目次
- ダニーは共感されたい
- 監督のセラピーだからクリスチャンは死なないといけない
- 僕が感じたアートを通したダニーと監督の気持ち
- エンディング曲から見える映画の意味
- もう一つのセラピーの可能性
ページ2
- 社会的メッセージ
- 気持ち悪かったところ
- 結局・・・
- 妹がすべて仕組んだ説(ヘレディタリーのネタバレ含む)
- 僕の友達に言われたこと
- 映画に出てきた気になるアート
- 撮影場所
- イザベラ・グリル
- ミッドサマーを見たスウェーデン人の反応
社会的なメッセージ
でもやっぱり監督がアメリカ人だからかアメリカ映画らしい社会問題も含めているように思える。
僕の考察と妄想が長いので簡単にまとめてみると
・アメリカの貧困格差
・西洋と東洋の常識の違い(キリスト教、死生観、愛の形の違いなど)
・個人主義と共同体の価値(共感の大切さ)
・白人至上主義
・ホロコースト
・ジェンダー問題
・フェミニズム
・過度なポリコレ
アメリカは世界の中でも貧困格差が広がっている国で宗教なんてお金と密接に絡み合っていて宗教心なんてあってないようなもの。お金が大切な社会なのである。そんな社会とは正反対のホルガの村はアメリカの社会にいる人たちにはカルトと見えてしまう。だけどホルガの人は監督がいうように伝統を大切にしていて、現代でなくなりつつあるものを持ち合わせているような人たちなのだ。僕だってホルガの村の人が人を殺すことを受け入れられない、でもここで示されているのは、お金ばかりで心の無い社会が今あってみんな大切な何かを忘れているんじゃないかというメッセージさえ僕は感じたのだ。お金だけが大切な社会には人としての悲しみや喜びにも気づきづらい、その結果、気づいたときには現代のように貧困が広がっているのである。喜びや悲しみに気づきやすい環境は宗教のように資本主義から少し離れた場所で気づきやすいと僕は思う。だからダニの周りの女性たちはダニの心の奥底の悲しみに敏感に共感して一緒に泣くのである。お金だけではなく、歴史があるホルガの村で村をバカにしておしっこまでして、撮影禁止と言われているのに村の大切なものをこっそり見ようとしちゃうんだから殺されることになるのは無理のない話しだ。ホルガからすれば正当防衛みたいなもの。現代のアメリカ人には忘れていることがたくさんあるんだなぁって思えた。だからこそダニにとってはホルガの村はユートピアで、僕たちがホルガをカルト村と思うのは、すでに僕たちは大切な何かを忘れているのかもしれないと思ったりもして、少し考えさせられた。日本だって西洋と全く違う文化と風習で昔はカルトと思われていたはずだ。まるで日本を切腹する野蛮な人たちの国だといいながら攻めてきた外国人が日本を開国させ宗教を広げようとしたという話を思い出したりもした。
それに今のアメリカを見ると銃事件が多く細かな犯罪は日本と比べられないぐらい多すぎる。どっちが野蛮なのか 笑
そもそもホルガの村は僕にとっては日本っぽい。まず、ホルガの村には桜の木のようなものがある。飛び降りた人が死ねなくて顔をつぶす、とかは日本の切腹して首を切り落とすとか、ホルガの村の人は礼儀正しいし伝統があるのも日本っぽい。山のような高いところから飛び降りるのは山に捨てるうば捨て山みたいなものだし、死生観が西洋ではない雰囲気は東洋と考えてもいいだろうしそれは東洋の中でも日本じゃないのかなと思う。閉鎖的な村は日本ではあったはずだし、日本は鎖国が長かった国で西洋からするとホルガの村みたいな世界だと思う。これを見て変だよカルトだよと思えたら、ちょっと止まって考えてみると面白いんじゃないかと思う。
出典:IMDb
もちろん宗教ってやばい!っていう側面はあるものの、監督の本心を考えると宗教を否定している人ではなさそうだから悪い意味じゃないのかなと思えてしまうのだ。もちろん僕らを混乱させ不安にさせようとはしているけどそこが本心じゃないんじゃないかと思ってしまう。辛いときに人は洗脳されるという教訓の映画ではなくて、僕たちが拝金主義になりつつある世の中で、アメリカに欠けて失いかけている思想をホルガを通して見せて、そこがアメリカ人の監督にとってアメリカに無いもので憧れるロマンなんだよっていうメッセージに僕は受け取ったのだった。アメリカから見る異文化というのは、白人社会だけど考えが違う北欧や東洋、日本みたなことなんだと思う。リベラルと保守で説明すると一般にはホラー映画はリベラル寄りのわかりやすい怖さがあるけど保守寄りなのはもっと奥深いように思うのだ。監督が普通とは違う映画を作りたいということは、今のリベラル寄りホラーとは違う、それは保守寄りホラーを結果として作ったんじゃないかなと僕は思ってしまう。監督のインタビューには伝統やら歴史やらの言葉がでてくるので、そこを重要視することは保守な考えを大切にしていると考えるのは自然だと思う。そしてクリスチャンという名前はキリスト教徒の意味とかぶるのでクリスチャンが死ぬのも今の上辺だけになりつつあるアメリカのキリスト教徒に大切なことを取り戻してほしいという想いもあるんじゃないかと思えるし、ミッドサマーは多様性のようなグローバリズムを感じさせながらも実は過去の伝統や歴史への回帰なんだ。映画を見ただけではなかなかこのあたりは気づかないだろう。多様性といいながら監督のような人は受け入れられていない嘘っぱちの現実があるのかもしれない。あと監督は今までよくあるハリウッドホラー映画を通して今の映画会社と観客の関係に疑問を持っている。つまり言い過ぎかもいしれないけど映画業界が中国べったりだから中国批判のようなものがある可能性もある。
インタビューで監督は
「ハリウッド映画を見て家族が一つになるのを見てこれは自分とは違う」と思った
らしい。
今までの分かりやすいステレオタイプのホラーやドラマなんて全く心に届いてないんだ。例えるならマーベルヒーローズを見て、ヒーローが戦うのは面白いけど正義が勝つばかりで当たり前の価値観を見て何が面白いんだろうと感じるのと似ているかもしれない。
それに監督はユダヤ人の家庭の子らしいので監督の作品には無意識にでもホロコーストをされたユダヤ人の悲惨さを訴えかけるかのようなメッセージがあると思う。僕らがホルガ村をカルト、悪と決め付けてしまうのはホロコーストと何が違うのだろうかと。キリスト教徒が見ると善悪から物事を見てしまいがちで、だから善悪だけでないホルガ村が怖くなるし現代の日本人も善悪で考え勝ちな人が多くて怖くなっちゃうんじゃないかと思う。ユダヤ人視点だとキリストのような悪魔や神聖とか霊はあまり意味がないと思ったほうがいいんじゃないかと思う。ユダヤ人にも無宗教の人やユダヤ教徒の人もいて監督はどちらなのかは分からないけど英語のインタビューで、要約すると
「僕にとって本当に神聖なものはないんだ。ヘレディタリーでは悪魔を使いたくなかった理由は僕はユダヤ人なので悪魔に敬意を払ったりすることはないからね」
というようなことを言っている。つまり神聖というスピリチュアルより現実そのものを信じているということではないだろうか。ユダヤ人でなくても現代の宗教観が薄くなったアメリカ人なら悪魔を信じていない人はいると思うけどそれでも多くのアメリカ人は悪魔を信じていると思う。だからユダヤ人だから敬意を払わないというのは他のアメリカ人よりも悪魔とか信じていないんだよっていうことなんだと思う。悪魔を信じているアメリカ人には悪魔的な狂気なのに悪魔が出てこなくて混乱してとても怖かったに違いない。
このことから普通に多文化を尊重する気持ちで見るとホルガの村は異文化なだけで悪魔的なことは実はなくて、よくある歴史にあった宗教を信仰している人達なのだ。僕たちは多様性を受け入れられない気持ちを実は持っているのかもしれない。周りがメンヘラと言って偏見だけで逃げていることはホロコーストの構造と似ていると思えて考えさせられるのだ。もちろんホルガ村の死生観を受け入れるのは難しいし外部からの男だったら殺されそうになるんだったら僕は幸せにはなれないから受け入れられない 笑
さらにホルガ村を悪い視点で見る場合は白人至上主義は潜んでいるかもしれない。ホルガ村は白人しかいないので有色人種は必ず殺されるのかもしれないと思えるから。
fan’s voiceのインタビューによると「白人のコミュニティは偶然でなく白人を選んでいる(優性的)であるように見せている」らしい。
西洋社会からすればホルガは差別社会で、それはアメリカにもあることで白人に支配されている政治、映画は有色人種のことをあまり気にしていないし黒人は簡単にアメリカでは殺される。アメリカの様々な事件はまるで有色人種が死んでも気にしないかのようにも思うのだ。それがホルガ村。極端にいうとアメリカの白人至上主義ってカルトと何が違うの?と。白人にとっては白人だけのホルガの村はユートピアでそのユートピアを乱す外部の人を殺すのと現代のアメリカの問題は同じようにも思う。ホルガ村のこの二面性で、見る人を混乱させるのはそこも監督の言っていた「みんなが不安になってくれればいいな」ということなのだろうか。ホロコーストとは結果として集団の妄想のような話で集団の妄想がデモを信じて外国人に怯え人間関係や社会生活を破壊し人を野蛮にしていまう。ダニが冷静だったのい対して他の人はヒステリックになり怯え、現代の論理的思考では理解できないホルガを軽蔑するのは危険性は先祖代々からある人間の本能のようなもの。ただ論理的ではなくただ非論理だけでなく色んな視点から合理的に考えていかないといけないんじゃないか、それが国家がある以上必要な健全なナショナリズムなんじゃないかというメッセージを僕は受け取ったのだ。
出典:IMDb
そしてホルガの村は女性が強い社会であるからジェンダー問題は含まれている。
監督はインタビューで気になることを言っている。要約すると、
・僕は適当にこまかせないし、じっくり話し合いたい人で涙もろくてそのせいか女性と気が合う。ミッドサマーは本能的に自分の思いを女性キャラへ投影したんだ
・僕はダニーよりガンガン人前で泣くんです。
このことから想像の範囲だけどおそらく監督は彼氏がいたんじゃないかなと僕は思う。見た目は男だけど心は女性に近いんだよって言っているようにも聞えるしだから女性の立場で映画を作れたんじゃないかなと。アメリカ社会はまだまだこの問題を抱えていて、やっと自分を分かってもらえると思って付き合っていた同性の彼氏が全く気持ちを分かってくれなかったら普通のカップルが想像する以上に苦しい気持ちになるじゃないかなと思う。偏見じゃなくてアメリカでは監督の雰囲気のような男性は彼女じゃなくて彼氏と付き合っていることが多いと僕は感じることが多い。もちろん彼氏じゃなくて彼女だということもあるだろうけどその場合は女性のような立場を受け入れてくれる女性なんだと思う。アメリカでは強い女性が多くて強い男性を求めることが多いと思うのでアメリカ人からして女性のような男性を好きになる女性はけっこう珍しい女性なんじゃないかな。見た目は男性でも心は女性と見た目は女性でも心は男性の組み合わせかな?
だからなのか、日本映画の宗教と女性の強さを見せ付けてきた「神々の深き欲望」も監督の好きな作品とのこと。神々の深き欲望を見てみるとミッドサマーは西洋の仮面を被った日本映画に見えてくる。いや西洋と東洋の思想の同化した作品と言っていいのかもしれない。映画の構成としては「神々の深き欲望」が近代文明に搾取されていく伝統を守る人達で、ミッドサマーは伝統を守る人達が近代の人を殺す話しだ。西洋と東洋の同化というのはグスタフ・クリムトのアート作品に似ているかもしれない、ものすごく長くなるのでここでは深く説明しないけど僕はグスタフ・クリムトの中の好きな作品についてちょっと書いたことがあるので気になるる人は見てみるといいだろう。グスタフ・クリムトの一部の作品は西洋と日本の同化しており、ミッドサマーにも入ているんじゃないかと思うのだ。西洋と東洋の愛の共有、異なる愛の理解でそれが多様性ということなんじゃないかということだ。
グスタフ・クリムトの作品から見えるさまざまな考察
とするとやっぱり日本の永遠の愛と極限の中、死に近いところの愛がミッドサマーにはあるかもしれない。そして神々の深き欲望が人間の生と死の自由に宗教は必要なんだということを見せているようにミッドサマーも同じようなこと見せているだろう。日本と西洋が融合したような映画には「世界の涯ての鼓動」という映画のレビューを書いたことがある。何も分からずみると眠くなるだろう 笑
日本を感じ、人類の歴史を感じるからかホルガが身近に感じてくる自分もいて僕にはカルトと狂っている村とか嘘つきの集団とかには見えなかった。むしろ野蛮さより民主的で尊ささえある。
また性に関して言えばフェミニズムが入っているかもしれない。クリスチャンは裸で走り回るが一般的な映画は女性が裸に近い状態で走り回ることが多いと思う。また女性がレ○プされることは多いから今回はクリスチャンがレ○プされるのだろう。
英語記事Esquireのインタビュー、短く要約すると
「ホラー映画の伝統は女性を拷問し傷つけ屈辱をあたえる。(今回は)クリスチャンは女性たちに使われている。これはクリスチャンの屈辱だ。」
と監督は言う。
そしてクリスチャン役のジャック・レイナーはは英語記事THRILLISTで
「(ジャック・レイナーは)長い間、女性が性的屈辱の対象になってきた、だから今度は(ジャック)彼が完全に裸になりたいと思った理由で彼が完全に裸になることを提案した」
と書かれており、ジャック自信も
「観客にとってクリスチャンが傷つき、屈辱的に(男性の)観客が見るのは重要なことだ。」
と言っている。ジャックが女性側の置かれていた状況に寄り添っている。
ホラー映画が社会を反映していることが多いようにホラー映画に女性差別が多いのは女性差別が社会にたくさん存在していることを意味している。何世紀も続いた女性差別への報復がこの映画では行われているようである。服も絵や色も綺麗でかわいいものが女性的。日本への憧れのある監督が過去の日本が持っていた母系社会をキリスト教の父系社会よりリスペクトしているのだろうか?監督に女性の側面がもし強くさらに強くなれないならなら父系社会では息苦しく感じ大昔の母系社会に憧れを持っても不思議ではない。ミッドサマーをみて男性目線で怖いと言う感想も多いが、ダニーの気持ちを理解しようとすれば怖さは限りなく少なくなる。ある意味男性への仕返し映画と知らずに差別しか頭にない男性が見ると怖いのである。今まで女をバカにしやがって、クマに詰め込むぞ、みたいな 笑
アリ・アスター監督は口では言わないけど心にそんな攻撃的な気持ちはあるんじゃないかな?と思えてくる。
クマに詰められてかわいいって思われるクリスチャンは男として恥ずかしいだろう。そんな格好で死んだら固定観念の男の威厳って何も無い。
性交シーンでも笑えるけど男性が望んだ性交なんてない、気持ち悪いと思うだろうでもこれが現実なんだ。クリスチャンが愛を持ってないように女性側だって愛をもたないしむしろ性交しているイザベルの気持ちに寄り添っているように見える。恥ずかしいのはクリスチャン。もっと男側に気持ち悪くなってもらわないと困るんだ、と言わんばかりの男性がこっけいに見える映画だ。
監督のすごいサディスティックな部分と悲しい部分を感じる。
だから男性がクリスチャンの裸を見て笑ったら自分たちがバカにされているのがわからないということである。クリスチャンはよくこんな状況でヤレるなぁというのは男性優位な見方でレ○プされていることに気づいていない思考なのだ。男性の上から目線と差別思考でしか物事見えない人には置かれている状況が見えないということの表れ。男の僕は悲しいけどダニーに共感する。
監督はたぶんジェンダー問題でとてつもなく苦しんだんじゃないかと思う。なぜなら仮に近親相姦があったら世界中の誰も寄り添えないわけだから世界で孤独になりダニーみたいな居場所のない気持ちになっても不思議じゃない。宗教も社会も自由の国アメリカも理解者がなく逃れられない共存関係の家族と生活することは辛かったのかもしれない。
映画を見終わったカップルがクリスチャンを完全擁護しようものならケンカになっちゃうかもしれない。「もっと気持ちわかるべきじゃないの?」とか「クリスチャンは悪くない」「え?それだけしか言葉ないの?最悪なんだけど」とか 笑
ミッドサマーは共感できることへの重要性を見せ付けた作品だとも言える。韓国の貧困問題を見せるパラサイトでは貧困層と富裕層の間に共感するという感情が抜けているように見えることが貧困を加速しているように僕は見える。それは経済成長だけを目指した社会には共感が抜けてしまうのだということ。中国排除に向かう世の中の決断は共感なんて興味が無い人が多い中国のやり方をあらためて共感できるものにしていこうとしているんじゃないかとさえ思うのだ。またアート教育が今後重要視される可能性があることからも共感は重要なものになっていくだろう。アメリカの異文化が混ざり合う多様社会では同じ共感できるものが一つでもないと話がまとまらないように言葉が伝わらなくても多様社会を望むのならば共感は必要になってくるのだ。でも個人主義のアメリカは共感ができない人が増えて貧困が加速しているんだろうと思えてくる。西洋社会とは違う北欧の話であり日本にも興味を強く持っている監督が見せるものは西洋の価値観だけで見ること、つまり上でいう白人至上主義のような話とアメリカが過度に嫌う全体主義への批判もあるのではないかと思う。なんでも決め付けるのではなく今否定している中にも正しいことはあるんだと、色んな人がいるように心は様々あるんだ。ホルガを悪に見ることは本当にいけないことなのか?そう言われているようである。間違った価値観により少数派が差別されたり傷ついていることがわからない、個人主義だけが素晴らしいというが実は幻想なんじゃないかと思えてくるのだった。それが現在のアメリカの社会主義を支持するサンダース人気とそれを嫌う絶対個人主義かつアメリカファーストのトランプだろう。僕はトランプを支持するけど全部を支持できるわけではない。今までの個人主義は結果として放置、無責任がたくさん含まれていたわけで今まででのやり方の個人主義でいいのか?というと違うと思うからだ。だからこそ共感が必要で監督は日本などの伝統や歴史にロマンを感じていると言っていように、少なくともホルガには監督のロマンも含まれているだろう。今までの個人主義が人の理解を狭めてきたと思うと社会的少数派であるはずの監督は傷ついて生きてきたんだろうなぁと思ってしまう。この個人主義VS共同体はまるで紀元前にあった伝説の都市カルタゴをすべて邪悪だと言う人と全部が邪悪ではないと言う人に分かれるのとも似ている。カルタゴは幼い子供を生贄にするのだけどそれを軍国主義が残るが個人主義が生まれてきていた古代ギリシャはカルトだといい邪教扱いし消し去ろうとするのだ。普通子供を生贄にすることはおかしな話だけど、古代には様々な愛の形があり簡単にすべてが悪だといえないのだ。しかもカルタゴは貿易国家で日本の現状に似ていて僕はカルタゴの消滅が他人事には思えない。キリストがキリストの愛のために聖戦をしイスラムと戦い、イスラムがイスラムの信じる愛のためにキリスト教徒と殺しあった歴史があるように。
だけど僕らが忘れている西洋的の愛だけじゃなく多様な愛や伝統があるんじゃないかなと思わされる。過度なポリコレという欺瞞に怒っているのも映画Usのジョーダンピール監督だろうし、何でも西洋視点で差別やら人権などと口を出してきたのが今までの世の中なのだ。その結果どうなったか、勝手に戦争を始めるアメリカ、歴史を捏造される日本があったわけだ。映画のジョシュがナチスに関する本を持っているようにジョシュがホルガをナチスのようなものだと思っている可能性はある。しかしその価値観はの多くは西洋のものであり社会的多数派の考えが現れている。ナチスを肯定しているということではなく、ここではなんでも一つの視点だけで否定するのはおかしくないか?ということなんだと僕はとらえている。それが社会の少数派の監督が生きて感じたことなんじゃないかなと。僕たちは個人で生きているようで実は生きていない。先祖があって僕らがいて、伝統や文化を大切にしないで生きる人が多くなった現代で、一人で生きているんだ個人主義だという幻想を抱く傲慢な人に僕らはなっているんじゃないかという意味があるかもしれないと僕は思った。そんなことを考えているとミッドサマーは奥が深すぎて話がつきない 笑
ちなみにジョシュが殺された後、足が土地から出ているが指が4つしかない。
アメリカ社会の共感ということでふと思ったのが、ホルガ村の共感する方法だ。
ホルガ村の共感は薄っぺらくて本当に理解していないような共感の何がいいんだろう?と思う人もいるかもしれない。しかしそれは間違っているのだ。
日本で生活が長くアメリカで教育を受けると気づくことがある。それは薄っぺらくても褒める人がアメリカには多いということ。あまり褒められたことのない日本人にはそんな薄っぺらい褒め言葉も嬉しくてやる気がでたりするものなのだ。これと同じような話でダニはものすごく絶望か抱えてそれをただ分かってくれる人達がいたらうれしいはずなのだ。これは分かりやすい理屈だけのロジカルシンキングでは分からないかもしれない。表面でもいいから理解しようと努力もできない共感もできないとホルガ村に行ったら即効殺されちゃうかも 笑
そしてホルガの村の人たちがただ薄っぺらい共感をしているのかどうかというのは本当のところ謎だ。なぜなら狭いコミュニティーのホルガ村は同じような生き方をしてきた人ばかりで気持ちの変化がわかりやすく、気持ちに敏感になって絶望さえも感じ取り共感したかもしれないと思うのだ。例えていうと日本の以心伝心である。現在多様な価値観がある日本で以心伝心は難しくなっているだろうけどそれでも日本は他国に比べて以心伝心がある国だと思う。以心伝心は高コンテクストな会話と言っていい。高コンテクストとは、言葉だけでなく様々なことから意味を理解する能力が高いということなのだ。音、細かな表情、息使い、動き、声の大きさや些細な声の違いなど様々だ。アメリカはコンテクストが低い社会なので分かりやすい社会ではある。どちらの社会も良し悪しがありどっちがいいかは答えは人によるのだ。
それに気持ちは伝染するため気持ちを共感しやすい人としづらい人がいてしやすい人だっている。なのでホルガ村の人は共感しやすい人でかつ、もしかしたら特に昔の日本のような高コンテクス社会でダニの様々なことから絶望を共感できたんじゃないかと思ったりもするし、最後に燃えるシーンでのホルガの人の叫びは西洋の理屈を越えた理解があるんじゃないかなと思う。もちろん完全には理解できないだろう、でもおそらく僕らの理解を超えた共感がされているんじゃないかと思う。さらにホルガの人は楽器ができ子供は自由に遊び、牛、ヤギ、犬と共存し、野菜を育てている様子や、子供と大人の飲み物を変えてまるで大人にはアルコール、子供は水と子供のことを考えた行動ができているようで心が狭い人たちではないようだ。特に子供が笑顔で遊んでいるシーンもあり全く考えていないわけではなさそうで小さい村なのに知的で高度な文化を持っているように見える。
まぁ好きなように考えるしかないと思う。映画が共感もテーマにしているのでただ共感されるだけって素晴らしいよね?っていう意味かもしれないけど、ホルガって監督の気持ちを表わしていると思うのも監督は泣きやすいって言っている。
ホルガの人には深く理解している人もいたかもしれないし、自己満足の理解の人もいたかもしれなしそれでも感情的に一緒に泣いてもらえるっていいことじゃないの?本当は分かってなかったとしてもわかっているって思えるぐらいの気持ちがあってもいいんじゃないの?という意味かもしれない。アートを見てもどう感じるかは人それぞれで本当に理解して感動しているなんて誰もわからなくて、でもわかってくれるわかってもらえるということが大切だと思うのと似ているかもしれない。死んだ人だって本当に理解してもらおうとは思ってなくて分かってくれる感情があることで報われるんじゃないかなって思う。何も感じてもらえなくなることが一番本人にとって怖くて寂しくて悲しいことなのかなと。日本っぽいホルガに親近感を感じるから人間味がある人達なんだと思いたいだけなのかな?と思ったりしたい部分もある。
そしてホルガでは赤ちゃんの泣き声が聞える。おそらく赤ちゃんの近くに母親がいなくて母系社会のホルガではみんなが赤ちゃんのめんどうを見ているんじゃないかと思う。小さい村だから一人一人が出来ることをしているんだと思う。
ここで一つ疑問なのがアメリカは褒めてくれる人がいて幸せになれるのになんで高コンテクスト社会の共感をダニは求めたんだろうということ。
それは監督がマイノリティだったからじゃないかと思う。アメリカ人にしてはものすごく心配症で発言は少なく完璧主義で見た目も細く男らしさを求められるアメリカでは心の問題を抱えたんじゃないかと僕は思う。発言が求められさらに周りが男らしさに対して褒めるのに本人はあまり褒められずいじめられたかもしれない。誰も気持ちなんて理解してくれないんだと。そうなるとアメリカの低コンテクスト社会より高コンテクスト社会のホルガのような場所をいいなぁと思う気持ちが生まれても不思議じゃないと思う。
僕も低コンテクストの分かりやすいホラーより高コンテクストのホラーのほうが考えることがあって楽しい。
つまりこの映画を後で考えてみても、もしヤバイと思う人が多いというのは社会に何か見えていない問題が起きているんだと思ったりもできる。それは多くのホラー映画は僕らが気づいていない社会問題を反映しているからだ。逆にホルガに行きたいと思った人が多ければ西洋社会の思想がしみわたっている現代の社会の歪みを感じているのかもしれない。その意味は僕らはみんな同じと思いながらすでに心は分断されているということだ。僕らがヤバイのか監督が狂った変人でヤバイ人なのか。僕には監督は人より悲しみを感じて人より社会の問題を見つめて人より人間の本質を見ているように思えてくる。人より生きることを頑張らなくてはいけなかったかもしれない、人より辛い環境があっただけかもしれない、普通の人には理解できないことをやりとげたり見せ付ける人のことを人は狂人というのだ。
気持ち悪かったところ
顔がぐちゃぐちゃなシーンが何度か出てきて気持ち悪かった 笑
ぐちゃぐちゃになるシーンをそんなにゆっくりみたことないからそこは嫌だった 笑
怖く見せているわけではないのはこれが一般に恐怖を楽しむ映画じゃなくて監督の心の中そのものだと思うからだ。だけど衝撃的。それに最後に内蔵を出されて吊るされている人の顔は目がくりぬかれていて顔をしっかり見ることになるから、見せ方は怖くはないけど記憶に残る 笑
例えば目がくりぬかれているゾンビとか見ても記憶に残らないのにそれとは今回違うんだよなぁ。
血が出てないだけマシだったけど不安にさせるような音が苦手な僕にはもうダニの気持ちになっているかのように気持ち悪くなったり頭がフラフラしてきたりした 笑
僕は船酔いもしやすいので画面がぐるっとなったりぐにゃぐにゃと現実にないことを見るとめまいを起こしやすいというのもあるかもしれない。船酔いをした人は分かると思うけどダニと同じで何もかもがぐにゃぐにゃぐるぐるなったりしてもう意識がもうろうとしてくる。だからなのかますますダニのバッドとリップを想像できて共感できたのかもしれない。船酔いすると不安にさせる不協和音は船酔いを悪化させるんじゃないかと僕は思うから酔い止めがもしかしたら必要だったかも・・・あぶない 笑
鬱やバッドトリップのダニの視点をうまく音と映像で表現していて、その模索はすごいと言えるがメンタルがちょっと強くないと気持ち悪くなったり辛いかも。ここは僕が映画館で見なくてよかったな、と思ったところ。内容は面白いのに映像から来る刺激に共感しすぎると途中で映像を止めて落ちついてから見直すというのを最初はした。だから最初はダニの気持ちの前になんか気持ち悪くて不思議な感情になった部分はあったと思う。それに加えてグロシーンだともう頭クラクラだ 笑
でも二度目三度目を見直しているとちょっと慣れてきてダニの愛に飢えている悲しい気持ちに共感できるようになったと思う。それでも音が気になるから音を落としてみたりしたけど。音は本能に刺激してくるからけっこう気持ち悪いんだよね 笑
二度目から食べながら見たのも不協和音を軽減できてよかったかもだし、気持ちに余裕が出来たからかホラー展開のあるあるを考えながら見れたり、ホルガ村の習慣はこんな人達なんだと無駄に怖くなくなってきたのもあって心に余裕が出てきたのはあったかもしれない。
気持ちに余裕が無いと目からも音からも倫理からもぐるんぐるんにされるからすごいことになるよね 笑
そんなこと考えていたらダニは目が回って気持ち悪くなってまともな思考ができなくなっているはずなのに気持ち悪さよりも死という強い悲しみと受け入れないといけない葛藤があったから、逆にその気持ちのおかげでパニックより考えさせられる心の余裕が少なくともあったから他の人がパニックになっているのにダニだけ驚くけど落ち着いていて自分を見つめるよういなってホルガの村で生き残れたのかなって思った。あまりにも強い感情が働くと船酔いも吹っ飛ぶのかな?恐怖で酔いが冷めるみたいに哀しみがバッドトリップを一瞬でも消しちゃったのかな。
あと食べながら見たりしたから不協和音が和らいだ部分はあると思う。
だからこの映画は良かったけど気持ちが本当に落ち込んでいる人や共感しやすい人やホラー映画を見慣れていない人はすごく苦しくなったりするんじゃないかなって思う。だからネタバレを見てから映画を見たほうが僕は落ち着くかなー。
ちなみに監督が頭をぐちゃぐちゃにしたり切ったりするシーンを多用する理由は英語の記事のインタビューで語っている。要約すると
「僕のユーモアです。頭の損傷についてとても満足しています。これは僕の小さい頃の抑制したトラウマがあってそれを仕事に常に取り入れているだけです。」
このことから子供の頃にあったトラウマによって様々なことを抑制してストレスを抱えていて、子供の頃のトラウマを浄化させるかのごとく「もうこんなトラウマとはさよならだ」と頭をぐちゃぐちゃにしているのかと思った。
頭をぐちゃぐちゃにされたの見せられたら僕もトラウマだよ 笑
結局・・・
結局、映画を一言でいうとセラピー映画であるし、おとぎ話である。ドラマでありサスペンスでありスリラー。恐怖と恋が紙一重のように、愛には攻撃性があり愛と恐怖も紙一重だ。依存しすぎた先の失恋による心の傷を癒すための心の拠り所を見つける映画であり、好きだからこその殺人だったのだ。乙女心は分からない。いや乙女でもダニみたいな状態の気持ちは分からないだろう。殺したいほど好きなんて普通ではないのだから。だからこそ映画にしても面白いんだろうけど。監督の乙女心に恐怖した映画だった 笑
監督の心が解放される日がくるといいけどそうしたらもうこんな映画作れないんだろうなぁ。
逃れられない恐怖という人間の本質に向き合った鋭い洞察力を見せつけてきた作品だったと思う。世界中が見たくないもしくは知らない、無意識にでも見ないようにしている本質に気づき見せられる監督のセンスは間違いなく世界トップの人物だろう。
今年のハロウィンはクマの着ぐるみが日本で流行らないかなー 笑
クリスチャンには悪いけどちょっとクマがかわいいし。
ここまで考えたけどオタクっぽく言えばやっぱりミッドサマーを見る僕の気持ちは魔法少女の絶望と願いと自己犠牲と愛によるすべての悲劇が昇華し神話になる話に思ったりするのだ。ダニの好きなのに好きな人を殺さないと苦しんでしまう。苦しい選択だ。魔法少女が世界を崩壊するような敵と向かいあい戦わないといけないようにダニの世界が崩壊するダニの心との戦いにむきあわないといけないんだ。願いは笑顔になり届いたんだ。悲劇のヒロインって嫌いじゃない。悲劇のヒロインと思うと共感しやすいと思う。メンヘラは「私、可哀想」って思う悲劇のヒロインだ。ダニは普通のメンヘラではなく病的だけど、それでも愛と苦しみに希望を見出して笑顔になるのは嬉しい。でも良く言えば盲目にさせる恋のいじわると彼女の愛だけを求めほかの見返りを求めない純粋さに彼女を応援してしまう僕がいるのだった。ダニの心は一人ぼっちで寂しい、でもせめて監督の心の中を見せるダニだけでも幸せになってもらいたい、それが監督の幸せでもあるんだと思う。ダニ(監督)の死んでしまうような苦しみを沈める鎮魂映画なんだ。でもこの苦しみは終わらないし監督がずっと過去の苦しみに縛られているようにダニはまた苦しむはずだから、ダニがもしいるなら「わたしってほんとバカ・・・」ってちょっと笑顔で涙を流しながら言うかもしれない。でもダニは選ばれし適格者だったのだ。消えていく仲間たちはダニの不安を増大させる。病んでいく心は自我を崩壊させ闇落ちさせていく。天使になりたかった選ばれし少女ダニは魔法少女メイクーンという堕天使になり神話になるのだ。ダニの新しい人生はここから始まる。
紀元前XXXX年
「ダニ・・・君は自分を責めすぎている、優しすぎるだけなんだ。悲しみや憎しみはなくならない救いの無い世界に一人で答えを失って絶望した君がいることは忘れない。君が選んだ幸せが悪魔になるための契約だったしても、ただただ純粋な心で愛を求め闇の中をさまよい続けて見つけた場所なんだ。悪魔に魂を売るほど君が守りたかった愛があるんだから君のことを間違っているんなんで僕はいえない!!」
「・・・分かっているんだ、僕はもう邪悪だって。でも希望を信じた君をもう泣かせたくないんだ、笑顔でいてほしいんだ。神に逆らうことが世界の倫理に反して無意味でバカげて狂っていることだったとしても、君を邪魔するなら悪魔になってでも倒してみせる、愛を守ってみせる!」
「願いを叶えた代償が悪魔・・・もう人の心さえないのか・・・僕のことがわからなくなったんだね・・・でもいいんだ。何も伝わらなくても分かってもらえなくても。ただあなたを守りたい・・・。僕は知っているんだ。君の魂が壊れるほどつらくて悪魔になる選択をしたけど、それって誰もできない選択をして強くて勇気があることなのかを。その強さと儚さに僕は泣いて震えそうだよ。地獄でも天国でも、一人は怖くて寂しいよね・・・。だから一緒に行くよ・・・ダニ。」
伝説の失われた古代の地、ホルガ。苦しみの果てに愛のために王女メイクーンという堕天使になった、儚い切ないダニのおとぎ話という神話。
ダニーーーー(´つヮ⊂)ウォォ
みたいな 笑
英雄伝説も不条理なカタルシスがあるけど一般的にはそこをあまり気づかないしそこをあまり見せないのかもしれない。人類の歴史が不条理の連続だったように神話も不条理だらけのはずなのだ。でもそこがロマンだから世界中の人がアニメを見ていて聖地巡礼とかするわけで。だからアリ・アスター監督がアメリカに無い日本の文化や思想にロマンを感じるのは英雄伝説とも似ているのかなと思ったりした。邪悪な不条理のカタルシスって悲しいときに悲しい曲を聴くようなもので悲しさを受け入れて喜びに変えるプロセスなんだと思う。悲しさと悲しさを共感させることが重要で深い理由は必要なくて、それはホルガの人が薄っぺらい共感だと思われるのと同じ理屈なんじゃないかなって思う。本当に理解してもらっていない共感なんて嘘、不誠実と思うかもしれないけど不誠実でも悲しいときに悲しんでもらうことが喜びになるんだと思う。それをもしかしたら不条理で不誠実な共感、邪悪な共感というかもしれない、でもそれでいいんだ。それが人間なんだと僕は映画から学んだ。でもだから表面的に共感することの何がいいの?という理論に流されるときもあるかもしれない、でもそのときはミッドサマーを思い出して考えたい。悲しさを共感できていないんだ、僕の何か大切なもの、ロマンや伝統、歴史を裏切っている気がすると。もちろん気持ちの度合いによってバカにしているとか、わかっていないって思われることはあるけどそれでも必死の気持ちがあれば相手も分かってくれるし心を開いてくれるじゃないかなって思う。気持ちって伝わるんだよね。だからロジカルシンキングばかりしている人とか政治家が町おこしに農業体験とかいいだして、いいんだけどもっとロマンがあることすればいいのにって思う。聖地巡礼とか何かストーリーを提供してロマンを共有できることをするとか。ストーリーがないとロマンないし。ミッドサマーから町おこしまで話が広がりすぎた 笑
映画とはあまり関係ないが今回映画のエンディングの曲は失恋ソングだけどキリスト教の悲しみと希望の入り混じり残酷なことでも喜びに昇華させるという曲に僕はアニメのエリフェンリートのオープニング曲を思い出した。映画のエンディング曲より悲しいけど綺麗な曲である。主人公の状況は純粋でかつかわいそうでありながらとんでもない残虐性もあり、それを受け入れ浄化するかのように僕には聞える。
ちなみにエリフェンリートのオープニングに出てくる黄金色の絵はグスタフ・クリムトというアーティストの作品でそれにアニメを融合させたパロディになっている。
この作品は西洋文化と東洋文化とエジブト文化などの融合でありホルガが西洋と東洋の融合のような世界に見えるのと似ている。アリ・アスター監督の気持ちは西洋と東洋が融合した多様性が存在する豊かな気持ちなんじゃないかな?と思えてくる。でもそれはグスタフ・クリムトも最初理解されなかったように監督もなかなか理解されないものだと思う。ダイバーシティは今でも世界の課題の一つだ。
グスタフ・クリムトの接吻↓
最初からダニとクリスチャンはペレではなく妹から狙われていた説 でもそれは妹の姉想いの愛の導きかもしれない(ヘレディタリーのネタバレ含む)
よくペレが全部仕組んだという話がある。ペレを良く思えばペレの宗教を知ってもらうことでダニの心が癒されるとただ思っているだけで騙そうなんて思っていなくて最初から仕組んでいないと思うこともできる。悪く考えると仕組んだようにも見えるのだ。
「ペレは死に誘いこんだ重要人物だけどペレが悪役なのかダニーに心から向き合っていたかは見ている本人次第だ」
と監督は英語のインタビューで言っている。
さらにインタビューでは要約すると監督は
ペレはダニーの家族が死ぬことの責任はあります?という話に
「その考えは全く間違いでペレは責任がない」
と言っている。
そのため僕はペレは悪者ではないと思いたければ思うことができるのだ。
それではペレではなく何が妹の仕組んだことなのかということ徐々に説明していこう。
次の仮説から妹が真犯人説を言いたい。
・ダニはホルガ村を受け入れやすい心の準備があった
・クリスチャンはホルガに行く前から犠牲者になることが決まっていた
・妹の死に隠されていること、それは前作ヘレディタリー継承と同じですべては死んだ妹の予定通り
ダニはホルガ村を受け入れやすい心の準備があった
ダニの家庭にはホルガ村のような花柄や色の模様があり、母親はホルガ村の人と同じような白い服を着ているように見える。そして両親が死ぬ前の睡眠中のシーンに花の冠のようなもの置かれている。このことからダニーはホルガを受け入れやすい気持ちはある可能性はある。もしかしてこれはペレの仕業なのだろうか?自然に考えると外部のものが部屋の内装まで変えることはできないだろう。つまり妹や母親がホルガの宗教を信仰していた可能性がある。ペレに洗脳されているという可能性もあるが、妹の死がダニーを導いたという路線で考えたほうがいいのでは?というのが妹の死に不思議なことが隠されているからだ。
クリスチャンはホルガに行く前から犠牲者になることが決まっていた
ホルガ村には誰もが行けるわけではなく選ばれた人しかいけない。選ばれた部外者と性交をしていたとすると最初からペレ自身は悪意がなく犠牲者にすることを画策していたのかもしれないと思えたりする。
さらに村ではしらばくしてペレの妹が静にクリスチャンたちを見ているシーンがある。そのあとにクリスチャンは性交するマヤに選ばれるかのように突然蹴りを入れられる。これはペレが妹マヤのためにクリスチャンを村に呼びたくてクリスチャンは犠牲者として最初から選ばれていたか、マヤがクリスチャンを見たときに犠牲者として狙いを定めたと思える。さらに前作ヘレディタリーと同じであれば村に来る前から決まっていたという流れが正解といえるだろう。前作通りならすべて決まっているからこそ、死や絶望があっても一応幸せはあるという見方ができる。宗教の物語の中の決まった世界だからこそある幸せのようなものだ。それは監督のセラピーに物語りが必要と思うので運命は決まっていないと悲しいことは救われないと思う。そのため妹が仕組んだと考えると自然に見える。
クリスチャン達を見つめるマヤ↓
出典:IMDb
気のせいかクリスチャンもマヤを見ているようにも見える↓
マヤの不自然な蹴り↓
一応ホルガは非人道的ではないという視点なのでクルスチャンの意向を確認するために老人が話す。クリスチャンが死ぬことになるとは隠しているとしたら最悪だけどそれが村の習慣で当たり前ならかわいそうだけどしょうがいない。これも妹の用意したことだろうか?
ヘレディタリー妹の継承。すべては妹の予定通り
実はダニの死んだ部屋のカーテンの模様はスウェーデン人アーティストで自殺したアヴィーチー(Avicii)のロゴにそっくり。これを完璧主義者の監督がたまたま使ったとは考えづらい。
ミッドサマーは2019年7月3日に公開されアヴィーチーはwikipediaによると2018年4月20日に亡くなっている。
アヴィーチー(Avicii)のロゴ↓
アヴィーチー↓
そして妹の顔はホルガ村の木々にも現れていることは多くの人が知っているだろう。まるで呪いが続いているかのようであるが、妹が見守っているとも言えるものはダニーの幻覚のようなものととらえることができる。前作通りならたぶん呪いや悪魔とかを使っているように見えて使っていない。
そして最後のヒントがダニは幻想で死んだ両親と妹をメイクーンになったあと見ることになる。これはもうダニはホルガが自分の求める家族だと思ったという意味だろう。
ちなみに父親の目がおかしくなっていてちょっと怖い 笑
もしこれがヘレディタリーと同じであれば死んだ人の継承ということなので、精神疾患は呪いのように継承されヘレディタリーの死んだおばあさんの予定通りの世界が展開される。つまり精神が弱っているダニの家族がいて、妹が死んだ後に妹の思惑通りペレに妹の野望を達成させるためにダニに近づいてダニたちをコントロールしホルガに誘い込んだということかもしれない。この場合は妹がホルガのことを知っていた何か関わりがあったということである。
それが部屋の壁の花模様や花の王冠があったことからも筋が通るのである。ペレがどこまでホルガのことを知って妹と関係があったのかはわからない。それは視聴者の想像にまかされているが僕は前作通りなら妹が仕組んだという流れが自然なので前作通り仲介役のカルト信者がいるように、ペレが妹とホルガの何か知っていて妹の意思を継ぎ仲介したということは考えられる。仮にダニーと妹がホルガで生まれ両親がホルガの住人だった場合、逃れられないダニーのために両親が死を選び居場所をなくさせホルガにペレを通して連れて行く段取りがあったんじゃないかと思う。家族がホルガの人ならダニーが幻想でもホルガで家族に会うのも不自然ではない。赤ちゃんのときの記憶が蘇ったとも思える。妹も精神を病んでいるし父親も病んでいると思うし、前作のヘレディタリー通りなら母親もおそらく病んでいるだろう。家族みんながおかしいのだ。そしてダニーはメイクーンになることが決まっていたとすればメイクーンにさせるために家族みんなの死を妹が選んだんじゃないかと思う。もしかしたら妹だけじゃなくて家族全員が死を選んだのかもしれない。家族がホルガの人だと思うのはホルガで出てくるダニーの両親を見るとブロンドヘアーや雰囲気はホルガに合っている。
そしてアヴィーチーのロゴのことも考慮する死を喜びに昇華している映画からは死んだアヴィーチーが報われる意味があっても不自然じゃない。妹とアヴィーチーがダニーを導いているように見えるのも妹に仕組まれていた路線はあながち間違っていないと思えてくる。
監督がアヴィーチーのファンかどうかはわからないが映画製作をしてスウェーデンについて調べている中でアヴィーチーのこと知ったはず。アヴィーチーは完璧主義で繊細な感情の持ち主らしく精神疾患で自殺して世界中のファンが震撼したのだ。監督も精神疾患から自殺という映画を作っているのと繊細と完璧主義も共通する部分があるからアヴィーチーに自分を重ねて泣いたんじゃないかと思った。監督は泣きやすいって言っているから。死で始まり死で終わることが喜びへの昇華ならアヴィーチーは天国にいけたのかな?と思ったりもする。ちなみに名前はAviciiはサンスクリッド語のAvici(無間地獄)らしく、仏教の最も苦しい地獄の場所。ダニーの妹の死んだ気持ちやダニーの絶望感が壮絶なものだったんだと思わされる。
ヘレディタリー
原因の祖母→仲介役ジェーン→家族は死ぬがそれは悪魔ペイモン召喚の準備→死んだ家族も崇拝され一応すべてハッピーエンド
ミッドサマー
妹により家族全員が死ぬ、メイクイーン・ダニーにするための準備→仲介役ペレ→ホルガでダニーの望むものが手に入りクリスチャンは神聖な儀式で死にハッピーエンド
もう一つの考えが妹の死はカルトに関係なく自殺だったとした場合でも、家族がホルガに関わりがあったと思えるのはベッドの横の花や壁紙などからかわらない。映画を離れて監督視点で見ると妹とアヴィーチーがダニーを導きペレの仲介により仕組まれた幸せを手に入れるというふうにしたのは監督のセラピーとしてもありえると思う。セラピーについてはここでも色々述べたが全部仕組まれた運命だったんだとしたほうが不条理気持ちはスッキリするんじゃないかと思う。
妹と母と父のシーン↓
比較のため生きている時の家族↓
なぜコントロールされた世界でダニが生きるのが幸せなのか?
実は妹が導いた話でコントロールされているという不安を残し自由の無さの恐怖を感じるが、ダニーとっての本当の自由はコントロールされた世界なんじゃないかと思う理由には監督のセラピーという理由以外に監督のインタビューと無我の境地という視点で考えるとちょっとそんな気がしてくる。
「ダニーは狂気に堕ちた者だけが味わえる喜びに屈した。ダニーは自己を完全に失い、ついに自由を得た。それは恐ろしいことでもあり、美しいことでもある」
自殺まで考えたと思うダニが絶望のどん底、狂気に堕ち、死を喜びに昇華する不条理で美しいカタルシスだ。でもそれだけじゃなくてダニはコントロールされていることを知らず生きていく、それは完全な自己のない逃れられない共依存関係で考え方によっては無我の境地。無我の境地は社会や思想、周りに影響されて変わっていく自己ではなく「自分がない」というもの。すべての人は「自分」に縛られていて思い通りにならなくて苦しむ。無我の境地に行くとジェンダー問題、過度なポリコレ、白人至上主義などなどで悩まされることはないだろう。現在の問題は解決してしまうのだ。自由であってコントロールされていることを知らないダニにとっては本当の意味で自分がない悩みがない無我の境地で天国なのかもしれない。自己の確立を要求され、嘘でも自己肯定感を高く求められ個人の自由がすべてすばらしいという現代社会、特にアメリカ人には日本人より自由を感じず怖かったに違いない。明るくて普通に見えるのに心の底では自己肯定感がとんでもなく低い人ほど努力していたり静で冷静だったり、相手のことを考えて優しくなったり。それって監督なのかも・・・。美人に自己肯定感が低い人が意外と多い気がするのも相手のことを考えたり周りのことを考えているからなのではと思えてくる。自己肯定感が無駄に高いアメリカ人がテキトウな人が多いのも無駄に自己肯定感の高さを求めることは本当にすべて大切なことなのか?という意味にもとらえられるかもしれない。
まぁそんなことを考えながらたぶんメッセージとしては過度な個人主義を見つめなおしては?という意味なのかな?と思う。ただどの宗教も運命論ではないけど、宗教には教えに沿って天国や地獄に行くというレールが一応あるわけだからミッドサマー全体はこれが宗教、信仰で悪魔の聖書かもしれないけどすべて決まっているんだと言ってるようにも見える、そうしないと箱庭セラピーとしては救われないのだろう。
そして監督はピエロを演じてきた人生があったと仮定すると、自分を誤魔化し自己から遠ざかることをし続け、それでも監督の気持ちをしらなくても周りは幸せだから何も気にしないことが幸せなんじゃないかという思いに到達してしまったのだろうか?まるで修行僧のようにピエロを演じて崇高な悟りの境地にでも辿り着いたかのようだ。だから監督を投影しているダニにも現代倫理がなじまないだろうから妹が導いて幸せのコントロールされる世界を提供をしたのかな?と思ったりもする。
面白いことに幸せがあるかもしれないと思いながらもしかしたらダニはコントロールされたことを知ったら悲しくてむなしさを感じるかもしれないと思ったりもする。監督は不安にさせるのが本当うまい 笑
だけど僕にはこの空虚・悲しさそして壮絶な絶望さえ美しいと感じてくる。
「シャボン玉がとばずに消えて、生まれすぐに壊れて消える。」
空虚である。
でも死を感じ生を感じディストピアでありながらもユートピアを感じる。たぶん日本の思想、アニメみたいなものだ。無意味なアニメと批判されたとしてもディストピアとユートピアの入り混じった美しさやロマンを感じるしそれから人類の歴史さえ感じる。エヴァンゲリオンやまどマギなのである。
無意味さを全力で愛せるなんて儚くて創造的な破壊があって人間らしくて無常で美しい。日本の美みたいだ。ロボットのように決められたレールの上を走るように決められた音符を狂ったように人間らしく奏でて最後は無になるみたいだ。パッと咲いてパッと散っている。ピアニストのフジコへミングが「ぶっ壊れそうな鐘があったっていいじゃない、機械じゃないんだから」と言ったのを思い出した。
そんな美しさも感じさせられながらも監督はたぶんずっと闇を抱えていると思う。誰もわかってくれないしピエロでいいやという気持ちと誰にも言いたくない気持ちを隠したままでは辛い気持ちは残るはずでずっと幸せになれないはずだ。
監督の心がギリギリのところを行ったりきたりしているからなのか恐怖と笑いというギリギリの表現がうまい。ただシンプルに魂が破壊されるほどの絶望を知っているわけでなくその絶望から解放されるかされないかギリギリのところを知っている。例えて言えば、やろうと思えば岸に上がれるのに溺れるか溺れないかのギリギリのところであっぷあっぷしていつも死と直面している。死を直面しているから魅力的な納得できるみんなが恐怖する映画を作れているのかもしれないけど永遠に完全には癒されない、永遠に完全には喜び昇華しきれない闇を抱えて生きるようで悲しすぎる。
仮に現代社会やキリスト社会で言うと問題視されることがあったとしたら、ホルガが東洋思想があって、知的障害でも大切にされている近代文明から離れた村の土着信仰を描いた映画「神々の深き欲望」に監督が惹かれているのもわかる気がする。
映画ナタリーのインタビューで監督は「観慣れたものは確かに安心できるけど、観客が怠けちゃう。僕は平手打ちを浴びせたくなるんです。「これが“僕の映画”だ!」ってね」
と言っている。
でもそれは監督が表向きに選んだ言葉なんじゃないかと感じてくる。もっというなら狂いでしか救われない世界があるんだと監督が言いたいんじゃないかと僕はミッドサマーから感じてくる。現代社会は狂いを受け入れる成熟度はどこにもない。京アニ事件のように臭いものは蓋が一般的なのだ。ミッドサマーが今までにない映画だったように、おかしな話だけど狂いが崇高な芸術、文学、画期的な学問、豊かな想像力を生むことはあると思う。社会が受け入れないなら自分で切り開いていくのみというようにミッドサマーで狂いの芸術と文学を見せつけてきたように見えるのだ。
映画ナタリーのインタビューで監督は「観慣れたものは確かに安心できるけど、観客が怠けちゃう。僕は平手打ちを浴びせたくなるんです。「これが“僕の映画”だ!」ってね」
と言っている。
監督が求める癒しの場所は映画であったり、精神病で自殺した心が繊細でもあっと思うアヴィーチーのような狂っていると思われる人なのかもしれない。死にたくても死ねないほどの絶望は死に直面することで癒され狂っていると言われるような心境なのだろうか。それがホルガ村の女性たちとダニの悲しみの共感にあるようにも思うし、表面だけの共感でもダニは少しでも自分の絶望感を共感してもらえて嬉しかったに違いない。
参考にした本
ミッドサマーがカルトかどうかを考えるのが楽しかったので「カルトと宗教の違い ミッドサマーはカルトではない」という記事を作った。
僕の友達に言われたこと
友達にミッドサマーが良かったとか言うと人格を疑うよーって言う人がいるけど、僕は全くそう思わない。僕は監督のように変わった人だというわけではなく監督とは同じだと全く思わないし、同じだなんておもったら監督に申し訳ないとさえ思う。例えて言うなら好きな気持ちを追いかけないと何が好きなのかわからない趣味さえないという状態になるのがわかるだろうか?感情はできるかぎり触れていないと枯れるのだ。悲しさや喜びに頻繁にアートや映画など通して触れるとその気持ちに敏感になるんじゃないかなって思う。でも人の気持ちを深く理解することはときどきあぶないとは僕は思う。例えば鬱の人の気持ちを理解すれば鬱になるということをきいたことがないだろうか?自殺者の気持ちを考えれば自殺する可能性がでたり、共感とはときどきあぶないことにつながるのだ。だけど何で僕がそれでも共感したいと思うのか、それは僕は共感しても相手に飲み込まれない自信とアートから学んだ経験があるからなんじゃないかと思う。例えばアートの多くはプロパガンダが含まれていてそのメッセージにただ共感してしまうと相手の思想に飲み込まれてしまう。それがプロパガンダアートなんだと僕は思う。だけどプロパガンダと知れたり、知識があったり、知識がなくてもまずは一歩ひいて考えてみることで相手に飲み込まれないように自分をコントロールできると思っている。でもほとんどの人がプロパガンダアートに気づかないで信じてしまうんだけど。歴史の勉強も同じく。例えるとコロナウイルスのいるところに防具服をつけないで近づいちゃうようなものかな。だから僕は鬱の友達と話しても、自殺願望の友達と話しても僕が相手の領域に入っているようで入っていないから鬱にも自殺願望もないんだと思う。それはバリアではないから理解することから逃げているわけではないんだ。でも自分のペースで理解できない状態になると相手に飲み込まれる恐れはあるだろうから危険ではあるかもね。笑
飲み込まれてダニの気持ちにもなれない場合は一生戻れない地獄に簡単に落ちそうだし、飲み込まれてダニの気持ちになれたら僕が想像できないほどのカタルシスだろう。でもまた浄化を繰り返すだろうから本当の意味で幸せにはなれないかもしれない。
あぶないけど深く知ることほど怖くて面白い 笑
でも好奇心だけでなくフリードッヒの海辺の僧侶(修道士)のようにもう無いものを求めてさまよわないといけない気持ちは誰でもあると思う。それは大切にしなければいけないもので想いつづけても答えがでない少し苦しいものだと思う。色んな例えがあるけど、過去の日本のために戦争で死んでいった人達や僕なら優しかった寿命で亡くなったおばあちゃん。生きているかどうかもわからない連絡が取れなくなった自殺願望のあった友達。それだけじゃないかもだけどなんか共感するんだ。悲しいし寂しいなぁって。変なことは言っていないと思うけど、その気持ちに敏感かどうかなんじゃないかなー。それがロジカルシンキングでは分かりづらいアートの気づかないことに気づく、自分を見つめる心と心の対話なんじゃないかなーって思う。
そうはいってもやっぱりダニみたいな心に傷があるんじゃないの、と思うかもしれない。だいたい精神に問題がある人って自分で問題があるなんて言わないしって。それは自分でもわからない。客観的に見つめるには時には自分だけで自分自身を見つめるのではなく他の人の印象も必要になるだろうから。一応友達には変なふうに思われたことはないけど 笑
なんかハマりすぎていっぱい考察してしまったかも 笑
ミッドサマーにカタルシスを感じながらもどこか不安が残る。そこについて自己分析を再度してみると、見えて僕の深層心理と男性の置かれている社会問題の苦しみについての記事メンヘラで何がいけないの?
映画に出てきた気になるアート
ダニが悲しんでクリスチャンと寄り添っているシーンで出てきたアート。
左側のアートはフランティセック・クプカ(Frantisek Kupka)のThe First Step
つまり「最初の一歩」だ。
抽象画を作成した人らしく抽象画は見る人によって大きくとらえる意味がことなる絵だ。
僕にはタイトルが「The First Step」ということで、最初は何でも未知の場所、二つの月があることから別世界、パラレルワールドという二つの存在の意味もあるんじゃないかと思った。
もしくは人には二つの側面があるんだ、一つは正の側面、もう一つは負の側面。負の側面は誰でも拒絶したいので認識されていない場合があり、でもこの負の側面がある限り人は心に病を持ち最後には傷つくということ。これは常識だと思うことでも実は負の側面が隠れていて、負の側面に気づかない限り僕たちはどんどん傷ついていく、ダニのようにということかもしれない。暗い月のように傷つく心を癒す最初の一歩は表面で輝いている月だけを見るのではなく愛を持って接するということなのではないだろうか。さらに左側のスタンドライトの上下から光が出て二面性を表わしているかのようだ。村上春樹の「1Q84」にも月が二つでここで説明したことに似ているように思う。
また別世界、パラレルワールドととらえる場合でも映画には合っている。映画では上下さかさまになるし、キリスト教と異教徒の話になってくるからだ。
もう一つの右側のアートはムーパンという人が作成した作品 A Yeren is Leaping Forward(野人は飛躍している)のようだ。ムーパンは映画の最初のオープニングの左右に開く絵も作成した人らしい。人間の頭を持つ小さな犬が赤ちゃんを抱いた女性を追いかけているように見える。さらに女性の爪は長く人間なのか鬼なのかわからない。漢字では「野人熟女」と書いている。監督はたぶん野人熟女という名前には意味を感じていないと思うけど絵では意味を感じているだろう。まるでダニが追いかけられ追い詰められ逃れられない場所に行き心は体が引き裂かれそうになるほど傷つくことを暗示しているかのようだ。現代の倫理感では普通の人間のすることではないことをしてしまうダニに、鋭い爪からはダニの最後の決断は現代の倫理感で言えば鬼や悪魔にでもなるかのような意味があるかもしれない。また西洋アートでないことも西洋と東洋の対比だと言えるだろう。
たとえ結末が不条理のカタルシス、悪魔のような話であってもダニにとっては幸せでしかないはずだ。それにしても不気味なアートだ 笑
そしてスタンドライトは下側だけが明るくなっていることから上の二つの月と同じような意味があると思う。今はまだ明るいでも徐々に暗い側面が姿を現すといった感じ。
グーグルは女性の体に厳しいと思うのでグーグルポリシー違反のことを考えて一応モザイクをつけた。モザイクがなくてもアートだしエロくないし、むしろモンスターみたいにも見えなくもないけどね。
出典:MuPan
もう一つ気になるのが中央上に飾られている絵
こちらもMu PanのMu Pan’s Dinoasshole Chapter 8 という作品で巨大な恐竜が見境無く殺し、小さい恐竜も巨大な恐竜を引き裂こうとしている。上のMuPanの作品と同じようなことが言えるかもしれない。これから間違いなくこれからダニとクリスチャンの間に起こる破滅的な展開と、ダニの体を引き裂くような心の苦しみと味方は誰もいない絶望に向かっていくような意味があるように見える。誰も味方がいないのはダニだけではない。結果的にクリスチャンも味方がいなくなるのだ。最後に噛み殺したのはダニなのである。しかしそれでも混乱している世界には誰が間違っているという判断は難しいのである。殺しあっているのに誰も悪くないなんていったらおかしいだろうけど、人類の歴史は異文化、異宗教の違う愛を守るための戦いだったのだからこの絵は本質を見せ付けているようにも思えてくる。それにしてもこのMuPanという台湾人はすごい絵ばかり描くなぁ。
撮影場所
海外サイトRedditにハンガリーの撮影された場所をグーグルマップで特定している記事があった。2ヶ月しか期間がなくセットは全部作ったらしい。
出典:Reddit
引用されているgoogle mapは冬で真っ白で本当に撮影場所なのかわからないけど一応撮影場所らしい。空港の近くなのでハンガリーに行ったら是非とも記念に撮影したい 笑
イザベラ・グリル
性行為をする女性はイザベラ・グリルというスウェーデンの駆け出しの女優らしい。駆け出しでもショートビデオとかにメインとして出ていたりスウェーデンのホラー映画Svartklubbにヒロインで出ているっぽい。スウェーデンでは有名なのかな?これからアメリカ映画にもたくさん出てくる可能性を秘めた女優だろう。
日本ではモザイクがたくさん入っているらしいがモザイクをかけてなくてもエロくないしモザイクがないほうが不気味さがあるかもしれない。たぶんみんな滑稽に見えて笑うシーンなんだよね 笑
クルスチャンのチ○コはデカイし赤いたぶん血がついている。
神聖な儀式なんだけどみんな歌いだしちゃうし、異文化って理解を超えていてなかなか受け入れられないものだ。ダニにとって吐いて呼吸困難になるぐらい絶望だけどね。
性行為をなんでもエロいと思うのは勘違いで、例えば日本のエロも西洋では芸術として扱われるものがあるように西洋の感覚と日本の感覚は違うのだ。だからおそらく西洋の人は性交に芸術性を感じる人が今回いると思う。
ショートビデオMORD! MORD! MORD!
ちょっと気持ち悪いけどシュールな動画だ 笑
スウェーデンのホラー映画Svartklubb
ミッドサマーとは関係ないけど歌手のケイティ・ペリーがメイクイーンみたいになっているMVがある。
またラトビア?のTautumeitas(タウトゥメイタス)女性グループ。
Raganu naktisという曲を歌って踊っている様子はホルガ村のようだ 笑
Raganu naktisはリトアニア語で魔女の夜という意味らしい。
ミッドサマーを見たスウェーデン人の反応
ミッドサマーはスウェーデンのイメージを悪くするんじゃないか?スウェーデンから批判が来るんじゃないか?と思う人もいるだろうがいくつかのスウェーデンで有名だと思うウェブサイトではミッドサマーは好評のようだ。(スェーデン語は分からないので機械翻訳した)
一応スウェーデンメディアのAFTONBLADETがホルガについて
「ほぼすべてコミカルな田舎でスウェーデンの伝統を思い起こされる絵画や小屋があります」
と完全には悪いことは言っていない。
他のスウェーデンメディアDagens Nyheterは
「スウェーデンファンタジーの面白いホラー」
とも言ってる。
そしてスウェーデンメディアのGoteborgs-Postenでは疑問をはっきり
「スウェーデンの伝統を曲げて世界に発することはいいのか?スウェーデンを同質で少しおかしな人と強調するのはいいのですか?この答えははっきり大丈夫だと言える」
とはっきり疑問に答えている。
またスウェーデンの公共ラジオのSwdish public sevice radioでは
「環境や服は好きだし映画の中でうまくスウェーデン語も使えてます。」
と評価している。
このことからミッドサマーは多くの人が楽しんで興味深く見たのだと思う。スウェーデン人は心が広いなぁと思った。
ミッドサマーには日本文化も含まれているように思うし監督が日本映画が好きで影響を受けているということなのでミッドサマーは日本と西洋の融合した作品と思ってもいいと思う。
そこについてミッドサマーを胸糞映画と感じた人の中には日本文化をこんな胸糞に使って最悪と思っている人がもしかしたらいるかもしれない。でも僕はいっさいそんなふうに思わないしむしろ日本映画をリスペクトしてくれていることが嬉しいし、スウェーデン人の評価のように心を広く持ちたい。