【感想・ネタバレ・考察】トールマン  大人が気づかない子供の悲しさに考えさせられる映画

ホラーだと思ったらサスペンスだった映画。
音と雰囲気がホラーなだけで怖くない映画。
内容は簡単にネタバレすると貧困の子供を誘拐して裕福な人に養子として引き渡していた話。
でもただそうは言っても普通の映画でなく間違いなく視聴者に訴えかけるメッセージがあり、それを良くも悪くも取ることができる。

悪くとらえれば貧困者の子供を助けるためなら違法でもいいなんておかしい、
良くとらえれば困窮している家庭の子には強制的な力がないと助かることはないから救いがある話だ。

レビューでもあまり高評価でないのは分かりづらいことと違法でもいいなんていうことに不快感を感じる人がいるんだと思う。
ただ僕は悪くとらえるより見向きもされない社会問題があるんだ、というメッセージで受け取り考えさせられた。

誘拐されたデイビットという子の母親は汚い場所に住み、仕事が無く生きることも大変だとデイビットの母親はいう。そんな母親でも子供がいなくなれば死にそうになるほど辛いのだ。

刑務所の電話越しで打ち明けるデイビットの母親↓

だけど誘拐犯でもあるジュリアは簡単にいうと
「これはサイクルなんだ。システムは機能していない、どこにもサポートがなくて、世界は終わっているんだ。ただ諦めることはとても簡単なんだ。だけど子供たちの目には希望と将来がある。私達は受け入れ育てるべきだけど私達はしない。同じお過ちを繰り返している。私達は壊れたサイクルがあるんだ。」

「だけど私たちが官僚に本当に変わるために尋ねたとき彼らは、そんなことをするべきでない、プロセスがあるんだ、というんだ。」

そしてジェニーという言語障害のある子も貧困な生活をしている子で子供を誘拐していると言われているトールマンに誘拐されたいと思っている。
しばらくして、ジェニーがユニコーンの絵を描いた紙をベッドの壁に張り付けてあった。そうすると一人になったときにトールマンに誘拐されるのである。

ユニコーンは希望の象徴、迎えに来て欲しいものとして描いていたのではないかと僕は想像する。

連れ去られるジェニー↓

連れ去れた後、ジェニーを探している母親だけどジェニーが見つからずに泣きそうになっている。

その母親が住んでいる家がボロボロ。学校にも行けていない福祉のサポートもない世界なんだと思うとものすごい貧困家庭だ。

でもジェニーは誘拐された先では化粧もでき身なりも綺麗にさせてもらえる。

そして人身売買の取引が成功するのである。

ジェニーは死んだことになりベラという名前で生きることになる。

でもジェニーが

「毎朝起きて全部終わると家にもどってくると同じことを思っている」

というように毎日の生活に愛がないのである。

最後に言語障害があったジェニーが裕福な養子になって言語障害も克服するけど涙を流して
「これでいいんだよね?だよね?・・・ね?」
と言って映画は終わる。

ラストのシーン ↓

お金が無くて、福祉も届かない悪い家庭環境だけど愛がある家庭がいいのか、
お金も福祉もしっかりあるがどこか愛が欠けている家庭がいいのか、という経済と心の問題のメッセージなのだ。

これは世の中の子供たちが大人にどう扱われているかという視点で考えることができ、子供の気持ちなんて大人は忘れてしまう気づかないんだと僕は思う。例えば子供には勉強をさせ、塾に行かせ、大人のやってほしいことばかり子供にさせている。子供はペットじゃないのにペットみたいに大人のしたいように子供にさせる。特に裕福な家庭だと子供に投資する家庭は多いわけで子供が何かをしたい権利がない家庭はあるだろう。養子になったジェニーは好きなアートをさせてくれているけど、親から認められたルーチンからはずれることはない。
それは好きなことをやらせてもらっていてもやっぱり養子だし大人にやらされている部分はあるんだと思う。愛がない、甘えられない、貧乏だったら不幸になるしかない世界に悲しさを感じないわけはない。
貧困から抜け出したくて裕福な家庭の養子になることを選んだジェニーだけど裕福な生活しても悲しいのは先進国ではあるあるなことなんじゃないかと思う。
例えば平等の国スウェーデンでも自殺率は高く、貧困が少なくても愛を感じなければ自殺だってしてしまう。

そして弱者を切り捨てることを悪いとも思わない人たちが多い現代の世の中は社会システムの欠陥が明らかになるのである。
多様性といいながらも社会が求める資本主義が求めるレールからはずれることは多様性にならず貧困になる自由はないはずなのに貧困になる人を助ける考えなんて官僚は持っていない。それが現在の結果なのだ。そう思うと映画は他人事には感じられないのだ。

貧困のレールから外れる事で幸せになれるはずだったのに裕福のレールでも悲しい。レールに関係なく幸せになれる社会がない限りこの悲しみは残るんだろうと思うのだ。経済倫理を持ち込んだ心に寄り添わない資本主義にも欠陥があるのである。

監督も子供の時代に同じように悲しんだのかな?と思ったりもする。インタビューによれば監督の家庭はいい家庭であったらしいけど、自分の見た目で苦しみ鬱になるほど悲しんで追い込まれた過去がある監督は、現代のむなしさを感じたんだろうか?と思うのだ。いい子でいるだけなのに、涙を流すジェニーが現代のむなしさを感じているかのように。

また映画は社会的地位によって子供の人身売買は正当化されるのか?という意味でとらえる人もいるだろう。僕はそのような反社会的なメッセージとは違い、それぐらいしないといけないほど困窮している子供はいるんじゃないか?だからこそ福祉が行き届かない家庭、社会から距離をとっている家庭や少数派が貧困にならないようにしなといけないんだ、というふうにメッセージを受け取ったのだ。

ガラスの城という映画の感想でも書いたが、この映画は実話で社会から孤立している福祉が行き届かない生活をしている家庭の子供はかわいそうな生き方をしている。子供の育てることを放棄したネグレイドの親の元では子供が強くならないと貧困から脱出できない。でももし子供が弱ければ貧困にならずに済んだ子供が極貧に陥るんだと思う。社会が見放していることも無責任だし法律の欠陥であるのに本当の意味で貧困になっている子供を人身売買だけど救おうとすることは、親から逃げてきて居場所のない子供よりは幸せなんだと思う。だから違法だけど完全に否定はできないことだ。

それに大恐慌の時代には実際に人身売買はあったらしいし、苦しい環境であればあるほど誘拐でもいいから貧困から抜け出したいと思う人はいてもおかしくないのだ。

またアメリカの貧困白人をヒルビリーといったりレッドネックと言うが、貧困家庭の子供は貧困から抜け出せることは少なく世代を超えて貧困のままなのだ。1%の大金持ちと99%の貧困と言われるように先進国でも貧困者へは支援ができていないものだ。国もやらな誰も出来ないなら違法のやり方でないといけないんだ、というタブーを見せることは社会の欠陥を暴き僕たちに強烈なメッセージを投げかける。今までの正義は本当に正義なのだろうか?というメッセージは2020年に日本で公開されたミッドサマーでもあった。トールマンが2012年公開だけど今も昔も当たり前を疑うほど社会に欠陥があったんだと思わされる。

出来れば貧乏だけど愛のあった両親と一緒にいられることを子供だって望んでいるかもしれないけど、それでは幸せになれない社会は残酷なことなんだ。

ハリウッドとは違う独自性のある映画なのでハリウッドに見飽きた人には良いかもしれない。

深いなあーと思いつつも反対に物足らなさもあった。

社会メッセージはいいしはホラーじゃなくてサスペンスだけど予想ができない内容は面白いものだった。でも心をえぐるものが何か足りないのだ。
例えばトールマンの後の作品のゴーストランドの惨劇で見せたような監督の心の闇とコンプレックスで溢れている作品ではない。
ゴーストランドの惨劇は作家性が爆発していたがトールマンはそれが伝わってこないのだ。
勝手に推測するが、作家性で売れた監督はコンプレックスが消化されてしまってて迷走してしまうことがあるんじゃないかと思うこと。
例えばヒッチコックも人気があったといわれる「サイコ」でトラウマを消化してしまって「フレンジー」までなかなかヒットしない。

これと同じでトールマンで迷走するもののゴーストランドの惨劇で強烈な作品となるのは監督の自伝映画であり監督が子供時代の心の闇に向き合ったからすごいんだと思う。
だから今回のトールマンは残念だった。答えが出ない問題ほどホラーや狂人や変態を使うことで強烈なメッセージになると思うから、狂人も変態もたいして出てこないトールマンは物足りない。そんなこというと変人みたいな話だけど、ホラーには癒しの効果があるのは世界の真理であり見る人の絶望の度合にあったもしくは見る人の絶望を越えたホラーが見る人の絶望を癒したり、忘れさせたり、カタルシスを与えるんだと思う。
でもトールマンは貧困な話だけど最後は裕福になって悲しんでいる。そんなの世の中によくある話でよくある話じゃ物足りないんだと思う。だから僕の中でも評価が高くないのだ。
例えて言うとハリウッド映画のヒーローが生半可な愛や勇気を言ったって生ぬるい話なんてつまらないんだ、ってなっちゃうのとちょっと似ている。
トールマンの最後にジェニーは「これでいいんだよね?」
と泣くけど、それも僕の心に届かないんだ。
養子という立場だから難しいだろうけど嫌なら感情を爆発させてほしい、自分を押し殺しているかのように感情に気づかないように毎日同じように生きるよりも、感情に沿う生き方だってあっていいはずなのだ。○○さんより幸せ、すごい、上だとかいうマウント合戦、おかしな承認欲求が大人を子供を自分の持ち物のように扱うようにしてしまうんじゃないかとさえ思う。

極力迷惑をかけないように生きようとするジェニーにまるで透明な存在にでもなっているかのように感じてくる。みんな自分の色が欲しくてSNSをやったり声をあげたりするけどそんな色も空虚なものなんだ。身近な人にさえも気づいてもらえない哀しみがあり、それを相手のことも考えて言えない状況があるから救われない苦しさがあるのだ。ジェニーが感じている悲しみと幸せは経済だけではないという心の声なんだ。

ジェニーが泣いて葛藤している気持ちは、将来は心に闇が積もって爆発しちゃんじゃないかと思って怖い。でもそこまでなってくれたら伝わるものがあるんだと思う。
子供の頃の悲しみはその悲しみの原因になっているものと向き合わないと浄化されないと思うから、トールマンはもやもやして感じで終わって物足りなかった。

ジェニー視点で葛藤をもっと見たかったと思った。

幼い頃の虐待や悲しさや寂しさを大人になって描いたマンガ「愛と呪い」はジェニーの心の爆発にもつながりそうで勝手に想像してしまう。

漫画「愛と呪い」と実話の映画「ガラスの城」がジェニーの状況とかぶって見えてくる。虐待を受けただろうし、ただ普通の幸せを手に入れたいと思っていたはず。それでなのに最後は悲しくなるジェニーはふつふつと心の奥底で闇を育てているようで、最後爆発しちゃうんじゃないかと思ってしまう。漫画「愛と呪い」のように。
なぜなら幸せになりたいといいながら愛のある両親を捨て、両親が泣いていることを知っているはずで、でも望んだ場所を手に入れたのに悲しむなんて自分勝手で醜いと思うかもしれないからだ。その先には「こんなクソったれな醜い社会、全部壊して・・・」となるかもしれない。

でも映画は良かった。

ちなみにゴーストランドの惨劇でもトラックは出てくるし、女性が三人と言うのも一緒。トールマンを見てからでもゴーストランドの惨劇を見てからでも共通点に気づけて楽しい。ゴーストランドの惨劇の姉の名前がヴェラで妹がベスなののもトールマンのジェニーの別の名前のベラと似ている。

関連コンテンツ



スポンサーリンク
レスポンシブ 広告
レスポンシブ 広告

シェアする

  • このエントリーをはてなブックマークに追加

フォローする