表現の不自由展は中止するべきだと思うこと

表現の不自由展が話題になっていてそのうち僕の考えも書こうと思っていてなかなか時間がなくて書けなかった。そしてやっと考えて出した答えが表現の不自由展は中止するべきという答えだ。

僕は自分でいうのもなんだけど考え方は自由なほうで規制より自由、表現を尊重したいと思っている側だ。しかし今回の表現の不自由展についてはいくつかの理由から中止するべきなんじゃないかなと思えるのだ。その理由は下記の通りである。

1:表現の不自由展は限度を越えていると思うこと

表現の自由は保たれなければならない。アーティストとしても規制されることは喜ばしくない。でも僕は世の中限度があると思っている。表現の自由だからどんなことでも表現していいというのはバカなんじゃないかなと思う。

表現の自由はなんでも自由でなくて限度があるという例としては
映画には年齢制限がかかっている。その理由は年齢によって映画を見たことで悪い影響があるかもしれないからだ。年齢だけでなく見る人の精神状態によっては悪い影響が出たりする。それはその人の限度を越えたものがあったから悪い影響を与えてしまったということだと思う。
大人になって年齢制限がなくなっても人には限度というのがあるのだ。限度を越えたものを見ると悪い影響を与えてしまう。限度の越えたものとは例えばうつの人の話を大人が聞いていてもどっぷり聞くと聞く側もうつになったりする。聞く側が防衛できるほどの知識の精神状態でない限りうつは移ると思うのだ。つまり人には限度があるということ。

表現の不自由展には反対をしている人が多くいる。そのことから言えることは多くの人の限度を越えてしまっているということだ。映画が年齢制限されるように表現の自由は制限されるものなのだ。その制限は見る人を守るための制限であり検閲などとは違う。脅しはいけないけどその脅しに脅しとかありそうと思えるほどの作品を作ってしまい日本人の多くの限度を越えてしまったんじゃないかと思う。年齢制限では収まらないほどの限度を越えてしまったから問題になっているじゃないかと思う。

限度を越えると規制対象になるという他の例はアメリカのアートがある。
2017年にアメリカのコメディアンがドナルドトランプの切断された血の滴る生首をアートとして持参、アメリカ中で批判がでて問題になった。
どうして問題になったか?ドナルドトランプは多くの人が批判する対象ではあるけど限度があるということだ。やっていいこと悪いことがあるということ。トランプを嫌いなリベラルたちさえむなくそ悪くなることをしてしまったのだ。
このことから言えることはアートはその社会が受け入れられる限度によって規制されるべきか規制されないべきか判断できるということである。

つまり僕は表現の不自由展は見てないけど反対する人の多さ、ネットごしに僕が見て不快に感じたことなどから限度を越えたアート表現ではないかと思うのだ。

2:公営施設が限度の越えた作品を取り扱うことはプロパガンダになりかねない

限度を越えて気持ちに悪い影響を広めてしまうことはヘイトクライムにつながると思う。まず憎悪が増して犯罪が起きかねないことはやめるべきだと思う。犯罪が怖くてとかじゃなくて犯罪はあってはならない。犯罪を促進させるかのようなアートは公共機関ではやめるべきだと思うのだ。これは内輪でやってるぐらいだったら大きな問題にはならないし自由だと思う。だけど公共の建物でやるとみんなに見られやすくなるため悪い影響が広がりかねないし公共施設がそういうことをすると韓国のプロパガンダだと思われても仕方がない。
表現の不自由展を見てもいいけど見てどうなってもしらないし自己責任というのでは自分勝手すぎないかと思う。見た人が怒りを覚えて犯罪を犯したり悲しん韓国嫌いになったり、逆にアートに影響されて日本嫌いになったりした場合の責任、保障は何かあるのかと思うのだ。これはまるで新自由主義で規制を排除して自由にさせるけどあとは自由何も知らないというのと同じでその結果、現在がある。自由にさせるだけでなくもし何か問題があったときの対処、保障、セーフティネットまで考えていたのならまだマシな現在だったかもしれない。投げっぱなしはよくない。別に人がどう思うと自由だしそれが目的なんだからいいでしょ?って思うかもしれない。韓国嫌い、日本嫌いが増えるとどうなるのかを考えてもらいたい。日本は分断される可能性がありまとまれない社会になる可能性がある。日本の良さはどの国よりもまとまれる力があることなのだ。ほとんどみんなが日本語を理解してみんなが教育を受けれて基本的な知識の格差が生まれづらくその結果分断が起こりづらい社会が日本だと思うのだ。もちろん今、格差は広がっていて徐々に分断されつつあるけどアメリカと比べればまとまっていて分断されていない国だ。アメリカは英語の国だけど移民が多く英語をしゃべられない人もたくさんいて英語をしゃべられる人としゃべられない人で見えない分断が生まれていると思うし、規制緩和が行き過ぎてお金のある人と無い人では教育格差、食べ物の格差やほかすべてに格差が生まれている。これではなかなかまとまれない。フィリピンも同じく英語をしゃべられる人とできない人では格差があり英語しかしゃべられないフィリピン人やフィリピンの中の細かくある母国語のうちマイナーな言語しかしゃべられない人とかいて、知識の共有がみんな出来るわけではないことが分断を生んでいると思う。
分断は出来ればするべきではないのだ。国がまとまれなくなり国民の不平不満がたまり犯罪が起きる可能性があるからだ。

アートは同じものでは国をまたげは違う見られ方をするためその国に根付いた文化や歴史によってアートになったりアートとして扱われなかったりする。例えば日本の一部のエロビデオは海外ではアート作品と扱われたりするけど、それはエロの感性が違うからと文化的背景の違いがあると思う。表現の不自由展のアート作品はまったく反日などの意図はないと作者が考えていても受け取る側がどう思うかが重要でそれが誤解勘違いがあったとしても反日と思われると反日作品になる。その国の歴史や文化的背景が影響するのだから表現の仕方を誤れば問題作品となるのは仕方がないと思う。

これらのことから表現の不自由展は限度を越えた表現から日本の分断を生んでしまう可能性があるため中止もしくは内容をもっと精査すべきだと思う。これは日本の将来のためなのだ。

3:日本人は差別ににぶすぎる

間抜けな日本人の墓(時代の肖像−絶滅危惧種 idiot JAPONICA 円墳)、というのをネットで見てこれを芸術なのかどうなのか?と言い合っていることが差別にうといと思った。差別というのをあまり考えないと思うからしょうがないけど特攻隊の寄書きを書いた作品のタイトルが間抜けな日本人の墓というのは限度を越えていると思う。東京新聞 が作者へ取材していてそれを読んで思ったことがある。
作者に対してどうこういうつもりはないけど、展覧会が中止になったことにつてい「民主主義の国でこんなことはありえない」と危機感を表わしたとある。

僕が思ったのが民主主義の国家だから多くの人が不快に感じたなら中止になるのは当然だと思うのだ。憲法は完璧ではないので憲法で表現の自由を保障しているからといって何が何でも保障するべきというわけではない。いつか変わることなんていうのはあるのだ。
民主主義とは何なのか、自由は何なのか?というのを考えさせられた表現の不自由展は意味がある結果だと思う。だけどもう結果がでて役目が終わったと考えたほうがいい。少数派の意見は守られるべきだとも思うけど僕は憎悪を高めてもいい自由なんてないと思う。まるで貧乏になる自由はあるとかいう人と同じ。そんな自由はないと思う。もちろん国家を嫌うことはあってもいいしそれをアートで表現してもいい。アメリカ映画なんて国家を否定する作品は多いし映画はアートだ。マイノリティの意見は多様性で必要なことなのもわかるだけどまた同じことをいうけど限度ってあると思う。少数派の差別表現は表現の機会を奪うべきではないのだろうか?貧乏になる自由は国民にあるという意見をどうどうと言う人の意見は守られるべきだろうか?

違うと思う。国民を落としいれかねない考え表現は少数派であっても警戒すべきであり表現するべきでないと思う。なんでアメリカで中国人の規制が多くなっているかというのと似ている。スパイが多いからでアメリカにお金を落としても結局良い影響を与えないから。悪い影響を与える恐れがあるので中国人が規制されるように、限度の越えた悪い影響があると思われるアートは規制されるべきなのだ。限度を越えたアートをでも許可してしまうなんて過激派リベラルのような過激な考えだと思う。もちろんアメリカは不法移民、犯罪者でも受けいれてきた。それを覆そうとするトランプに批判は高まるけれど、不法移民は何かによって犯罪者になってしまった人はかわいそうな人が多くてその人たちだって受け入れるのがアメリカだというのはあった。でも中国人のスパイは別。かわいそうじゃないしスパイで悪さをすることを任務としている人はいると思うので規制対象になってもおかしくない。それと同じで世間に悪い影響が強くあるなら展覧会はやるべきじゃないんじゃないかと思う。残念だけど。

でも作者のメッセージは差別表現でなく日本を嫌うのではなく

「日本が敗戦から今日に至るまでまで、未だに米国から自立できていないという思いから、日本人は死んだら米国人になる」

というものだそうなので、そのメッセージは高く評価したいと思う。だけど表現の仕方がおかしいから物議が起きるわけだ。ドナルドトランプの生首アートと同じ。表現の仕方が問題。
差別だと思われても貫き通そうとする姿勢はとても志が高い人だと思うのでもっと多くの人の心に響く届くアートを作れるはずと思うし、作ってほしいと思った。残念。

カンニング竹山がAmebaTimes

「アートというだけで、全てすばらしいものだと言わなきゃいけないような風潮もあるが。実際はひとりひとりの感性だし、作品を観た時に、いいアート、”何だこれ”というアート、クソなアート、何も響かないアートなどと、どう思うかは違っていてあたり前だ。それなのに、おかしいと思ったものを止めさせようとか、補助金を出さないというのもおかしな話で、そんなことしていたら何もできなくなる。トリエンナーレに関しても、もう一度やるということが大事だと思う。そして一人一人が冷静に作品を観た上で自分の意見を持つというのが、正しいアートのあり方かなと思う」

と言っている。ぱっと見は印象がいいけど何事も限度というのがある。アートは人によって受ける感情が違うんだから不快になることだってある、だからといって嫌だから中止するのはおかしいというが差別や限度を越えたものは別なのだ。そんなこともわからない世の中日本は平和ボケしすぎているのかと思った。差別を言われても差別と気づかない、それでこれからの多様性の社会についていけるのだろうか?みんなと仲良くするのが多様性ではない、嫌なことも含めて批判も含めての多様性だけど何でも批判を受け入れましょうというのは多様性でなく捻じ曲がった考え方だと僕は思う。差別は受け入れられない、人をあまりにも不快にさせることは受け入れるべきではないしそれはどこの国でも同じだと思う。まるで不快に感じさせるかもしれないアートを見た人達がどう思おうがかってだと言わんばかりの発言だが、それこそ無責任な発言なんじゃないかと思う。カンニング竹山に文句をいいたくないしギャグは好きなんだけど当たり障りの無いことをいう人が多い日本ではそれが無責任なことを言っているという自覚がない人が多いのではないかと思えてくる。差別もわからない感じない日本人は重症なのかもしれない。それだと差別の多い韓国と同じだから韓国との違いを見せるには差別にもしっかり対応、対処できる考え国の姿勢が先進国として必要なんじゃないかと思う。
差別だと思う人がいたり思わない人いるんだから人それぞれでそれを差別だからと一方的に批判し中止するのは不寛容だろうか?僕は違うと思う。それも限度によるのだ。アメリカの例だけどちょっとしたことでも差別になって大問題になるのはやりすぎなんじゃないかと思うこともある、しかし考えてもらいたいのが日本は差別にうとい人が多いということ。これを忘れるてしまうとなんでも批判が不寛容になってしまうんじゃないかと思う。差別は思う思わないじゃなくて一人でも差別と感じたなら中止をするかどうか検討するべきだと思うのだ。
重要なのが中止じゃなくて検討して結果を出すということ。

アートでいろんな人が見ることで違う意見がでて気づけないことを気づけるという良い面がある一方、悪い面があるとしたらそれとどう向き合うかを考えてやめるべきかどうするべきかを考える必要があると思う。例えば一人の日本人留学生がアメリカで原子爆弾のキノコ雲のマークが学校で使われていることに疑問を持って行動したことで地元紙に取り上げられ議論が起こったことがある。議論が良い感じで起こったのは訴えた日本人がキレて何が何でもキノコ雲のマークを使うのをやめろといってわけではないことは重要だと思う。

表現の不自由展はすでに議論が起きてもいい結果が出ている。再開するにはどうするかどうすればお互いが歩み寄れるのか、何が問題なのかを考える良い機会だから不寛容と批判するのではなく考えるべきなんじゃないかと思う。不寛容と思われる人でもそれらを受け入れての多様性であり批判的な人と肯定的な人とどうすればいいかの境界(ボーダー)を理解していかないといつまであってもケンカのようなのはなくならないし不寛容って言われて進展しないんじゃないかと思う。

表現の不自由展は極端な立場の人たちとの対話により多様性の中から新しい価値を生むことを期待した部分があったと思うがそれは行き過ぎている部分があったんじゃないかと思う。アメリカを見てリベラル過激派だってトランプの生首を批判されてひっこんでいるからやっていいこと悪いことがある。
炎上目的のアート作品展はあまり良いものではないと思う。過去にも広島の空にピカという飛行機雲を書いて炎上したこと中止となった展覧会。作者は謝罪しやりすぎたと思ったわけだけど、今回の件も全く同じことが言えるため謝罪した彼らは何を理解して謝罪したのか疑問だ。ピカの件で話されたことが今回活かされていないんじゃないかなと思える。それが良いなら悪ふざけもいじめも芸術と言えばいいのかという話になるし極端な話、死体だって芸術に使っていいのか?という話になる。見る側の気持ちやられた側の気持ちを考えていないアート作品はアートと言えないと思う。アメリカで落書きが多いけど落書きをアートだと主張する人やアートではないと主張する人もいる。僕は落書きはアートにはならないと思う。なぜなら落書きはいたずらや嫌がらせなども含まれていてあとづけで色々な意味づけはできけど見る側がひどく不快に感じるなら破壊活動でしかない。
映画ハウスジャックビルドでジャックは死体を使ったアート作品を作った。しかしどんな理屈があっても殺人をして死体を使ったアートは許容できるものではないと誰でもわかると思う。人の尊厳をめちゃくちゃにし人を殺されるという本当の恐怖に落とし込むジャックのアートは殺人行為でしかない。作者の意向だけでなく見る側の感情をふまえてアートなのかアートじゃないのかの判断が分かれてくると思っている。

もちろんありもしないことを批判することは芸術家に失礼だとも思う例えば韓国人が日本の旭日旗に似ているからといってさまざまなアートを批判するように勘違いによって批判するのはよくない。でも差別が本当に含まれているなら批判中止にされて当然だと思う。成熟した自由主義と民主主義において表現の自由はあるけど差別はいけないというのは大原則だと思うし、差別さえ受け入れるというのが表現の自由なら大阪みなみの漂白剤事件はみんな批判したと思うけどそれも表現の自由で受け入れるべきなのか?ということになる。受け入れるわけないし成熟した先進国であり民主主義国家なのだから差別は断固として反対するものだと思う。
もちろん差別でなくて限度の越えた表現というのも反対すべきなのだ。もしかしたら芸術だから差別表現なのかどうか分からなくなっているんじゃないかなと思ったりする。

もちろん大多数な意見をなんでも尊重するべきということではない、声なき声、少ない意見はすくいあげられるべきだと思う。犯罪者だろうか不法移民だろうがマフィアだろうが少数意見はすくいあげられるべきだ、しかし、差別なら別の話。アメリカは先進国であり成熟した国家の一つのはずだけどKKKと白人至上主義組織はいて存在が許されている。しかし彼らの差別を批判する人は多いし差別する人はアメリカは大問題になり働けなくなったりする。もし政府主導ので差別絡みの展示会があったら大問題になるだろう。テレビで差別発言した人がすぐにクビになったりするのがアメリカなのだ。差別アートあってもいいというのはとても自由な発想だけど僕はアメリカのような差別集団KKKを許してしまう環境が本当の自由な国だと思っていない。間違った自由、行き過ぎた自由というのはあると思う。アメリカの自由は世界の中でも捻じ曲がっていると思うので真似すべきこととするべきじゃないことがあると思う。その結果銃問題さえ解決できないアメリカがいるのだ。なので差別アートは許容するべきでないと思う。もちろん日本の自由も捻じ曲がっているから表現の自由で差別もいいと思ってしまうんだと思う。というか差別に気づかない人がいるんだと思う。

僕はヘイトスピーチはいいと思うけど限度を越えることはいうべきじゃないと思う。

これらのことから表現の不自由展は差別的なアートだと思うのと差別アートは許可できるものではない。どんなに意味合いが差別でなくとも表現方法を間違うと差別にもなるし不快感が高まる。

4:死んだ人への冒涜

表現方法を間違うとで死んだ人への冒涜になる。本人がそう思っていなくても残念だけどそう感じるような見せ方をしてしまうとなりえてしまうのだ。

受け取る側がどう感じるかが重要というのは小学生などのいじめでも同じことが言える。いじめはいじめられる側が悪いという人もいるが明らかにいじめる側が悪いのだ。いじめられる側がどんなに努力していじめられないようにしてもいじめる側の気持ちが変わらない限りいじめはなくならない。そもそもいじめはなくらなない。なぜならいじめる側に意図していじめている場合いじめやすい人を対象にしていていじめて楽しんでいると思う。そういう感情を変えない限りは意味がない。いじめをしらない間にしていたというのはコミュニケーションが欠けていて人の気持が想像できないのだと思う。いじめられる側は少なからずいろいろな面で弱い場合や何かで弱者なケースがあるためいじめられる側を責めるのはおかしいし子供は大人より未熟なことが多く感情表現がうまくできない人もいるから大人が仲介しないといけないとも思う。いじめは起きるのはいじめても大丈夫だと思うからといじめているかどうか分からない想像力の欠如がある。表現の不自由展でいえば人を不快にさせる表現をしても大丈夫という社会が少なからずあるから炎上目的のアートが生まれるんだと思うし、それで人を多く傷つけてしまうということがわからない、わかったつもりでいてもわかっていないのは想像力の欠如だと思う。受け取る側が勘違いしていると作者がいうかもしれないが受け取る側が悲しんで死んでしまういじめはただごとではないので受け取る側がどう思うかは重要なのだ。

じゃ受ける側が思ったもん勝ちかというと勝ち負けとかじゃなくて受け取る側がいじめと言っても周りがそれを判断していじめじゃないと思えればいじめじゃない。なぜなら受け取る側の思い込みもあるし勘違いもあるからだ。結局はそれがいじめかどうかは話し合わないとわからないのだ。
だけれどもトランプの生首みたいに明らかにやりすぎというのはあると思うのでどんなにアートであってジョークまたはすごい意味があっても限度を越えたものがあったらやめるべきだと思う。なので表現の不自由展の再開を表現の自由の元再開するのはいいんだけど作品の見せ方は問題なんじゃないかと思う。それを考えないと再開してもまた問題は起きちゃうんじゃないかと思う。なので中止にするべきなんじゃないかと思うのだ。

死んだ人の冒涜じゃないといっても死んだ人は世間が勘違いかもしれないけど怒り批判してしまうほどの作品に作品を作ってくれて「ありがとう」と全面的に思うのだろうか?作ってくれてのは嬉しいけどもうちょっとやり方考えようって思うんじゃないかと思う。

じゃあどうすれば再開できるのかというと、たぶん一般の人が見ても差別表現がなくて冒涜がなくてかつ限度を越えていないものだったら再開はありなんじゃないかと思う。それらは成熟した国家では良くないとされるものだと思うからだ。とても子供じみた嫌がらみせたいな作品が多いと思うことから作者の意図が素晴らしいものであったとしても見る側の気持ちが作者に賛同できなければそれはアートとはいえないと思う。誰でも受け入れられる批判がないアートなんてアートじゃない!って言う人もいるかもしれない。ここで言っているのは批判がないアートを作るべきではないということではなく限度を越えたものは控えるべきということだ。例えばホームレスが死にかけている写真集アート作品として出したら100%批判され人格を疑われるだろう。トランプの生首のような作品を真似でアートといって日本でやったとしたら国際問題になるかもしれない。限度があると思うのだ。ただ日本は表現方法の限度が他国に比べて自由すぎたところもあるのは事実。

5:中止は表現の自由を侵害していることにならない

表現の自由が侵害されて中止になる場合は脅迫や政府による検閲があると思うのと表現の自由と思っていたけど中止になるのは名誉毀損、プライバシーの侵害など犯罪につながっている場合があると思う。名誉毀損もプライバシーの侵害もない場合は、国民が不快感を表明しやめてもらうようにすることで表現の自由を侵害していることにはならないと思う。表現の自由は絶対に保障されるというのはわかるが、保障はされるが人を傷つけるようなものは表現すべきかどうかアーティストが考えないといけないと思う。検閲はできないから行政は介入しないというのもわかるけど国民の多くか行政に中止を訴えるのであれば行政の検閲という形でなく中止ということになるんじゃないかと思う。
2018年にコロコロコミックの作品でチンギス・ハーンに男性器を落書きした漫画があってモンゴル人からの抗議によってコロコロコミック3月号の中止と謝罪をするということがあった。これは法律どうこうの話じゃなくて相手の感情に答え理解したから中止にしたのだと思う。もしこれを表現の自由があるから中止はできないなんて言い出したら大問題になったかもしれない。この例からも表現の自由は絶対に表現を保障するものだけど表現した内容によっては人と傷つけ抗議により大きな問題に発展する可能性があるので中止も検討しなければならないものになると思う。この例は表現の不自由展で同じことが言えると思うしアメリカでの日本のアニメ、ゲーム表現の変更も同じことが言えると思う。変更されるのはアメリカに抗議をする団体や集団がいるから変更せざるおえない。日本では脅して展覧会を中止にしたけど脅してなくてたくさんの人の声で中止にできればいいのではないかと思う。
表現の自由と誰に対しても当たり障りのない平等な作品は面白みがないのはわかる。映画ハウスジャックビルドはかなり限界に近いホラー映画としてきしょく悪さがあった。それでも公開されるのは表現の自由があるからだろうけど一歩間違えると作者は犯罪者なのか?と疑われるレベルなわけだ。表現はどんなことしていいけど犯罪者、幼児虐待する人じゃないかとか様々思われて私生活で支障がでてくる可能性だってある。なぜなら誤解があっても犯罪者、変人と疑われる人とは距離をおくのは普通だからだ。
アーティストが極端な表現をして何が何でも表現し続けたい場合はリスクを考えた上でやる必要がでてくると思う。アメリカなら銃で撃たれる可能性もあるしダメだけど汚い言葉をなげられるかもしれない。もっというなら黒人風な肌になるように肌をぬりたくってアメリカの公営施設でジョークでもやってみたら差別って言われるだろうし、それを表現の自由だから言論の自由だからといい続けるとあぶないことに巻き込まれる可能性は十分になるしあぶなくなかったとしても社会で普通に生きていけなくなる可能性がある。例えば仕事で雇われなくなる、誰も友達にならない、嫌がらせを受けるとか。アーティストにとっても見る側にとっても強行しようとする姿勢はいい気持ちを生みづらいと思うからこそ、反対する人が多いなら中止にするべきなんじゃないかと思うのだ。
日本だとアメリカみたいなストライキで公共施設が利用できなくなるとか公共機関が止まるとかほとんどないから平和ボケしているのかもしれないけど。
表現の自由の問題はアーティストにとっては重要なのは十分にわかる。映画ジョーカーのように嫌なら自己検閲して家族が見ないように子供にいうとか友達同士で話し合って見なければいいしそれでも言いたい人は抗議をすればいいという感じで公共資金を使っていない映画だからそれでいい。でも税金を使った公営施設がこのような作品を取り扱うことは問題があると思う。炎上するかしないかギリギリのところに税金を使い社会に疑問を投げかけるというのはなかなかすごい多様性を広めそうな考えだけどやりすぎた場合は税金の使い方を間違ったと思うしかないんじゃないかと思う。

法律どうこうの話ではない部分が多いので簡単にいうと常識的な範囲の中で考えての判断なんだけど、難しく言うとおそらく自由、民主主義、正義、平等主義、日本のアイデンティティ、武士道、根本思想、日本の死刑制度という話になってくるだろう。ものすごく長くなりそうなのでこの辺でやめておこう。ちなみに不自由展の監督に対して不平不満はすこしはあるけどものすごくあるわけではない。誰でも間違いをおかすし失敗する。話題になって国民がこんなにも考えていることはものすごいことだから不自由展としては成功したとも思える。失敗、間違いがあったならそこからどうすればいいのかを探っていくことがアートの発展、社会の発展、日本型の民主主義の発展になると思う。考えて話し合うことが重要だと思うので考えがまとまっていなのに表現の自由があるからという理由で再開するのは批判がくるのは当然なんじゃないかと思う。法律だから、規律だから守るのは当然というだけでは嵐でも仕事だから決まりだからと仕事にいくようなもので、柔軟性が欠けているように思う。表現の不自由展がリベラルな発想から来ているからもっと自由に考えて法律だから規律だからを超えた視点から考えてもいいんじゃないかと思う。犯罪をするとかいうんじゃなくて柔軟性の話し。もしかして表現の不自由展はリベラル過激派の人たちが集まった作品展なのかな?

いろいろアメリカと比べたけどアメリカは危険が多いから厳しい意識が日本より多いというのもある。そういうふうに考えると日本は平和なんだなぁと思う。
重要なことに日本を分断することで喜ぶ勢力は世の中に必ずあるということ。特に反日勢力は喜ぶだろう。中国、韓国などの反日を喜ばすようなことは日本人として好まないと思う。なので冷静になる必要があるので反対がたくさんいるのに強引に展示を再開したりするのはよくないと思う。けっして不自由展がダメだということではない。不自由展は面白い試みだと思うけどあまりにも分断があるのであれば少なくとも僕は喜べない。分からない人がいるかもしれないから言うけど、分断した先にあるのは犯罪の増加、平和でない社会、例えて言えばアメリカのような社会で、その先にあるのはお金を絶対的に信頼し他人を信頼しない中国社会のようなことにもなりかねないと思う。分断された国はもしいろんな意味で戦わないといけなくなったとき、戦争もそうだけど、戦争だけじゃなくてスポーツや仕事でも協力してやらないといけないことで問題を抱えてしまうんだとおもう。それが国力を下げて本当に戦争になってしまったときに負けるんだと思う。古代ローマとカルタゴという国が戦ってローマは勝利したけどその理由の一つにカルタゴは日本みたいな平和な国だけど戦うときになって傭兵を外部から雇用して雇用された兵士は忠誠心は薄いから兵士が少なくても忠誠心の高いローマに負けてしまう。分断されるようなことは社会にとっても国にとっても良くないと思うのだ。

もうちょっと色々本をみて勉強してから考えたかったけど時間がなくてネットで調べたことと色々な事例から考えた。

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