日本で裸祭りが行われていたのをニュース知って、裸の人たちがたくさんいることにものすごくパワーを感じた。
なんでこんなにインパクトがあるんだろう?と考えていると、たぶん女性と違って男性が全裸に近い姿で表に出ることって水泳ぐらいしかないから凄みを感じるのだと思う。ネットから拾った写真によるとこの裸祭りには女性も参加している。
しかし人数が少なくパワーを感じない。
外国人と日本人が並ぶと外国人の骨格が違いすぎてパワーがありすぎる。
インドの裸祭りクンブメーラ祭り
髭ながい 笑
裸って昔から何か表現するのにものすごい力を発揮している。
海外のアート作品は特に裸が多い。
そもそも西洋の裸の歴史は古代オリンピックまでさかのぼると言われており、完璧な体は神に近い存在と考えられていた。また完璧な体は数学的にも完璧であった。
日本では裸を神に近づくものという考えがないのだが、身を清めすべてを神に見せるという意味があるっぽい。面白い。しかしロンゲやカラフルな髪の男性をほとんどみないのが謎だった。日本だと茶髪の人は多そうなのに写真であまりみない。色が違う、髪型が違うというだけでヤンキーと思ったりするのかもしれない。
サンフランシスコでもし裸祭りみたいなのがあったら、ものすごい多様性がうまれる祭りになっちゃうだろう。神の色も金髪、ピンク、緑、いろいろだ。
日本っていろんな宗教や日本食以外の食べ物や服装も取り入れやすい土台が世界の中でもトップクラスであるのに、何故か多様性がありながらも多様な人を増やすより統一感を重要視しようとする。それはそれでいいんだけど、もうちょっと違うことを仕事でも祭りでも取り入れられたらいいのにと思った。あまりにもみんなが同じことをしているとコピーされたロボットのように見えるから少し違和感を感じるし、まとまりすぎていていると恐ろしさも少し感じる。
<裸祭りから見えてくる日本経済の停滞>っぽいことを考える。
お祭りのルールはあまりしならないのでもしルール上、ロンゲはいけないカラフルな髪はだめというのはあったとしてもここでは考えない。
日本の経済の停滞でよく言われているのがお金がある人たちがお金を使わないことで物の売れずに働く人の給料も上がらないという流れがある。貯金ばかりする人が多くなり投資しない人が増えることでお金も回らないし新しいことも生まれづらい社会となる。
もしとがった人がたくさんいたなら、周りのことばかり気にしないという人が多ければお祭りにも多様な人がもっといてもおかしくないのだ。
裸祭りの写真を見ていて日本の就職活動の見た目を思い出した。
昔の写真を見てみると黒っぽい色だけどまだバラバラ感があったのがみるとわかる。
時代とともにバラバラという感覚は増えるより減る方向に向かっていく。
今ではもう真っ黒。もし多様性がもっと増える方向に行けば裸祭りはもっとバラバラ感がでた祭りになっている可能性もある。
僕が裸祭りをみてちょっと怖いと思った感情はこの異様な統一感から来る。
90年代の日本は自分探しをするゲーム、漫画、アニメというのが溢れてたと思う。例えばドラゴンクエスト、エヴァンゲリオンなどなど。みんな正解を探して迷っていて誰かが作ったルールに乗ってしまった結果が今の異様な統一感を生んでいるんだと思う。
それは自分を持っていない人達が多いことのあらわれであり、不安が多い世の中ということであり不景気であるということの証拠なのだ。お金の余っている景気のいい時期には不安なんて少なくなるし正解がなくておどおどすることもないだろう。
上の日本とインドのお祭りを見て比べてみると、日本のものは全体の動きの統一感がはっきり出ているがインドのものはバラバラ感がすごい。貧困なインドでも経済成長していることにこのバラバラ感という感覚も影響がないというわけではないと思う。
誤解するかもしれないがあえて言えば、この統一感は僕は気持ち悪いと思うことのほうが正常だと思う。なぜなら、誰もが戦争を思い出すような雰囲気をかもし出すことを良しとはしないはずだ。あまりにも自分がないロボットのような戦争に行くかのような統一感があるのは自由からは遠のいた考えであり、自分の人生を生きていけるのかと疑問さえも抱かせる。
僕は日本が大好きだけど、不景気感があるのはのけ者にされたら生きづらくなるとか、将来に不安なありすぎてびくびくしている人が多いからじゃないかと思う。
もちろん嫌でも仕事をやめられない人や嫌でも今の環境から動けない人はたくさんいるのはわかるが、そんな人ばかりでもないはずなのだけど必要以上に自分に自身がなくて不安で新しいことをしようとする人が少ないのだろう。
もちろん新しいことをするということが危ないのであればやめておくことも良い判断だと思う。例えば中学生がアメリカ横断しようとしたことなどは危険すぎることだから真似するべきじゃない。
統一感で満足してしまうことはある意味日本国内で不満がない人が多いとも言える。不満があればもっとガツガツしてしまうだろうし、あれも欲しい、これも欲しいとなるだろう。電子レンジも洗濯機もテレビもどこにでもある家庭ばかりだろうから、生活で欲しいものはすでに揃っているため物欲の低い人たちが多くなっていくのかもしれない。もっと物欲をもったほうがいいと思う。それには自分が何を欲しいか何が必要が自分自身のこととがわからないとはじまらない。異世界系のアニメと漫画が増える昨今、現実社会に夢をもてない現実逃避のような人達が幅広い年齢層に多いのかもしれない。まるで90年代の自分探しの時代からもう現実には期待してもしょうがないと諦めているようにも見える。もしそうであれば、僕は多くの人はエヴァンゲリオンのシンジ君症候群なのではないかと思う。シンジ君症候群とは勝手に僕が今作った名前で、シンジ君が逃げちゃ駄目だといいながら本当はやりたくないことをしながら自分探しをしていくが、シンジ君は敵という襲ってくる問題があり強制的にも考えを出さないといけない状態にあるが、現実の人にはそんな強制力が働くものはあまりない。みんなシンジ君のような自分探しをしながらもシンジ君のような強制力が襲ってこないため、次第に諦めにも似た感情になり異世界系が流行ってしまったということだ。
90年代の自分探しの延長線上に諦めムードが漂っている。シンジ君症候群から脱出できたときに日本は変わるだろう。そう今はまだ使途が見えていないだけで、使途があらわれたときに日本は変わるのだ。ちなみに使途とはなんだろうというとできればそれは危険なことではないと思いたい。使途とは死を想像することだろう。自分自身と向き合いもっと死を意識するときに時間は限られていると気づき自分の中の使途(死生観)と戦い自分を変えていこうとする時代が来るのではないだろうか、いつか。それは真の意味でシンジ君のようになったということだ。
世の中には背中を押してもらえないと動けない人と一人でも動ける人がいる。ブラック企業が多くなった原因の一つにはたぶん背中を押してもらえないと(指示されないと)動けない人が多くなってきたのだと思う。自分で動けない人はそのような環境に行くと成長できることはあるのである意味ブラック企業は良い面もあるのだろうが、もちろんブラック企業は搾取することで成り立っているから良くない。僕のお勧めは留学はいいよといえる。なぜなら留学すると日本ではありえない問題だらけで、立ち向かわなければいけないトラブルが多い。それは自分を変えるには良い環境だと思う。ただあまりにも海外生活が長いと日本で疎外感を感じるかもしれないけど。
ドラゴンクエストの主人公がどんどん強くなるのに自分は強くなれない。ここで諦めてしまうことが無くなる時代が来ると日本は変わると思う。