男らしさについて調べてみると
・強がる、強くないといけないと思いたがる
・勝ちたがる
・鈍感だから強くて前向き
・どんなに辛くても耐えないといけない、弱音を吐けない
僕も先輩後輩の関係で同じような気持ちになったことがあるので分かるが、基本的に僕は全部嫌いである。
無理に強がることは心が可哀想な人に見えるし、弱音を吐けないという強迫観念を持つ深層心理に持っていてビクビクしているようでそれも可哀想になる。
失業率と自殺率に相関関係があると言われるように強い男性像、お金を稼げてこそ男性という強いストレスを抱えている人が多いんだと思う。
冷静に見ると男性の固定観念は兵隊のようで気持ち悪くなるのになんでそんなことを信仰しているんだろうと思うと、もうその男性像捨てれば?って思う。
強がってばかりでビクビクしているのがわかると、やっぱり全然強くないしそんなに自分に嘘ついて生きたいのかな?と思うのだ。
僕は先輩と勉強したり遊んだりすることでも強く男を求められ僕は嫌だったことがある。
ただ強いよりもかわいいもの、かっこいいものが好きだったし好きと言いたいし、鈍感なだけの強がりで傷つきまくるより、冷静に自分をケアして体調や気持ちを考えたい。
男なのに女の子の絵を描いているの?とか男友達に言われることもあったけど、何がいけないのか、心が狭い人だ、と思って無視することもあった。
弱さを語れない男性像こそ狂っていると思うし、狂っていることに向き合えないことこそ弱いともいえる。
僕はみんなが思う「男だから○○してはいけない」という生き方をしたくても訳あってできなかったことが長くて、男らしいや女らしいを気にすることがあまりない。結果として気持ちは楽なのである。
そのためか、男性女性を気にしないからカラオケでも女性ボーカルを僕が好きな無理のないトーンで歌って周りに嫌がれたり、ゲームでも男性キャラだけで満足いかず女性キャラを使ったりするとネカマかと言われるし、かわいいとか好きとか言うと女っぽいこと言うなと言われ、る足り、様々なことで男らしくないとか言われてきた。でも男女とか関係ないって言う人はたくさんいるはずだけど多くの人はおそらく男性像に縛られているんだと思う。その結果が失業と自殺の相関関係なんだと思う。
恥ずかしいから、気持ち悪いから、女々しいからとかで気持ちを言えないことって逆にかっこ悪くてダサくて、自分を追い込んでいるドM男が頭が狂っているだけのようにも思えるのに何でかそれに気づかない。
男性としての重圧があまりにも強くて、周りを気にしてそれが自分のことしか考えていなくて人に助けを求められないことの心の弱さ。
それで自殺まで追い込まれる人がいるのは可哀想ではあるけど、全くカッコいいものではない。強いことを求めなければいいのにそんな生き方しなければいいのにその生き方しかしらない、出来ないことに本気で生きている人はいないんだと逆に思えてくるのだ。
なぜなら誰かが作った理想像の男性を何も考えないで信じて思考停止しているのは平和ボケをした日本で簡単にデマに走る思考停止した人と何が違うのだろうかと思うのだ。平和ボケでは本気になれない。本気で生きていないのだ、いやある意味本気で男性像に近づけようとしてい生きている結果だろうけどそれが幻想ということを考えられないことが、本心と向き合えず自分自身に本気になれていないと思える。
自分自身に本気になれないとは簡単に言うと男の子が女の子にちょっかいを出すけど本心では好きなだけ、でもそれを言えないから気持ちを隠して手を出すのと似ている。本心を伝えることが怖くて好きな子と自分の気持ちが直面する怖いかもしれない対人関係に本気に向き合えていないのだ。だから本気じゃないと僕は思う。
辛くて自殺した人にも申し訳ないが本気なら自殺して死んではいけない。死ぬことで悲しむ人の気持ちを考え、自分の人生はたくさんの人がいるから今があるわけで自殺を簡単にしてはいけないのだ。自分だけが解放される死へ逃げるのはズルいと思わないことこそ恥ずかしく弱くダサい人間だ。残された人が一生罪の意識で苦しみ、下手したら自殺してしまうかもしれないことを考えると卑怯と思ってもしょうがない。生きる責任の放棄である。責任ある生き方を求められたはずなのに無責任にもほどがある。自分には関係ないと責任転嫁して自分のことだけを考える人はかっこいい人間だろうか?
つまり女の子っぽいことを言ったりするとバカにしたりすることが逆に男性を苦しめているのである。だから女の子っぽことも受け入れる心を持つほうが僕はいいと思う。
かわいい色にかわいい、好きな香りに好きということこそ色にも香りにも本気で生きていると言える。それが男性の株を下げることにはならない。男性像に逃げることは様々なことに本気で向き合えないことであり、無意識にでも本気で向き合っていないから結局社会を苦しめる、そんな社会を苦しみに落とす幻想を持つことこそ株を下げると思う。どれだけの人が男性像に苦しめられて自殺したかを考えれば、そんな男性像にしがみつくことこそ間接的に自殺を助長し人として株を下げると思えないのだろうか?
狂った男性像がLGBTや女性さえ苦しめると思うのも、もし狂った男性像が無ければLGBTは異常な男性像と本人の心のギャップに苦しむことは少なくなるだろう、女性も社会にはびこる男性像が求める女性に無理に近づこうとしなくてすむだろう。狂った男性像にあわせようとすると狂った女性像になる。胸は大きくないと、見た目は可愛くないと、おしとやかじゃないとスペックの高い男性と付き合わないと、と苦しい戦いに巻き込まれていく。男女共に自滅の道のようである。絶望の先には何があるのか死か喜びか、多くの人が怖がった映画ミッドサマーのラストの「ニヤっ」とした不条理なカタルシスか。
兵隊には厳しい序列があるのはわかるが兵隊でもない普通の男性は普通に生きるべきなのである。弱さを語り合える場所さえないし弱さを見せるとバカにされたり低く見られることを恐れていることが僕にはピエロに見える。しかも狂ったピエロに。
そんなことをいうと男性の気持ちを分かっていない社会構造をわかっていないと思うかもしれないが事実を言っているだけなのだ。社会構造が間違っているとしてもそれに合わせようと生きることは「フリ」をして生きているわけだからピエロと何が違うのかと思う。それを認められないことこそが弱さえ自己中心的な考えなのだ。傷ついた人はたくさん周りにいるはずなのに自分の自己中により迷惑をかけたことを謝ったほうがいいだろう。それが出来なければ人間失格である。自分勝手にして自分だけ傷つきたくないからと逃げて無意識にも周りのLGBTやら女性などを巻き沿いにして傷つけて恥ずかしくないのかと思う。そんな本当の自分に向き合えない自身のない人はかっこ悪いはずである。人は後ろ向きになりたいときは後ろ向きになればいいのだ。
それらを分からないから男性像にしがみついているのだ。だた男性だけを責めてもかわいそうなので女性側も言えば女性が持つ男性像も男性が近づこうとして辛くなるのだ。結局、固定観念を持ってるとみんな辛くなるだけなんだと思う。お互い勘違いである。それを恥ずかしいと思えないことが謎である。
男性像が嫌う勘違い、無責任、自身のなさ、弱さではなく男性像によって生まれるそれらを考えられないことこそ自分勝手で愛のないことではないだろうか?愛の無い人はカッコイイだろうか?
これらは言い出すと社会構造にも同じこと言えるだろう。だからなかなか変えることができず男性側も男性像にしがみつかないといけないのもわかる。男性像から離れると間違いなく社会的に問題が出てくると僕は思う。まず部活でも運動部では女っぽいということでのけ者、意思が弱いとか思われることも使えないヤツだと思われる要因になるかもしれない。自分だけ変わっても社会が変わらなければ辛いのは変わらないのだ。ではどうすればいいのか、というと本当に男性像に縛られなくなければ、男性像があまりない場所に移動するしかない。
男性像で特につらいのが競争だと思う。負けないようにしようとするから弱音を吐けない、強いフリをして辛くなるのであまり競争がをしない選択をするしかないと思う。例えば就職しないで収入を得る方法を模索するとか、コストが低い別の国に行く、日本国内でもコストを落として生活できるようにするか、ヒキコモリかと思う。ゆるい対人関係を形成できることが大切なので自分のペース生きられることが重要なのだ。そんな人に付き合う女性はいないだろう、将来設計も出来ないじゃないかと思うかもしれない。でもそれこそ思い込みなのだ。世の中にはお金のことしか考えていない女性だけでなく価値観が合う人を求めている人もたくさんいると思うし、日本人以外を選択肢にいれれば日本社会になかなかなじめず苦しんでいる人もいて意気投合する可能性もあるかもしれない。将来設計も誰かの理想にあわせるよりも自分の理想を持つことを優先すれば無理な将来設計をしなくてすむんじゃないかと思う。無理して生きない好きなことは好きと認める弱くて女性っぽくて何がいけないのかと思える社会が来ればいいなぁと思う。