美術はいらない?いやいるでしょ!

なかなか絵を描く時間がないけど僕は絵が好きで描くことがある。
絵は伝統的な絵ではなくてデジタルペインティングだ。
アニメキャラであれ漫画であれそれらはアートだ。そのアートを通して学んでいて良かったと思うことは海外の学生と話していて僕の美的センスというのは日本で育ったから漫画やアニメを見ていたから日本のゲームで遊んでいたから身についていたと実感するときだ。
色使い、キャラクターの顔のバランス、雰囲気、僕の好みのセンスは外国のものとは違う。

ゲームや漫画なら学校で学ぶ美術は必要じゃないんじゃないのか?と思うかもしれない。それは間違いだ。ただ学校で行っている美術教育は変えないとおもしろくないものだと思う。これは僕が小中学校のときなのでずっと昔だが絵の具で色を塗る時間があったが面白くなかった。僕は絵の具より鉛筆が好きだったし今ではデジタルが好きで汚くなるのが好きじゃないのだ。
しかし造形など必要があると思えれば汚れていても勉強することはある。

絵の具が好きじゃないので鉛筆のドローイングで話すが物を細かくじっくり見るというのは数学や物理や国語からは学べない。ドローイングは感覚だけでなく数学と同じような論理的に考えないと濃淡のバランスがおかしくなるし、数学と違い見る人の感情、描いている人物の気持ちを考えて描く描かないかでは出来上がりの結果が違う。気持ちを考えるというのは美術ならではの学べるところなのだ。

人の気持ちを考えられない人が増えていく世の中、経済でしか物事考えられない人が増えている。アメリカがいい例でアメリカの教育は企業の経済論理を持ち込んで国民が平等に平等な教育される機会を与えてもらえない。安く雇われた教師が適当に仕事をして適当に成績をつけて適当に勉強する子供たちになっているのだ。お金のない家庭の子がいける学校にはお金をかけられない学校になるため美術の時間さえない場合もある。美術教育とは富裕層の教育になりつつあるのだ。

美術がいらない、ということはまさにアメリカの貧困層と同じようなことをしようとしていることになる。なぜ富裕層の人たちが美術教育を取りいれているかは美術には子供を育む力がかるからだ。それが先ほど話した感情の教育なのだ。

美術を軽視する人たちが今日本では多いためアート市場というのは漫画やアニメを除いて狭い市場だとは思うがアートが必要としっかり理解すれば一般の人もアート作品を買うようになる社会になると思う。
部屋の中にアート作品がない、家の外にでてもアート作品に触れることができないとはまるで刑務所の中のようなものだと思う。そもそも刑務所は人を更生するところなのだからアート作品もあってもいいと思うのだが。

物を見てかわいい、かっこいいと思う感情が生きる力になったりやる気になったりする。それはその人が好きな形や大きさといったデザインがあるから。もしアートなんて教育から無くなってしまえば好きなデザインというのは企業が売りたい形のものだけという画一化された社会になりえるし好みに多様性のある社会でなくなるのは変わったものに対して差別したり軽視したりするよくない社会になる可能性もある。

韓国を例にすると分かりやすいが韓国では狭い土地に多くの人が集まっているのでトレンドが日本より広がりやすいと思う。日本以上にみんなが同じことをするのが好きで違うことをする人に悪い目でみたりする人もいる。またそのような多様性が少ない環境なので黒人差別は韓国では多いと僕の実感だけど思う。

このように画一化された感性というのは差別を生む可能性があるためアートは多様な感性を育み多様性を加速させるのに役立つだろう。

アートが検閲された社会が戦争中にはあった。それを考えればアートを学べることがどれだけ素晴らしいか、どれだけ大切かわかると思う。
またアートには風刺として使う手段もある。日本では風刺はあまり見ないが世界では風刺は当たり前であり風刺は一般人に難しいこと政治の問題、社会の問題を分かりやすく面白く伝える民主主義にとって重要なものだ。美術がなくなれば風刺で発信することもしなくなるだろうし風刺の重要性も理解しないだろう。

これから世界が平和になればなるほどステレオタイプのかっこよさかわいさというセンスは変わってくる。その先端を走っているのが日本である。アート市場が小さい日本においても異性の見た目は時代とともに大きく変わってきた。世界が男らしい人を求めていても日本では草食系、かわいい男子が求められたりと世界に比べれば多様性があるように見える社会だが実は偏っていると思っている。しかし世界が平和になってくればくるほど男らしさというのは好みの対象として変わってくると思うが日本のように偏ってかわいい女の子かわいい男の子ばかりの社会でなくてもっと多様な好みのある社会に他国はなるのではないかと思う。

この多様性を生むのがアートが重要だと思っている。アメリカのように多種多様な人間がいるわけでは日本はない。多様性を育むにはアートを通してセンスを鍛えることがいいのだ。
例えばドローイングで黒人の女性を綺麗に各授業あった場合。黒人女性をじっくり観察しなければいけない、ずっと観察しているとその人の良さが見えてくるのだ。いい所を見つけやすい人になるし好きじゃないと思っていた黒人が好きになってきたりするものなのだ。

アートとはそういうものだと思う。ゲームのモンスターを描かなければいけない。気持ち悪いどうしよう。でも良い作品を作りたいと思えば必死に観察して必死にどう見えるか考えて、その気持ちのわるいキャラクターの良さに気づきそのキャラクターに限って愛おしくなるかもしれない。それだけアート作品を作るとは感情を操作するものなのだ。趣味や美意識とは時代にあった秩序を作るのだ。その例が好みの見た目という秩序。数学ではこのような秩序は身に付けられない。

また創作活動には様々な感情を変換して自分の感情をコントロールさせるという自己抑止力のような力もある。悲しいときに悲しい曲を聴くと共感するように悲しい悲しい絵を描くことでその悲しい気持ちが和らいだりするものだ。手に入れたいけど手に入らない幸せなものがあれば創作活動により絵でも彫刻などで作っておくことで身近に置き気持ちを建設的な方向に導くという社会の潤滑油なような効果もある。歯車には潤滑油がなければうまく動かないというのと同じで常に動いている社会には潤滑油が必要なのだ。それがアートなのだ。

そして物づくりというものが弱まりつつある日本で重要なことは再度物づくりする力と観察する力ではないかと思っている。物を作ることが出来る国と作れない国どちらが強いか?明らかに作ることのできる国が強い。経済的にも強くなれるし世界から人としても尊敬されやすい。
物づくりというアートは経済成長と尊敬されるという戦いを避け平和にも貢献するような効果があるのだ。美術が必要ないという社会は潤滑油に欠けている社会であり人々の心が潤ってないのかもしれない。日本の自殺率は高さと美術が必要ないという受験勉強の効率化された社会の関連性はないとは思えない。

ある友達が言っていた、「僕は美術を学ぼうと思っていた時期があった。でもやめたんだ。なぜなら途中で気が付いたんだ、美術を学ぼうとしている僕は血迷っているって。」

美術を学ぶことは血迷っていることと思っている人が少なからずいるのだ。このような社会は健全な社会ではないと僕は思う。

また日本語では美術とデザインと芸術とファインアートに大きな違いがあるようだが、僕の感覚では美術と芸術はアートだし、デザインは物の特徴、形などの意味で使われると思っている。日本では伝統的な芸術を美術というのかな?考えすぎな気がする。
ファインアートは伝統的な作品でなくともファインアートだ。
それが漫画やアニメのイラストでもゲームのワンシーンをドット絵で書いてもファインアート。デジタルで描いてもファインアート。
ヨーロッパなどの伝統的な作品をファインアートという人もいるけどファインアートの意味は現在幅広い。
デザインには動画も含まれるしあらゆる物の形が含まれる。それが建築がらみのCADであれ建築構造であれなんでもだ。美術と芸術には異なった意味はたいしてない。ただ使い方は違う。

彫刻を見て「美術だ!」とはいわず「芸術だ!」というように作品を評価するときに使われる。日本語で考えると芸術には奥深さがあるが美術には音楽も芸術も含めて全般をいうのだから芸術性だけでなく構造上のデザインも含まれているだろう。

なにはともあれ英語で美術も芸術もアート(ART)で言い換えることができる。それと同じで美術と芸術にはあまり違いがないと考えたほうが難しくない。

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