?と思う。
僕は小学生の頃、この団体行動がとても嫌いだった。嫌いだったので一人の友達と一緒に放課後の応援練習からひっそり抜け出して家に帰っていた。
僕にとって、団体行動をしっかりさせる運動会は自分を否定されているようにも感じていたし、みんななんでやっているのか不思議で気持ちが悪かった。
僕の意見
運動会を一旦ストップし、本当に子供にとっていい教育とは何なのかを考える。
働いても働いても苦しいのは、やればできるという教育の結果なのだと思う。みんな違うことを認めないと、出来ない者には自己責任を押し付けてしまう。そして社会は本人の責任にしてしまえば、社会が変わろうとしないし、自己責任を押し付けられた人は苦しくなるだろう。
運動会は日本の社会と仮定すると、なんかしっくりくる。
みんな同じ体操服を着て、同じ行動をし、競争する。
みんなと同じものが流行り、違うものを持つと変に思われる。そしてお金を稼ぐため、自分のポジションの確保のために、同僚を蹴り落としながら競争している。
競争は必要だが過剰なのは問題だろう。
前にインド人のクラスメイトに言われたことがある。
「日本人はやればできると言ってくる、でも僕らはできないから出来る人にまかせようという。」
これはかなり重要なことだと僕は感じる。彼らの考え方からは学ぶことが多い、なぜなら世界でインド人は頭いいので有名だ。さらに日本では考えられない高給取りも多いと聞く。彼らの考え方から学ぶことは多いはずだ。
そして彼らからは、なぜかとても勢いがあるように感じる。
たぶんそれは日本人と彼らの自尊心の高さが違うからなんじゃないかと思う。
人はそれぞれ違うから、やればなんでもできるというのは絶対ではないのだ。
僕たちの勝ち負けを意識する人生は、小学校の運動会で競技しているのと同じなのかもしれない。
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