近藤 麻理恵とは部屋の片付け本をアメリカで出版して有名になった人なのだけど、アメリカの有名作家に近藤は嫌いと言われて差別問題にまでなっちゃっている。
作家は謝罪をしているが、あえて僕は本心こそ最初の言動にあったのではないかと思っている。
後からであればジョークといったり嘘といったりなんでもいえる。
その本心のような最初の言葉を考えて、それが差別なのか差別じゃないのかと考えてみた。
特にアメリカはすぐに差別につなげる印象がるので本当に差別なのかを考える必要がある。
まず作家バーバラさんがいったことは
「白状します:私はこんまりが嫌い。なぜなら美的な感覚で言うと、私は散らかってる側の人間だから」
「彼女の言葉については、個人的には、彼女が膨大な数のアメリカ人視聴者に対して英語で喋らなくても別にいいけれど、(こんまりが英語を話さないことが)超大国としてのアメリカの衰退を示唆しているのは間違いない」
というものだ。
そして批判の一部は
「本気?こんまりが英語を話せないことは、彼女が日本人で、異なる文化から学ぶことがたくさんあるという意味でしかないと思います。日本語を話せない私たちにも、片付け術を教えてくれるこんまりに感謝しています」
「英語が第一言語ではない優しいアジア人の女性から、アメリカ人が一生懸命学ぼうとしている姿は、この排外主義が強まっている時代において、希望を与えてくれるものの一つだと思うけど」
「むしろアメリカの衰退は、世界中のみんなが僕たちの言葉を学んでくれることばかり期待して、他の国々みたいに、子供たちに外国語を教えたり、他の文化がいかに大事かを教えたり、他の言葉にも耳を傾けるべきだと教えたりしようとしないことにあると思う」
というものだ。
これ以外にも批判はネットにたくさんあるが、あえて僕はバーバラさんの発言は差別でないという立場で物事を考える。そしてその考えは近藤さんを批判するものでもない。
バーバラさんは間違っていないという考えをいくつかあげていく。
1:散らかっている部屋が好きな人は片付けをすすめてくる人を好きじゃない。
僕は作家バーバラさんがいうような散らかっている美的感覚をリスペクトする。見た目が雑、色がめちゃくちゃで整っていない、物がどこにあるかわからないけど本人はどこにあるかわかっている。そのようなほかの人がみたら汚い部屋にも実は美学があるのだと思う。その点から近藤さんだけじゃなくて数々の片付け術が教える方法は僕もあまり好きでは無い。僕の部屋は汚くもなく綺麗でもない。引越しを考える場合あまり荷物をもてないというのもある。しかし、映画ブレイドランナーのような荒れた町々や汚れているシーンからは冒険心をくすぐる見て楽しいものがあるようにディストピアにはユートピアが隠れていて美しいと思うのだ。
一般的に考えて散らかっている部屋が好きな人はそれを片付けろ、といってくる人を好きじゃない。そのためバーバラさんが言ったことは一般的な意見とかわらないので差別かどうか疑問である。
付け加えておくと美学の無い乱雑な部屋は怠慢でしかない。ただ汚い部屋とわくわくする汚い部屋では違うのだ。個人的にはもしあるのなら美的な汚い部屋のすすめのような本がみたい 笑
片付け術の好きなところは、綺麗にまとめようとする、色をそろえる、いらないものは捨てるといった物をほったらかしにしない考え方がちりばめられていると思う。その点は素晴らしい。
綺麗にしたいのであればするべきなのだ。そしてその美学と哲学を学べばいい。
2:英語をしゃべらないで生きられるアメリカが示すことはアメリカの衰退をあらわしている可能性はある。
インターネットは簡単に人を批判することのできるツールだと思う。そしてすぐに聞こえが良さそうな方向に人を誘導させやすい。ここで言いたいのは日本でもアメリカでもインターネットで言っていることの反対に真実があることが多いということだ。
作家バーバラさんは頭の良い人だ。歴史問題、女性の人権、時事問題や経済関連のことを考えることが得意な人である。20冊以上の本を40年以上かけて出版している。アメリカを見続けてきた人なのだ。
このような人の発言を簡単に差別だと批判することが出来るだろうか?
批判では近藤さんが英語を話せないことは批判しているかのように言っているが、そもそもバーバラさんは近藤さんが英語を話せないことを問題にしていない。ただ近藤さんをアメリカの衰退の象徴として扱ってはいる。それは近藤さんが英語をしゃべらないのは問題ということではなく、英語を使えない人が増えるとアメリカはどんどん衰退していくのではないかと言っているのだ、と思う。
どう衰退しているのか、たぶんだがその国の言語をしゃべることができない人が多くなればその国には問題が氾濫してくると思われる。コミュニケーションがとれず何を考えているのかわからない。テロなども起きてアメリカは英語圏だから英語をしゃべることのできない人とは意思の疎通がうまくできず不信感さえ抱きかねない、というのは誰でも想像ができると思う。その結果、排外的な考えが広がるんだと思う。日本は言葉の壁がしっかりした国だからわかりづらいだろうが、もし日本語をしゃべることができない人がたくさん増えれば日本の文化が損なわれていくとおもわないだろうか?そうなると今までの日本の価値観も変えていかなければいけない。それはグローバル化でもあるし、日本の伝統文化の衰退とも言える。僕はなんでもグローバル化はいいとは全く思わない。グローバル化を押し進めているアメリカだけど、それがアメリカの文化を壊して、不法移民の増加や犯罪が増えたり違法なことが当たり前に行われる社会にどんどんなっているとすればそれは衰退の方向に向かっているのと同じである。
日本がアメリカより平和なのは明きらかに言葉の壁があるからだ。英語のしゃべることのできない人が当たり前に仕事ができるようになっていることは良いことだけども危険も潜んでいるのだ。アメリカを見続けてきたバーバラさんだからこそ、普通の人の目に見えない衰退があるかもしれないとバーバラさんは感じているのかもしれない。
そして批判にあるように、アメリカの衰退は世界中のみんなが英語を学んでくれることばかり期待して、アメリカ人が他国の言語や文化を学ばず傲慢になっているから、日本語で教えてくれる人にも耳を傾けなければいけない、というのはわかる。
でもそもそもバーバラさんは近藤さんが英語でみんなにしゃべることに反対していないし、他の言葉からも学ぶことを批判もしていないし、アメリカの衰退をあらわしているのではないかと、話している。
そのためアジア人だからとか、他国の人からは学ばないといった差別的な発言ではないのだと思う。
僕はその国の母国語を学ぶことはその国にとっての防衛にもなると思うし、文化が失うことも防げると思っているのでとってもいいことだと思う。アメリカでは英語をしゃべることのできない人でもいろんなサポートがあって仕事ができたり、学校にいけたりする。しかし、その人達に英語を学ばせようとしてこなかったことは教養が無い人だって簡単に寄せ付け国内が荒れて衰退につながる問題になるだろう。異文化が集まるアメリカだからこそコミュニケーションは重要なのだから、共通の言語として英語は学ぶ必要はあるのだと思う。それが国民の言葉が通じない異文化の人達への不安を取り除き地域の安心感も増すのではないかと思う。
今はアメリカではたくさんの人が英語をしゃべっているけど、もしこれが半分以上の国民が英語をしゃべることのできない人だらけになるとどうなるのか、アメリカは今以上にまとまることの出来ない国になると思う。それが衰退なのだ。
3:付け加えていうならアメリカ人がしなければいけないことは英語以外の言語も学ぶこと
英語を使わない人が生活できるアメリカ社会が衰退を表しているというのは半分正しい。
しかし、グローバルを押し進めるのであればアメリカ国民は英語ともう一つ別の言語もしっかり勉強するべきなのだ。それがアメリカの発展につながると思う。
アメリカの文化は他国に比べれば乏しいがそれでもアメリカにはアメリカの文化がある。アメリカには公用語がないなんていうけど、全くの嘘だ。どこいっても英語だし、電話でも英語、全部英語が基本。スペイン語、中国語も多く使われるけど基本は英語。英語がしゃべられないと生活が難しくなるのだから公用語は明らかに英語なのだ。
もちろんアメリカには英語をしゃべらない人に対して差別する人はいる。それはもちろん悲しいことだけど、そのような差別する人が少なくなるためにもアメリカ人がしないといけないのは英語以外も学ぶことなのだ。言語から他国に興味を持ち、他国の文化や考え方を学び、言語を学ぶことの大変さを理解するということだ。そしてアメリカにいる外国人もアメリカの文化を理解するために英語を勉強し続けるべきだと思う。
違う文化が共存するとはお互いが常に勉強しなければいけないことであり、勉強が嫌いで好き勝手にやらせていてはなりたたない。国際結婚でうまくいっている人はお互いがそれぞれの文化や考え方を理解しようとしているし、それがすれ違えば離婚となる。結婚する前からそれぞれの文化や習慣について理解をしてこなかった家庭は後から「こんなのじゃなかった」といって離婚する危機にもなるのだ。「相手の家庭は日本で考えられないことをする」、とか「なんでそれを外国人の妻や旦那は教えくれないのか」とか、お互いじっくり理解していかないといろいろ問題になるのだ。なのでコミュニケーションは重要だし、相手の国の言語を理解することもしたほうがいいのだ。
その点からアメリカの異文化がごちゃまぜになっていて排外的な考えが広まっているのは、国際結婚の離婚危機みたいな感じでアメリカは英語をしゃべれない人ばかりになると、バラバラになっちゃうんじゃないの?っていうバーバラさんの考えもあったんじゃないかと思う。
そもそも発言している人の内容は立場が上目線に思える、上でも引用した批判内容をもう一度見てみる。
英語が第一言語ではない優しいアジア人の女性から、アメリカ人が一生懸命学ぼうとしている姿は、この排外主義が強まっている時代において、希望を与えてくれるものの一つだと思うけど
これは英語圏が上で英語を話せないかわいそうなアジア人女性が一生懸命学ぼうとするのは、英語をしゃべられない人をのけものにしていこうとする時代に、勇気と希望を与えるということだろうけど。
かわいそうなのはどっちなんだと、僕は思う。アメリカの英語が一番と思っている偏見が差別を生み世界を分断してるじゃなのかと。だからバーバラさんの意見さえ色眼鏡をかけてしか見れてないじゃないのかと。そんな優しさの言葉は嘘と何が違うのか。現在のおかしくなっているポリテクと何が違うのか?それが逆にアジア人を生きづらくさせているんじゃないかとも思う。
話をまとめるとバーバラさんの言っていることは差別ではなくてアメリカの衰退を表しているのではないかと言える。アメリカ人はネットでもネット外でも簡単に批判するけど、批判するまえに何が衰退なのか考えてもらいたいと思った。そしてアメリカ人は他国の言語も勉強したほうがいい。
それとバーバラさんがもし正しいことを言っているのなら正しいことと言えばいいのだけど、アメリカの差別に対する批判は想像以上に強くて社会でまともに生活できなくなる人もいるだろうと想像するぐらい批判がある。そのためバーバラさんはあまり話を大きくしたくなかったのではないかと思う。さらにアメリカの衰退が本当にあるのかという証拠を出すなんていうのはものすごく大変なことになると思う。衰退は数字だけでなく数字では見えない部分でも表れるため証拠を出すのは難しいと思う。バーバラさんの長年の勘やセンスでの発言ではみんなが納得できるような信憑性は薄いと思われる。僕は数字だけじゃないところが重要だと思うのだけ、一般的にいろんな人が世の中にはいるのだから数字がないなら理解させることは難しくなるだろう。特にロジカルシンキングばかり必要と言われてきた世界では難しいだろう。そう考えると謝って間違ったユーモアとでも言って退いたほうが賢いのかもしれない。
ちなみに、片付け術は昔からたくさんのいろんな人から本がでているけど近藤さんが有名になれたのはNetfilixのおかげでもあるだろう。まだまだ日本のコンテンツは海外に発信されてないんだなと改めて考えさせられた。近藤さんのように物を感謝して捨てることやときめくかどうかで捨てるかというのは近藤さん以外の人もやっている人は少なからずいると僕は思う。近藤さんが日本文化の象徴というか、前からあったメソッドなので物を大切にすることや感謝するというのは日本の考え方の一つでもあると思う。でもかなり片付け本を調べて何冊も読んで自分で考えて綺麗にしようとしないとなかなか誰しもが真似できないとは思う。僕は家に入って挨拶はしないけど、もし思い入れのある部屋や物なら感謝するかもしれない。例えばパソコンが壊れたとき、僕は本当に気持ちが落ち込んだんだけど、なんとか修理して直して復活したときはパソコンが動いてくれてことに感謝してしまった。もっときれいに使おう、掃除こまめにしよって思ったことがあった。電源をつけるたびに、今日壊れるかもと思いつつ今日も動いた良かったと思いつつ感謝したりもする。買い換えるのは簡単だけど思いいれのあるパソコンだと買い換えて売ってさよならって訳じゃない。たぶんそれと同じで家にも強く思いいれがあれば感謝はするだろう。
しかしときめくかどうかで捨てるかどうかを捨てるという判断の仕方は経済観がなく経済損得のない考え方なので一般的ではないと思うことと、現代社会で好きなものばかりに囲まれて生活している人は少ないからコンマリメソッドにちょっと納得できないところはあるかもしれない。言ってしまえば資本主義型の考えの経済倫理による片付けの仕方と近藤さんのような経済倫理を取り除いた気持ち共感第一の考え方。例えていうなら気持ち第一型は、気持ちで行動してしまい先輩や先生におこらえるパターンなため、一般的ではない。もっと例えるなら、経済倫理を持ち込んだことで裁判では同じ人間の死でも支払われる金額は大きく変わる。でも気持ち第一型であればどれだけ悲しいかを感じることで価値が変わるのだ。裁判員型とでも言ったほうがいいだろうか。でも僕はこの自分がどう思うか、という片付け方はわかる。例えば僕の好きなフィギュアがたくさんあっていくつも捨てなければいけないとしたとき、持つことが必要にないと思うものを探すのに触って感じるものがあるかどうかはものすごく重要だと思う。服が好きで好きでしょうがない人が服を捨てるのは自分の一部を捨ててしまうようなものだというが、その中でも捨てるものを選ぶときにときめくかどうかは判断基準としていいと思う。
でも不思議なのがこのコンマリメソッドが珍しいまたは新しいものとして取り上げられてしまっているのは、世の中の製品の尊厳というのは低くなりつつある時代なのかもしれない。物が大量にない時代と大量にある現代では物に対する思いや大切にする仕方は明らかに違うはずだ。今は物が大量にある現代に生きているからコンマリメソッドが新しく見えるのだろう。物が大量にある時代は物に対する思いは薄くいいかげんにでも物を捨てられる。特にアメリカは物をいいかげんに扱う人が多いし食べ物を投げたりして遊ぶ人が多いから、その点からアメリカでは物に近藤さんのように感謝する、感じる、という人は日本より少ないだろう。だからアメリカでは近藤さんのやり方は目新しくて面白いのだ。なんせ近藤さんは人生を賭けて片付けについて小さい頃から考えてきた人らしいから他の人とは違う考え方をしているのは仕方ない。でも人生を賭けているからこそどう捨てるべきかを考えたとき、物を尊重できるかどうかに重きをおいてしまうのはわかる。
ちなみに近藤さんは服を選ぶときによく触ってときめくかどうか確かめるが、僕は服にあまり思い入れもないからそんなことはしない。でもパソコンとフィギュアは廃棄するべきかどうか触って確かめる。でも近藤さんのようにときめくからって体全体で表現なんてしない、体全体の表現は嫌いじゃないけど 笑
そして僕がこの気持ち型の片付けの仕方でちょっと嫌いなところがある。それは気持ちが優先して気持ちをこめたように物を大切に握ったり触ったりするところだ。いいんだけど物を大切にしたい場合は傷つけたくない損傷を与えたくないと思えばあまり気持ちをこめるために触ったりしたくない。ちょっと触るのはいいと思うけど。例えば財布を気持ちをこめて抑えるように触るとか、財布がつぶれるから僕はしたくない。形が崩れるから嫌なのだ。でも近藤さんの触り方からは優しさが感じられる。つまり優しさの程度と表わし方は人によって違うんだと思う。僕がもし服を触ったら神聖なものを触るかのごと手を置くだけで大切かどうかを考えるかもしれない。それは僕が体に着れないものばかり好きだからなんだと思う。もし僕が服を大好きなら、服は身につけるものだから、服を触り服を抱きしめ考えるかもしれない。
アメリカでこの近藤さんのやり方を分からない人っているんじゃないかな?って思う、なんで捨てるものにも感謝しなければいけないのか、と。それだけ信仰心が欠けている人が増えて、大量消費、大量廃棄が進んで見て分かりやすいものしか理解できない人が多くなっているのだ。映画のアヴェンジャーズのようなものでエンタメ映画として楽しめない人が増え頭で考えることができない人が多くなっているのだ。だから日本の宗教観に近い近藤さんの考え方はアメリカにとって珍しくてとても神秘的なんだと思う。逆にコンマリメソッドが嫌いな人はコンマリメソッドのせいで消費が落ちると考える人だろう。大切さよりどんどん捨ててどんどん買ってと。経済、教育、生き方は今のままでいいんだという人だろう。それか何も考えていない人か。コンマリメソッドは自分の思考のタイプ、生き方のタイプ、魂のタイプまで意識させてくるのだ。
コンマリメソッドが広まればアメリカの大量消費社会がもしかしたら変わるかもしれない。それは国民の考え方が変わるまでに3,40年は必要とすると言われているから、なかなかアメリカが変わるわけではないだろうけど、40年間もこの片付け方をたくさんの人が続けたらアメリカは大切にするという考え方が進み、極度の個人主義が抑えられ極端な貧困も改善されるんじゃないだろうか?
ドナルド・トランプを見ると怒りっぽいのがわかるが、アメリカにはトランプみたいに怒りっぽい人は意外と多いと思う。
コンマリメソッドは物と自分との対話なわけだから、ぶちきれやすくて「対話なんていいから、やれよ!」っていう人たちには向いていないメソッドだと思う。それは冷たくて心の無いことで自殺者がいても鬱が増加しても「そんなの知るかよ。自己責任だろ」と言って切り捨てているようでもある。共感ベースの切り捨て方のコンマリメソッドは死刑制度さえ変えてしまうかもしれない。どこに正義があるのか、どこに救いがあるのか。死者への気持ちに寄り添い悲しめることは高度な文明社会だからこそできるはずだけど、現在は死者をビジネスとしか考えていない人は多いと思う。だからなのかコンマリブームはすでに社会が今までの切り捨て方を疑問に感じ変わりたいという希望と願いも含んだ経済倫理だけでは見えてこない理由があるのかもしれない。
コンマリメソッドを根気よく続けていくことがアメリカ人にできればアメリカは変わるだろう。
まぁ、一時のブームでずっと続くわけではないだろうし、アメリカ人はテキトウな人が本当に多くてコンマリメソッドを続けていけないと思うけど。
そして近藤さんの人気から思ったのが綺麗にするだけじゃなくて日本的な部屋の改造というのはアメリカでウケるのかもと思った。日本にはたくさんの部屋を安く改造するアイデアというのがたくさんある。アメリカでも自宅を改造する人が多いけど完成した見た目の綺麗さで言えば日本のお部屋改造のほうが魅力的だろう。
追記:アリソン・ローマンがクリッシー・テイゲンとコンマリを叩いていたことについて
CNNの記事でアリソン・ローマンが差別発言をしているものをとりあえげていた。
アリソン本人も差別発言で誤っているが気になることを言っている。
インスタグラムに投稿された文を僕なりに翻訳すると
「私はクリッシー・テイゲンとコンマリに正式に謝る必要がある。彼女らの名前を軽蔑して私自身と区別するために使ったことに弁解の余地はない。バカで軽率で無神経だった。
私は”フィルタされていなことと正直であること”VS”無教養と軽薄なこと”について学んで尊敬する必要がある。私には彼女らに教える責任はない、そして私の学びためにテイゲンとコンマリを犠牲にして本当にごめんなさい。彼女らはとても一生懸命働いて今の居場所を手に入れているし、両者は私のずれたことより価値がある。
今週私自身になぜ私は言ったのか、何を言ったのかをたくさん問いかけた。
誰かを傷つけることなく私自身のことを言うことはできなかったのか?
間違いなくできたはずだし、出来なかったことが恥ずかしい。
たくさんの心が落ち着かないことがある中、私のコメントは私自身の自信喪失が根源なんだと気づく。他人と比較したり他人を叩いたりせず私の成功を認めることが出来ない。私は間違いなくこれらのことに苦しんでいることを理解し、修正しようとしている。私はこんな人にはなりたくない。」
気になったところは
「私は”フィルタされていなことと正直であること”VS”無教養と軽薄なこと”について学んで尊敬する必要がある」
つまり謝っているが自分は正直に言っただけで悪いと思っていなかったけど、正直さと軽率な発言の違いについて学ばないと差別になるんだねと、言わなくていいことまで正直に言ったことは自分自身の自信のなさんだ、それが原因で人を傷つけてごめんなさい、ということだろう。
アリソン・ローマンは彼女のビジネスの信条を言っているだけで、もちろん暴言に近い言葉で言ってはいるんだけど、別に差別じゃないんじゃいなかと思えてくる。
好き嫌いをいうことは普通、私は違うと信条を言うことでファンだってできるだろうし。アメリカでは大きな態度をとる人が多いのは自信のなさが隠れているからだと思うから、自信がないことでした、なんていう答えをいうことは分かりきったこと。そのため僕は「ふーん、信条は否定していないから撤回はしないという意味かぁ」である。
たぶん謝っていても本心は「二人とも名声使って金稼ぎやがって、自分はそんなことしてないのにふざけんな」である。
それに「自信のなさが根源」という発言もあるあるな回答で、人間誰でも突き詰めたらその回答になるはずだから本当のところ反省はしていないことと一緒。僕はそういう傷つけたのは謝るけど私の信条は間違っていないから!っていうようなメッセージは嫌いじゃない 笑
さすがアメリカ、謝ることを嫌う人が多いので謝っても自分は間違っていないという強いメッセージがあるように思う。
そもそもアリソン・ローマンの「近藤麻理恵さんは、自分の名声を利用して自分のブランドのグッズを買わせようとしているけれど、それは彼女が言っていることとは全く正反対です」ということに賛同する人だっているだろう。
これを妬みともとれるが、今の世の中、たくさんの人が騙されて貧困拡大していてドナルドトランプ出てきたようにグローバリズムから後退していこうという考えはあるため、名声で金稼ぎしだすことに嫌悪感を感じる人はいてもおかしくない。
この問題は全開のバーバラさんの件と同じだと思う。
結局、アメリカの行き過ぎたポリコレ問題で「それ差別っていうのはいいすぎじゃないの?」っていうことを何でも差別にしてみんな発言しづらく生きづらくさせちゃっているんじゃないかと思う。
もちろんアメリカでは言ってはいけない言葉というのがある。どんなに仲が良くても白人が黒人にニガーと言うと差別になり仲のいい友達でもケンカになるかもしれない。だけど、笑って済ませれないぐらいポリコレが行き過ぎちゃっているんじゃないかと思うのだ。
アメリカに限らず西洋社会ではこのようなことがあると思うのでステレオタイプな人が多いんだなぁと思うのだ。
黒人は白人警察に殺されやすいんだ、偏見をもたれているんだというのも分けるけど、それは社会問題を解決してこなかった政治の問題は強くあると思うので偏見をやめろといってもやめられるほど安全な社会じゃないということ。
例えばコロナでマスクをしていない人はたくさんいる中、日本人の僕がマスクをしていなくてUberに乗ろうとした乗車拒否されることがあった。それを周りの人は差別だというが僕が逆の立場なら乗車拒否したくなるのはわかるので差別というのは言いすぎだと思う。でも「差別と言うのは言いすぎだ」というと、「そんなことない」というのである。僕はどうしても理解できなくて言いすぎているだけにしか聞えない。実際にポリコレで困っている人はたくさんいるわけだし。
だからこといって僕はコンマリを否定しているわけでなく、名声使って稼ぎたければ稼げばいいし、アメリカで外国人が頑張るのは大変なんだから稼げるんだった稼げばいいと思う。人間完璧じゃないんだからやっていることと発言が違うことだってある。だからコンマリを否定することもない。
でもアリソン・ローマンの発言もつぶすほど叩かれることじゃないんじゃないのかな?と思うは普通に考えて後で自分の発言を深く考えるような真面目な人がいつも差別しているようにも思わないし悪意なんてないと思う。悪意がなければいいという話じゃなくていつも言っているようなことを言っただけなんじゃないかと思うのだ。それがたまたまアジア人相手だったから標的になっているだけで客観的に考えると普通なんだよね。クリッシー・テイゲンもコンマリも言われる筋合いはないからアリソン・ローマンが言わなければいいだけだけど言っちゃうから叩かれるわけ。
ただ、ツイッターで叩いている人の名前を見ると韓国人の名前やトランプ反対の人がちらほらいたことも気になる。今回のようなポリコレ関連は左派が叩きやすく、左派の良いように利用されちゃっているんじゃないかなと思ったりもする。そもそもアメリカのCNNが今回真っ先にニュースにしていたので、CNNは中国資本の企業と言われているらしくトランプのフェイクニュースを出したり左派と中国側にメリットのあるようなことをしているらしい。なのでそう考えるとやっぱり何か左派の工作が関わっているのかな?と疑いたくなる。
ただ有名な人や発言力のある人は人を叩かないほうがいいとは思う。周りの人の心は広い人ばかりじゃないから。